29. 皇太子・エイドリアン・ヴァレンティン・ラヴェンステッド6
公爵家に戻ると、先に下校したエヴァは団欒室で待っていてくれた。
ふわっとした光沢のある淡い黄色のドレスは裾が優雅に広がっていて、エヴァによく似合っている。ゲームでは赤や青といった強い色ばかり身につけていて、迫力美人のエヴァにはよく似合っていたけれど、金髪に白い肌、ほっそりとした体躯のエヴァにはこういう淡い色もすごくよく合っている。
「お帰りなさいヘンリー、ソニア。今日はどうだったかしら」
「うん……」
言葉を濁すと、エヴァはあら、というような表情を浮かべて、ちらりとヘンリーを見る。それから、手を差し出してくれた。
「ソニア、こちらにいらっしゃい」
「うん……」
エヴァの隣に腰を下ろすと、すぐにシャーリーさんが紅茶を淹れてくれた。今日はミルクと砂糖がたっぷりのロイヤルミルクティーで、少しクリームが入っているらしく、濃厚ですごく美味しい。
「どうしたの? 何かあった?」
「ううん、今日も、エイドリアン殿下の「歯車」は壊せなかったよ」
「それを気にしているの? 殿下はお立場がお立場だから、「歯車」を壊すのも慎重にしようと決めたじゃない」
ううん、と首を横に振る。正直、この胸のもやもやとしたものを、どう表現すればいいのか、自分でもよく分からない。
「ソニア、気になることがあるなら言ってちょうだい。大丈夫、ゆっくりでいいわ。――一体何が、貴女にそんな顔をさせているの?」
エヴァにそう促されて、きゅっと唇を引き結ぶ。
「ええと、エイドリアン殿下のこと、まだ学園内では噂にはなってないよね」
「そうね、静かなものだわ」
「でも、毎日廃温室には来ているから……それって、そのためだけに学園にお忍びで来ているってことだよね」
「……そうね」
エイドリアンはこの国の皇太子で、つまり次期国王だ。それがそれなりの期間学園から姿を消してしているだけで、異常な事態なのだ。
貴族学園は未来の貴族社会の縮図であり、将来この国を支配していく貴族たちが若いうちに交流を深め、派閥の絆を形成することも大事な役割のひとつである。
その中心となる未来の国王が丸々社交から離脱している状態だ。いくらすでに側近の枠が埋まっているからといって、今の時期にエイドリアンと知己を持ちたいという貴族たちの思惑は、大きく外れたことになる。
いずれ王族に迎えられるエヴァを近くで見ていれば、彼女が学生のうちからどれほど社交を重要視しているか分かってしまう。
高い成績で威厳を保ち、周囲の人たちの話をよく聞いて、長期休暇の間は周辺の領地に出かけては顔をつないでいた。
むしろ跡取りのヘンリーはなんでソニアと遊んでいるのか、不思議なくらい精力的に動き回っていた。
エヴァは大変だとか辛いなんて絶対に口にしないけれど、簡単なことではないはずで、それらが将来王妃になるための地盤作りというのは私でも分かる。
それなのに、エヴァはこんなに頑張っているのはエイドリアンのためなのに、そのエイドリアンは学園をサボっているだけならともかく、今はソニアに会うためだけに毎日学園に通ってきているのだ。
エイドリアンは巨大な「歯車」に操られているだけ。本来の彼はきっと、エヴァが尽くすに足る素晴らしい皇太子なのだろう。
「歯車」を壊してしまえば、きっと元のエイドリアンに戻るはずだ。
頭ではそう思うのに、きっと、エヴァの近くに居過ぎて、彼女のことが大好きになってしまったせいだ。
爽やかな笑みを浮かべて「ソニア」に会うためだけにいそいそと通ってくるエイドリアンを見ると、胸に黒いものがもやもやと涌いてしまう。
「ソニア。殿下は本来、とても素晴らしい人よ。自分の弱さを知っていて、その弱さを克服するために努力ができる人。それは、自分が万能であると思い込むよりもずっと辛い道だし、ずっと人に優しくできる性質であるとわたくしは思っているわ」
「うん……」
「そんな殿下だから、わたくしはお支えしたいと思ったの。今の殿下は、あなたに「歯車」を壊してもらう前のわたくしと同じ。ごてごてと着飾って、美しさを保つと言われて数滴で金貨を積むような魔法薬を買いあさり、それでも満たされず苛々として人に当たるような見苦しい真似もしていたわ」
「……ごめん、想像できないや」
ゲームの中のエヴァリーンは、高慢で人を見下し傷つけることに躊躇のないキャラクターだったけれど、今のエヴァに慣れ過ぎて、もう彼女とエヴァリーンを同一の存在と見ること自体、難しくなってしまった。
「それでも、そうだったの。それに、学園に入られてから、あの方は今の状態になってしまったしね。もう慣れてしまったわ」
「でも……でも、エヴァは殿下が好きなんじゃん! 今だって、傷ついてるはずでしょ!」
「いいのよ」
「よくないっ!」
「いいの、仕方ないのよ」
自分に言い聞かせるような言葉は、エヴァには似合わない。
きっとこれが私やヘンリーに関することなら、もっとずばっと切り捨てるように、とっとと正しい方を選びなさいと言ったはずだ。
でも、そんなこと、とても言えなかった。
あれほど気丈で、いつも毅然としているエヴァの緑の瞳が、うっすらと涙の膜を張って揺れている。
はらはらと泣きださないエヴァの強さが、いっそうエイドリアンへの腹立たしさに変わってしまう。
「ありがとうソニア。あなたは、わたくしのために怒ってくれているのね」
そんなのは、当たり前のことだ。
「歯車」を壊すのは、この世界で平穏に生きていくためにやっていることだから、高位貴族だらけの攻略対象たちに接近するために、まずは一番難易度の低そうなヘンリーに近づいた。そしてそれは、とても上手くいった。
でも、エヴァとヘンリーが今のように親身になってくれるなんて、想像もしていなかった。別に「歯車」を壊すための道具のように扱われるとまでは思っていなかったけれど、ゲームのキャラクターの印象ではそうなってもおかしくない、そんなイメージだったのだ。
こんなに、二人のことを大好きになるなんて、想像もしていなかった。
悲しいのはエヴァの方なのに、感情を抑えられない私を気遣ってくれるのが申し訳なくて、エヴァの悲しみに、少しでも寄り添ってあげたくて、隣に座るエヴァを抱きしめる。
エヴァは相変わらず細くて、柔らかくて、いい匂いがした。
「どうしたの。また「歯車」ができてしまった?」
それは、エヴァなりの照れ隠しの言葉だ。ぎゅっと抱きしめて、首を横に振る。
「友達は、悲しい時はこうするの」
エヴァは一人でも、きっと大丈夫な人だ。でも強いからって一人でいなければいけないわけではないだろう。
エヴァに比べれば白鳥とみみっちぃアヒルの子のようなものだけれど、アヒルの子だって、寄り添えば少しは温かいかもしれない。
「――そうなのね」
「大丈夫だよ。私、きっと「歯車」を壊すから。そうしたら、きっと全部、上手くいくから」
「ええ……、そうね」
エヴァは扇を置いて、そっと抱きしめ返してくれた。
「きっと全部、上手くいくわ」
その声がほんの少し震えている気がして、息を詰めて、しばらくの間エヴァに寄り添っていた。




