27. 皇太子・エイドリアン・ヴァレンティン・ラヴェンステッド4
「こんにちは。静かなところを探していたらここに来てしまったのだけれど、私もここにいていいだろうか?」
美しい彫刻に神様が命を吹き込んだらこうなるかもしれない。そう思わせるような現実離れした雰囲気のエイドリアンににこりと微笑まれて、こくこくと頷く。
「ありがとう。それで、何を頑張るんだい?」
エイドリアンはものすごく優雅な所作でベンチに腰を下ろすと、にこりと微笑んで聞いてくる。ただ座るだけの動作に優雅もなにもあるのかと思われるかもしれないけれど、一挙手一投足、指先の動作どころか髪がさらりと落ちる動きまで完璧の一言だった。
「あ、ええと、勉強とか、貴族の教養とか……。えへへ、私、見ての通り貴族らしくなくって、学園では浮いちゃっているんで」
「ふうん……でも、君はとても可愛らしいし君は君で、いいんじゃないかな?」
にこっ、と微笑まれてそんなことを言われると、私のなけなしの乙女心が上げた悲鳴が聞こえた。
元々乙女ゲームのユーザーである。イケメンが良く分からない理由で冷たくしたり口説いてきたりする展開には慣れているつもりだけれど、エヴァやヘンリーもそうであるように、画面越しでない現実の破壊力は相当なものだ。
もしエヴァとヘンリーで免疫をつけておかなかったら、ちょっと危なかったかもしれない。そう思うくらい、エイドリアンは他の攻略対象とはちょっとレベルが違う。さすがヘンリーと並んで、聖プロで人気を二分していたキャラクターだ。
ヘンリーが女性慣れして、ドレスや宝石をプレゼントしてくれる危険な男なら、エイドリアンは王子でありながら純朴で、ありのままの自分を受け入れてて包み込んでくれるところが人気があった。
私もユーザーだった時はどっちも好きだったけどね。実際のヘンリーは女慣れした危険な男どころか夜道を一人で歩くな体を冷やすな食べ過ぎるな腹を壊すぞとガミガミ言うし、エイドリアンも本来の性格は多分全然違っていたりするんだろう。
「えへへ。やっぱり、できることは頑張りたいなって! 本当は結構諦めていたんですけど、冬まつりで素敵な人に出会って、私もそんなふうになりたいなあって思ったんです! えーっと、先輩ですか? 私は一年生のソニアです!」
「えっ……あ、ああ。私は三年生だよ」
エイドリアンは一瞬ギョッとした様子だったけれど、すぐに柔らかく微笑んだ。
まさか貴族学園の生徒で、自分の顔を知らない人間がいるなんて想像もしなかったのだろう。
そう、この時点でソニアは目の前にいる人が冬まつりで自分に金貨をくれた人であることも、もっと言えば相手が皇太子であることにも気づいていない。
「あ、私、中途入学で、まだ学園の事よく分かっていなくて。失礼だったらごめんなさい」
「ああ、そうなんだね。いや、失礼だなんてことはないよ」
自国の皇太子の顔を知らない貴族なんて貴族失格と言われても文句は言えないけれど、ソニアは市井で育って入学前は座学の詰め込み教育をされただけなので、貴族に顔見知りはほとんどいない。皇太子殿下素敵よねーキャー! なんていう友達もいないし、精々クラスメイトの名前と顔がぼんやり一致するかなぁという程度だ。
エイドリアンは入学式では祝辞を述べたらしいけれど、ずっと学園に登校しない日々が続いていたのでソニアがその存在を認識する機会はこれまで全くなかったのだ。さすがにこれは許されたい。
「私、貴族といっても妾腹で、一応学園に入学させてもらったんですけど、卒業したら平民に戻ることが決まってるんです。だから、がんばっても仕方ないやって思っていたんですけど……」
エイドリアンルートにおけるソニアの台詞は、長期休暇の間に必死に記憶から絞り出し、メモに書いて何度も復唱してきた。演技力にはまったく自信がないけれど、おかげで多少のぎこちなさも、目がくらむような美形に圧倒されている、程度に留められている、はず。
「努力は素晴らしいし、努力しようと思える君も、私は素晴らしいと思うよ。よければ僕が勉強を教えてあげようか」
「えっ、いいんですか? ありがとうございます!」
エイドリアンが皇太子であると知らない設定なので、親しい先輩に接するように振る舞うと、エイドリアンもすぐにそのノリに慣れたらしい。
「それで、入学したばかりだったので、他のクラスの伯爵家の令嬢を怒らせてしまったみたいで」
ソニアが微妙にぼっちになってしまった原因は、他のクラスの令嬢が落としたハンカチを拾い、気軽に声を掛けてしまったことにある。
伯爵家の中でも上位に位置するその令嬢には数人の取り巻きがいて、本来は直接声を掛けるのではなく、その取り巻きの中でも最後尾にいる子に渡さなければならなかったらしい。令嬢は軽く眉を寄せて、「そう、ありがとう」と素っ気なく言い、ハンカチはその最後尾の子が受け取って、全員に背中を向けられた。
別にいじめを受けたわけではないし、その子とはそれっきりだったけれど、同じクラスの男爵家の子にそっと落とし物を拾った時の「作法」を教えてもらい、その日からさらに、遠巻きにされるようになってしまったのだ。
「ああ、学園内では身分の差はないという建前だけれど、伯爵家と子爵家の間が一番そういう空気が強いと聞いているよ。本当に、困ったものだね」
「いえ、私が迂闊だったんです。学園のルールも知らないのに、出しゃばっちゃったので」
そういう細かいルールに関しては聖プロには描かれていなかったので、前世庶民、今世も育ちは庶民の私としては手探りでやっていくしかないので、時々まあまあの規模の失敗もしてしまうのである。
そうした雑談を交え、二時間近くお喋りをして気が付けば午後の授業の終わる鐘が鳴り響く時間だった。放課後はジュリアン先生の研究塔に顔を出す約束をしているので、慌てて立ち上がる。
「私、行かなきゃ! あっ、先輩、先輩の名前、伺っていいですか?」
生まれた時から皇太子としてしか見られてこなかったエイドリアンは、ソニアが親し気に振る舞ってくる態度が新鮮で、その時間をまだ失いたくなくて、皇太子であると告げることはない。
そのシナリオ通りに、エイドリアンはふっと微笑んだ。
「私は……私はエディだ。また会えるかな、ソニア」
「私は結構この温室にいますから、よければまた!」
「ああ、またね、ソニア」
軽く手を振って見送ってくれる、エイドリアンの笑顔は実に爽やかだったけれど、その背後にある巨大な「歯車」は彼の爽やかさとは対照的に、不気味に回転していた。
* * *
「皇太子殿下が偽名を使って子爵令嬢と密会なんて、大胆なことをするねえ」
反対側の校舎の外れでヘンリーと落ち合い、春になっても不気味な雰囲気の漂っている研究塔に足を運ぶ。
今日も今日とて、ジュリアン先生の出してくれるコーヒーはビーカーに入っているけれど、もはやヘンリーも慣れたもので、黙々とそれに口をつけた。
「皇太子殿下はそんな軽率な方ではなかったし、公爵令嬢である婚約者殿への体面もある。そんなことをしたらどうなるか考えられない方ではないだろうに、「歯車」っていうのは怖いものだねえ」
「ジュリアン先生は、殿下と面識があるんですか?」
「僕の兄が、殿下の家庭教師を務めているんだよ。僕にという話もあったんだけど、家が全力で兄を推してね。僕も自由に研究できる方がよかったから、この学園の教師に口利きしてもらったんだ」
「ご家族も苦労されているんですね」
ヘンリーが真面目な顔で頷く。かなり失礼な言葉に思えるけど、ジュリアン先生はそうそう、と陽気に笑った。
「僕はねえ、折角魔力が多いんだから宮廷魔術師にという話もあったんだけど、性格的に宮仕えに向いている方ではないし、研究しているほうがずっと楽しい。政略結婚にも使えないっていうんで結構持て余されちゃってね。父が学園の理事長と懇意だからこうして教職を得ているけれど、そうでなかったら実験素材が豊富な森の傍に家を建ててそこで研究をしていただろうなあ」
学園の中にあるだけでも結構不気味なのに、この塔が鬱蒼とした森の傍にあったりしたら、怖くて近くの住人も近づけないのではないだろうか。
子供たちが肝試しに出かけたまま帰ってこないという噂が実しやかに流れそうだ。
「ジュリアン先生、侯爵家の人でよかったですね」
「ふふ、なんなら卒業後は君も助手になるかい? 通ってくる手間も省けるだろう」
「いえ! 私は公爵領で賄いつきのレストランのウエイトレスが第一希望なので!」
「ウエイトレス? なんでまたそんな……」
心底不思議そうな様子で首を傾げたあと、ジュリアン先生はちらりとヘンリーに視線を向け、ははぁ、と笑う。
「賄い目当てにウエイトレスなんてしなくても、僕の助手なら、そうだな、月に金貨三枚出すよ。それでお休みの日は王都のレストランをはしごして回ればいいじゃないか」
「金貨……三枚? 年にじゃなく、月に?」
「僕、こう見えても執筆している魔術書が高く売れるし、弟子の実家からも多額の勉強代が支払われているから、お金には全然困っていないんだ。君は字がきれいだから、魔術書の清書や写本を手伝ってくれたらさらに金貨二枚つけるよ」
ということは、月に金貨五枚!?
前世で言うなら、月収百万を超えることになる。一気にセレブの仲間入り、とまではいかないけれど、相当に裕福であるのは間違いない。
「ごくり……」
「おい、惑わされるな! 王都には新鮮な魚はないし、君が大喜びしていた海藻類や節類もないぞ。ロブスターには君、小躍りしていたじゃないか」
「た、確かに……」
王都もお金を出せば美味しい料理が食べられるけれど、特に海産物は鮮度が命だ。
ぷりっぷりにボイルされて何か甘酸っぱいソースがかけられたロブスターは、心底美味だった。思い出すだけで口の中にじゅわ、と唾液が湧いてくるくらいだ。
「あはは、まあ、考えておいてよ。僕は家の跡取りとは縁が遠いし、この通り貴族らしさなんてものは欠片もないから、助手のついでにお嫁に来てくれてもいいからさ」
さすがにジュリアン先生のお嫁さんは荷が重い。いや、それを言ったら助手だって務まるとも思えない。
毎日のように通っているうちに大分打ち解けてはきたけれど、まだまだ得体が知れなくて怖い人だし、売れてる魔術書とやらの中身だって、何が書かれているか分かった物ではない。
大変に魅力的な申し出ではあるけれど、お金に換えられない心と胃の平安というものもある。ジュリアン先生自体本気というより軽口の類だろうし、そのうち忘れてしまうだろう。
今日のコーヒーはちょっと濃かったのか、ヘンリーはしきりに胃の辺りを撫でていた。私はブラックのコーヒーは好きだけれど、ヘンリーはあまり得意ではないらしい。
この塔のコーヒーにはミルクがつかないので、ヘンリーは時々、こんな仕草をするのだった。




