3. ソニア・メアリー・シュレジンガー子爵令嬢
ここで、私の自己紹介をしておこう。
私の名前はソニア。そして「ソニア」は前世でプレイしていた乙女ゲーム「聖女プロジェクト」のヒロインのデフォルトネームだ。
聖プロは魔法のある世界にある国のひとつ、ラヴェンステッド王国にある魔法学園を舞台とした乙女ゲームで、色々あって早逝してしまった私が、最後にプレイしていたゲームでもあった。
ゲームの内容は簡潔に言えば、貴族学園に通うことになった平民育ちの子爵令嬢ソニアが学園で様々な攻略対象に出会い、彼らを救っていくことで聖女として目覚めていくというものだ。用意された多彩なイベントをこなしていくうちに聖女ソニアは皆から愛され、敬われ、慕われて幸せな未来を切り開いていく物語を軸にしている。
今から一年半前、母が亡くなりシュレジンガー子爵家に引き取られた直後に、黙々と一人で荷解きをしていた部屋で唐突に、私は前世で日本人として生きていた記憶を取り戻した。
そして、この世界で初めて聞いたのは、まさに「ソニア」の歯車が崩壊した、すさまじい破裂音だった。
だから私は、「ソニア」に転生したというより、その体に何かの理由で私の魂が入り込んでしまって、結果バグを引き起こしたのではないかと疑っている。
ソニアとして生きてきた記憶もあるけれど、「ソニア」はあくまでプレイヤーのための器であって、その中身は――ひどいことを言うようだけれど――空っぽだったのではないだろうか。
それくらい、ソニアの思い出には感情というものが欠落していた。
平民として育ち当たり前に暮らしていたのに、周囲の人たちへの愛情も日々の喜びも、母親が亡くなった時の悲しみすら、ソニアの中にはひとかけらも無かった。かといって人形のように無感動だったわけではなく、笑うべき場面では笑い、泣くべき場面では泣いていた。
でもそれは、必要な時に必要な動作をしていた。ただそれだけだった。
多分ソニアは生まれた時から「歯車」に動かされていた、正真正銘の物語のための器だったのだろう。
その歯車が、私という意識を宿した途端崩壊し、そして私は取り巻く状況から今の自分はソニアであり、ここが聖プロの世界であると気が付いた。
そして気が付いた時には、すでに物語は開始の準備が終わっていた。女手一つで育ててくれていた母が亡くなり、弔いも終わって、父のもとに引き取られ貴族学園に通うため家庭教師による詰め込み学習を受けていた段階だったのだ。
父はシュレジンガー子爵家の当主だが、母はその愛人というか、ありていに言えば父の気まぐれから手を出されたメイドだった。
この世界では結構明確な身分制度があるけれど、かといって人権意識がゼロというわけでもなくて、使用人が主人に手を出されたらお妾さんになるのが一般的……というか、お妾さんになる以外生きていく道がないらしい。
まともな結婚は絶望的だし、かといって未婚で子持ち女性がひとりで生きていけるような社会じゃない。
一方、男性の方も手を出した女性に子供ができたら責任を取るのが当たり前という考え方がある。
身分が釣り合うなら結婚。自分か相手が既婚者か、身分差がある場合は生活と子供の養育費には責任を取らなければ男として情けないと陰口を叩かれたり、商売や社交に影響が出ることもあるらしい。
逆に言えば、ちゃんと女性の生活と子供の養育費さえ払えば、それも社会的地位の高い裕福な男性の甲斐性となるらしい。
そして男性には、子供が成人する十八歳まで不自由なく養育する義務がある。ソニアは十五歳。あと三年は親元で育てなければならないし、引き取って貴族の名を名乗らせるならば貴族の義務である学園に通わせなければならないということだ。
とはいっても、シュレジンガー子爵はソニアを子爵令嬢として扱う気はこれっぽっちもなくて、十八で成人し学園を卒業したら、ある程度まとまった額のお金を渡すので独り立ちするように言われている。
要するに、手切れ金を渡すから出ていけってことね。
まったく酷い父親である。父親だなんて思ったこともないけど、あっちもこちらを娘とは思っていないのだからそこらへんはお互い様だろう。
「――私の「歯車」を壊したということは、君は私と結ばれる気はないと思っていいんだな?」
ようやくダメージから立ち直ったヘンリーが、精彩を欠いた動作で体を起こす。あれほど自信満々で肩で風を切るように街を歩いていたのに、ほんの一時間で随分やつれた様子になってしまったものだ。
「はい。というか、先ほど名前を挙げた方の誰ともそうなる気はありません」
「なぜだ? そこに含まれる私が言うのもなんだが、誰を選んでも将来はこの国の中枢を担う者ばかりだ。皇太子妃、公爵夫人、次期騎士団長夫人、次期宰相夫人、この国一番の魔法使いの妻とよりどりみどりの立場で、その「歯車」とやらを壊すメリットはあるのか?」
「ありますよ。皇太子、筆頭公爵家の子息、次期騎士団長、次期宰相、そしてこの国一番の魔法使いが、ひとりの女に入れ込んでるんですよ? そのうち誰か一人を選んだとして、遺恨が残らないと思いますか?」
「……まあ、多少のわだかまりは残るかもしれないが」
「しかも、皇太子殿下と結ばれた場合、婚約者であり筆頭公爵家令嬢であるエヴァリーン様を、平民育ちの子爵令嬢を王妃にすることに反発する他の貴族への見せしめみたいに北の厳しい戒律の修道院にぶち込んだ後で」
「姉上は王都の社交界を牽引する淑女だ。そうなると貴族たちの反発は免れないだろうな……って待て、なんだって?」
「エヴァリーン様は、皇太子殿下が想いを寄せた相手に激しい嫉妬を抱いた結果身分を盾にした悪質な嫌がらせを繰り返します。皇太子殿下と私が結ばれた後は、未来の皇后を脅かした罪で修道院に入れられるのが、この運命の結末です」
実姉の名を出されれば、ヘンリーもたじろがずにはいられなかったようだ。
エヴァリーン・アンジェリカ・モンターギュはこの世界においてヒロインを追い詰める悪役令嬢である。
平民育ちの子爵令嬢ソニアを何かと目の敵にして追い詰めるけれど、婚約者であり皇太子であるマクシミリアンと実弟であるヘンリールートでは、それこそ命に関わりかねない嫌がらせや妨害を仕掛けてくるキャラクターだ。
「ヘンリー様の苛々が止まらなくなった頃から、皇太子殿下やエヴァリーン様の様子も変わったって心当たりありませんか?」
「……そういえば、姉上はやけに美しさに執着するようになった気がする。大量のドレスや宝石を買いこんだり、贅沢な化粧品を山のように取り寄せたり……貴族の女性ならある程度はそのような面も必要かもしれないが、以前の姉上から考えると、少し異常なほどかもしれない」
ヘンリーは癖のある金の髪をくしゃくしゃとかき混ぜると、くそっ、と小さく吐き捨てた。
「私も、自分のことでいっぱいいっぱいだったとはいえ、今の今まで姉上の行動を不審に思わなかったとは!」
「それが「歯車」の力なんだと思います。何をやっても自分で選択したような気がして、小さな違和感には気が付かなくて、自然と「歯車」の導く未来に進んでいくんじゃないかなと」
「……確かに、私も先ほどまで、自分の行動に少しも違和感を覚えなかった」
これは私の想像だけれど、ソニアには「歯車」を調整する能力のようなものがあったのではないだろうか。
それを動かすことによって望む相手と結ばれると考えれば、ヒロインの能力としては順当な気がする。
それはソニアの体に宿った意志である私にも継承されている。そして操ることが出来るなら、壊すこともできるというわけだ。
「私は「歯車」に作られた未来なんてごめんですし、そんなものに操られた相手と結ばれるのも嫌です。でも操られている人たちは、私よりずっと身分が高くて家がらみでこられたら到底拒めるような人たちではありません。だから、「歯車」が未来に向かって動き始める前に壊したい。――これで、納得してもらえますか?」
ヘンリーは腕を組み、しばらく考え込むように黙り込んで、それから頷いた。
「「歯車」を壊せるのは、君だけなのか?」
「それは判りません。そもそも、「歯車」が見えているのは今のところ、私だけのようですし」
「――確かに、この国の臣民として放置しておけない事態のようだ。いいだろう、君には私をその「歯車」から解放してもらった恩もある。全面的に力を貸そう」
「! ありがとうございます!」
ヘンリーが仲間に入った! これはかなり、力強い味方である。
「他の者の「歯車」はまだ手付かずなのか?」
「はい、ヘンリー様が初めてです」
「そうか。……なぜ私が最初だったか聞いても?」
「チャラ男で一番近づきやすかったからです」
「チャラ男……」
予想とは違う返事だったらしいけれど、同学年で女生徒なら来る者拒まずのヘンリーが、もっとも難易度が低かったのは間違いない。
「他の取り巻きの女の子がいない隙を狙うのは一苦労でしたけど、女の子に「ヘンリー様、こっちに来てください」って誘われたら、路地裏までホイホイついてくるのはヘンリー様だけなので」
「分かった、もういい、私が悪かった」
ヘンリーは再び、テーブルに突っ伏してしまったけれど、次の立ち直りにはそれほど時間はかからず、すぐに顔を上げる。
「これは確認だが、「歯車」を壊すには、キスをしなければならないのか?」
「いや、キスはヘンリー様がしてきたんじゃないですか。「歯車」に干渉するには相手と接触する必要があるんで、抱擁でいいと思います」
「……うう」
「これは私の感覚ですけど、どうも接触面の広さが破壊の効率と連動しているみたいなんです」
この世界の基準だと、男女でハグだけでもかなり外聞悪い。恋愛結婚もそれなりに認められているとはいえ、それも身分の釣り合う者同士で、親も公認という前提であり、未婚の男女が物陰で抱き合うなんていうのはやっぱりあまり良い目では見られない。
学生といえども、こちらの世界は恋愛相手イコール結婚くらいの貞操感覚なのだ。軽薄に女の子をとっかえひっかえ連れ回しているヘンリーは社会的に見れば、いわゆる不良である。
なんとか手をつなぐくらいで壊せたらいいけれど、確実を取るなら抱き着いて一気に壊してしまう方がいいだろう。
「僕はどうして、あんな……ふしだらな……」
キスがよほどショックだったようで、ヘンリーは唸るように言った。
「ひどい言い草ですね。私は一言も責めてないのに」
私の目的はあくまで「歯車」の破壊であって、抱き着いたところにキスしてきたのはヘンリーの方だ。それも「歯車」の影響下にあった彼には責任能力がないだろうとあえて流していたというのに、貞操を奪われた女の子みたいに落ち込まれてはこちらの立つ瀬がない。
「違う! いや、違わないが……君以外の、女性に対しても不誠実な行いばかりをしてきてしまったことを思い出してしまって」
「それも「歯車」のせいですよ。私、「歯車」が見せる運命の前後もちょっとだけ見えるんですけど、ヘンリー様は本当は寂しがりで真面目で一途で、でも好きになった相手には情熱的なんですよね。お姉様に抑圧されて家族の期待も重責で、いつか家族に見捨てられるんじゃないかって試し行動のように女の子をとっかえひっかえしていたけど本当にエッチなことはしてなくて」
「もういい!」
悲鳴のような声に言葉を呑み込む。別にヘンリーをいじめる気はないので、これくらいにしておこう。
「落ち込んでいる場合じゃないですよ。次の「歯車」を壊す相手はエヴァリーン・アンジェリカ・モンターギュ様……ヘンリー様のお姉様なんですから!」