28. 皇太子・エイドリアン・ヴァレンティン・ラヴェンステッド5
廃温室に行くと、今日はエイドリアンが先に来ていた。こちらに気づくとやあ、と嬉しそうに、眩く輝く笑顔を見せる。
エイドリアンとは約束をしているわけではなく、たまたま足を向けた先にいる相手で話をするようになった、という形で続いている。私はできるだけ毎日廃温室に通っているけれど、エイドリアンは来ない日もあるし、来ても放課後の鐘のギリギリの時もあれば、今のように先に待っていることもあって、出現は大分ランダムだ。
「それで、ダンスも型通りにやっているんですけど、いまいち優雅さに欠けると言われちゃうんですよね」
「あれはもうこなした回数だからね。ソニアもパーティに出れば、自然と上手くなると思うよ」
「家庭教師の先生には、リズム感が致命的にないんだろうと言われました。こう、脚と腕を全く違う方向に動かすのって、難しくありませんか?」
「そうだねえ。私は女性をエスコートするときに、足を踏まれるのが苦手かな。鉄板を仕込む人もいるらしいけれど、そうしていると女性に白い目で見られることも多くてね」
痛い思いをしないに越したことは無いのではないかと思うけれど、エイドリアン曰く、鉄板を仕込んでいると、男性の足を踏んだ時に女性の靴のヒールが折れてしまうことがあるらしい。
柔らかい革靴ならば男性が痛い思いをするだけで済むのに、それを避けて女性を危険な目に遭わせるのが男らしくないという考え方なのだそうだ。
「ええと……足、踏まれるとかなり痛いですよね」
「私は経験がないが、甲の骨が折れる者もいるようだよ。だが女性は羽のように軽いという前提なので、派手に痛がること自体マナー違反なんだ」
華やかなダンスの影に、そんな事情があったとは考えたこともなかった。なんと恐ろしい文化だろう。
「ダンスって、必ずやらなきゃいけないんですかね? 社交なら、もうお酒飲みながらお喋りでよくないですか」
「ふふ、ソニアは面白いことを言うね。だが私もダンスはそんなに得意じゃないから、気持ちはわかるよ。男子は剣術と馬術のほか、ダンスも必修科目なんだ。情けない話だが、私はどれもあまり得手ではなくてね」
そう言うエイドリアンだが、作中ではなんでもスマートに、かつ完璧にできる無欠の王子様だった。
そう見えるように努力しているということなのだろう。
勉強を教えてくれるという話だったけれど、男子と女子では受ける科目がかなり違っているので、刺繍の意匠はどういうものが流行でどうすれば教師の受けがよいかとか、貴族の文化や流行を雑談交じりに聞くのが最近の廃温室での過ごし方だ。
ソニアは貴族といっても名ばかりもいいところだし、エヴァやヘンリーとはこうした話はあまりしないので、ダンスの話のように、エイドリアンとの会話は驚くことも多い。
正直、ダンスの話を振ったことで練習してみようか? という流れになるのを期待したけれど、エイドリアンにはではここで一曲という気はこれっぽっちもないらしい。会話をするときも必ず間に人二人分以上は間隔を取っているし、ほとんど毎日のように会って随分打ち解けたようなのに、隙があるように見えて案外ガバッと行くほどには近づけなかった。
もういっそ無防備に背中を向けてくれないかなぁなんて思っていると、講堂の鐘が、放課後を知らせて鳴り響くのが聞こえてくる。
「あ、そろそろ行かないとです」
「ソニアはこの時間に行ってしまうけど、どこかのサロンに所属しているのかい?」
「いえ、分からないところを先生に質問しに行ったり、復習をしたりしているだけです。そもそも、私を入れてくれるようなサロンなんてないですよ」
後半は別に自虐のつもりはなかったけれど、エイドリアンがふっと表情を曇らせたので、あはは! と貴族令嬢にあるまじき声を上げて笑って誤魔化す。
「まあ、私と交流しても得することはありませんし、私も生粋の貴族の皆様と、何を話していいか分かりませんから、そちらのほうが気楽なんですけど」
「ソニアは面白いし、魅力的な人だよ。話をしてみれば、みんなソニアの良さがわかると思うけれど」
「そんなことを言ってくれるのは、エディ様だけですよ」
いや、エヴァは結構面白がってくれているかもしれない。ヘンリーには呆れられていることの方が多い気がする。
ジュリアン先生はあからさまに面白がっているけれど、あれは完全に方向性が違うと思う。
「じゃあ、また!」
「うん、またね」
穏やかに手を振ってくれるエイドリアンににこにことして別れ、足早に進んでしばらくして、ヘンリーと落ちあう。
念のため、ヘンリーとの合流場所は毎日変えている。同じパターンで行動すると予想されやすいということと、ヘンリー自身が学園内では目立つ人だ。今でも女生徒には人気が高いし、毎日決まった場所にいれば自然と彼目当ての女の子が集まってくる可能性が高いからということもある。
皇太子と密会している女生徒が、その後決まって筆頭公爵家の子息と落ちあっているなんて、どんなひいき目で見ても怪しいもんね。おまけに今の私は名目上は、公爵家の行儀見習いだ。公爵家が皇太子にスパイを放っているなんて思われたら元も子もないので、その辺りは慎重に振る舞っている。
今日は、塔の傍の大きな樹を目印に落ちあった。この辺りは普段から人が立ち寄らないから、待ち合わせにはちょうどいい。ヘンリーを見つけて駆け寄ると、彼は時間つぶしに本を読んでいたらしく、こちらに気づくと小さな本を畳んで上着のポケットにすっとしまう。
「ソニア。――どうした?」
「え、何がですか」
「機嫌が悪そうだ、珍しく」
心配するような表情のヘンリーを見上げて、両手で自分の頬を包み、もみもみと揉みしだく。
「そんなに、変な顔してました?」
「いや、少しそうかなと思っただけだ。――なにがあった?」
そう尋ねる声は、重たいものだ。顔を覗き込まれて美形が不用意に顔を近づけないでほしいと思うけれど、その瞳があまりに真剣だったから、軽口を叩ける雰囲気ではなかった。
別に深刻なことが起きたわけじゃないし、今日も普通にエイドリアンとお喋りをしただけで、特筆して報告できることがあったわけじゃない。
「別に、なにも」
塔に向かってヘンリーと並んでてくてくと歩きながら、自分の胸にあるモヤモヤとしたものを、どう言葉にするべきなのか分からない。
「何もなかったんですけど、なんか、胸の辺りが気持ち悪くて」
「……ふむ」
ヘンリーはうなずくと、ズボンのポケットに手を突っ込んで、ソニア、と声を掛ける。手を取られて、その手のひらにぽんと包装紙の両端をねじった小さな包みを落とされた。
「飴ですか?」
「ボンボンだ。食べてみてくれ」
包みを解くと、中には綺麗なピンク色の丸いものが入っている。一見したらやっぱり飴だけれど、言われるまま口に入れると、食感はむちゅっとしていて、砂糖をコーティングしたグミに近いけれど、噛むと中からとろっと濃密な液体が溢れてくる。
その瞬間強烈な甘さと、葡萄の甘酸っぱい味が一気に口の中に広がって、ぱっと目を見開いた。
「おいしいです!」
「領で作っている、ワインボンボンだ。滞在中、そう言えば食べさせていなかったなと思い出して、取り寄せた」
「えー、すごい甘い、美味しい」
「ワインの他にウイスキーやブランデー、蜂蜜酒を使ったものもある。どれもそれぞれ味が違うんだ」
本当は公爵家に戻ったら瓶入りをやろうと思っていたんだけどな、と付け加えられる。
どうやら今のは、ヘンリーの持ち運び用のおやつだったらしい。
「……ヘンリー様って、優しいですよね」
「は? な、なんだ急に」
「いえ、なんかしみじみ、ちゃんと相手を見ているんだなあって思って」
学園は、どこで誰が聞いていないとも限らない。ヘンリーと二人で行動しているのはギリギリごまかしがきいても、王家の話をするのは危険だとエヴァとヘンリーの二人から、よく言い含められている。
そもそもソニアは「エディ」が皇太子エイドリアンだとは知らない、その前提で動いているのだから、王家の話題を口にすること自体おかしいのだ。
「――家に戻ったら、話を聞くから」
「はい」
「研究塔に行くのは、今日はサボるか?」
ヘンリーの言葉にあは、と笑う。
「ジュリアン先生の反応が怖いですし、それはやめときましょう」
「そうだな」
笑ったら、少し元気が出た。
ヘンリーがいつもと変わらないからかもしれないし、貰ったボンボンがすごく甘くて美味しかったからかもしれない。
――ヘンリーが傍にいてくれるのが、当たり前になっちゃってるなあ。
それは多分、あまり良いことではないのだろうけれど、口の中に残る甘い甘いワインの残り香と、深まっていく春の心地よい乾いた風が、まあいいか、そんな日もあるよねなんて、そんな風に思わせた。




