26.皇太子・エイドリアン・ヴァレンティン・ラヴェンステッド3
美味しいものを食べて遊んで大きなお風呂に入り、ふかふかのベッドで熟睡して、長期休暇は本当に楽しかった。
休暇が終わらなければいいのにというのは全人類の願いのようなものだと思うけど、こんなに切実に願ったのは初めてだった。
ずっとお休みだったらいいのになと密かに思っていると、公爵家に到着するとこれまでは客間に泊めてもらっていたのに、部屋が用意されていた。
「客用だから広めにしておいた。室内にあるものは全部君の好きにしていい」
エヴァは到着早々馬車に揺られて疲れたから休むと私室に戻ってしまったので、案内してくれたのはヘンリーだ。ふかふかの新しい絨毯に大きな窓からシンプルなカーテンが下がっている。ベッドは天蓋がついていて素敵な彫刻の入った四本の柱に支えられていて、他にも豪華なソファに豪華なテーブル、豪華なクローゼットにはふらっと街にも出やすいワンピースが詰まっていた。
「いや、いやいや何を言っているんですか」
「姉上が用意したものだ。私には決定権はない」
「ええ……」
本領のお城でもすごく素敵な部屋を個室として借りていたけれど、それはあくまで招かれた相手を歓待するという形だったからで、王都には一応自宅があるのに、こんな部屋を用意してもらう理由はない。
何と言って断ろうかと思っていると、こほん、とヘンリーはわざとらしく咳払いをした。
「君は今、姉の侍女としてうちに行儀見習いにきている、という形になっているわけだが」
「あ、はい」
「行儀見習いをしている間はその家に住み込みになるのは、別に珍しくない。というか普通のことだ。シャーリーも公爵邸に部屋があるし、他の使用人たちもそうだろう?」
「……はい?」
「君は行儀見習い中なのだから、自宅に帰らなくていいし、ここから登校すればいい。食事も僕たちと同じ物を用意させるし、風呂も入り放題だ」
それは非常に魅力的ではある。あるけれども。
「でも、それって学園には、私がエヴァやヘンリー様の近くにいるの、バレバレですよね」
「別に構わないだろう」
「ううん……」
学園が始まれば、初夏の卒業式までにエイドリアンの「歯車」を壊すのが目標になる。エイドリアンとエヴァは三年生なのでそれ以降は卒業になるけれど、私とヘンリーは一年生なので、その先も学園生活が残っている。
公爵家とつながりのある子爵家の令嬢だと思われると、今のぼっち気味だがあと腐れのない学園での時間も、色々と影響が出る気がする。
実際にソニアがエヴァの侍女になるならともかく、卒業後は平民に戻ることが決まっているので、社交の相手として見られても空振りさせてしまうことになるし、平民になったあとでそれを恨みに思われても困るのだ。
「煩わしいことは、全て私が解決しよう」
色々と思考をこねくり回していると、それを正確に読み取ったらしいヘンリーがこともなげに言う。
「大体、殿下の「歯車」を壊したあともエドワードやジュリアン教諭が君を放っておくと思うか? 姉上が卒業した後の方がむしろ、連中の厄介さは増すだろうな」
「あ、ああー……」
「どのみち君の学園生活には庇護が必要だ。幸い我が家は筆頭公爵家、モンターギュ家をないがしろにできる貴族は国内にはひとつもない。君と同年の僕が、姉からその役を引き継ぐことになる」
「でも、ヘンリー様にそんな義理はなくないですか?」
「……随分寂しいことを言うじゃないか」
ヘンリーはふっ、と呼吸だけで笑う。そういう仕草はエヴァにそっくりで、少しドキッとする。
エヴァと並んでいるとエヴァの迫力が強すぎるけれど、ヘンリーも目が覚めるような美形であるのは間違いないのだ。所作だって洗練されているし、紳士だし、つまり俗っぽくいえば、かっこいい。
さすが女の子に囲まれてキャーキャー言われていただけのことはある。
「君とはこの休暇で、随分仲良くなったつもりでいたが……私の一方的な気持ちだったのか?」
「いやあ、ヘンリー様にはたくさんごちそうになって。屋台美味しかったですね。特にあのクレープ! バターと砂糖しか使ってないのに、なんであんなに美味しいんですかね」
楽しい記憶を反芻していると、確かに隣にはいつもヘンリーがいた。ヘンリーだって別に暇というわけではないと思うんだけど、随分沢山世話を焼いてくれたと思う。
「歯車」を壊すだけなら、休暇中はエイドリアンとの接触の機会はないのだから、また新学期にでもよかったはずだ。それなのに本領への帰省に連れて行ってくれたし、いっぱいいい思いをさせてくれた。
そう思うと「歯車」を壊したらあとは疎遠になるだろうと決めつけている自分が、なんだか段々、薄情な気がしてくる。
「確かに、私たち、もうかなり仲良しかもしれません」
「そうだろう?」
「一人でジュリアン先生のところに行くの怖すぎだし、気が付いたら何かの実験に使われてそうだし、エドワード様が迫ってきたら今度は私が胴から真っ二つにされそうでめっちゃ怖いし……」
あれ、これってむしろ、ヘンリーに頼らなければ、私の学園生活は詰んでいるのでは。
「ええと、ヘンリー様」
「ああ」
「頼りにしてます!」
ヘンリーは満足そうにうなずいた。力のある人が下の者を助けるのは貴族の神聖な義務らしいので、ヘンリーにもそうした感情があるのかもしれない。
ノブレス・オブリージュってやつか。でも恩は与えられるだけでは駄目だと思うのは、やっぱり私の中には日本人の魂が入っているからだろう。
「代わりに私ができることがあったら何でも言ってくださいね! ヘンリー様のためなら何でもします!」
「……軽々しくそういうことを言うのを、まずは控えてくれ。特に私以外には言わないように」
神聖な貴族の義務の前に、私の意気込みは悲しいかな、そう一蹴されてしまうのだった。
* * *
新学期は特別な式典などもなく、ふわっと始まった。
まだ自分たちの領地から戻っていない生徒も多いので、学校内は人が少なく、新学期なのにどこか閑散とした雰囲気だ。
授業も少ないので、午後の一コマの授業を終えると人目を忍んで廃温室に通う。ここが終わればヘンリーと合流してジュリアン先生の研究塔に向かい、日が暮れる直前に馬車で公爵邸に帰るというせわしないスケジュールだった。
廃温室に通うようになってもエイドリアンは現れない。エイドリアンが学園に戻ってきたら騒ぎにならないわけはないので、騒がしくなってから再会の準備をしてもいいだろうと思っていたけれど、ここに通い慣れている雰囲気づくりのためにも早めに通っておくのがいいというエヴァとヘンリーの助言により、学園に戻ってからすぐここに通うようになった。
廃温室とは言っても貴族学園の設備なのでボロボロということもなく、ちょっと埃っぽい程度だ。ガラス張りの建物の中はまだ少し肌寒い春の中でも十分暖かい。植物類は今は撤去されていてがらんとしていて、取り残された休憩用のベンチやテーブルがぽつぽつと置かれているだけだ。
学園内には居心地のいいテラスや個人で使える個室もたくさんあるので、わざわざ校舎の外れの廃温室までくる生徒もいないらしく、人が出入りしない建物特有の沈んだ雰囲気だけれど、こういうのも私は案外好きだ。
特に最近は、ずっと人といるせいか、静かだと色々なことを考えてしまう。
エヴァには幸せになってほしいなあとか、エドワードは本当に困ったなとか、ジュリアン先生の呼び出しっていつまで続くんだろうとか。
ヘンリーは、領地にいる間に、すごく優しくなった気がする。
エヴァは最初から、すごく分かりやすく好意を寄せてくれたし、言葉も行動もストレートだからなぜか気に入ってくれているというのはよくわかるけれど、領地にいる間は忙しくしていて、王都の公爵邸にいるときよりも一緒にいる時間は短いくらいだった。
そんな私を構ってくれたのは、ヘンリーだ。色々なところに連れ出してくれて、危ないことが起きたら助けてくれた。元々優しい人なんだと思うけれど、それがもっと分かりやすかったというか。
「うーん……」
これはいけない。
なにかこう、良くない方にずいずいと流されかけている気がする。
ヘンリーみたいな顔のいい紳士に優しくされると、勘違いしてしまいそうになるのは、女子として流石に仕方がないと思う。散々私を迂闊だとか考えなしのように言うけれど、ヘンリーだってその辺は大概なのだ。
だから、私の方でブレないように気を付けないと。
「よしっ、頑張るぞ!」
拳を胸の前で握ってうん! と気合を入れると、不意にくすくす、と軽い音が響いた。驚いてそちらを振り返り、逆光に目を眇める。
「笑ってごめんね。――何を頑張るんだい?」
コロコロと鈴が転がるような、軽やかで澄んだ声。ガラスの向こうから差し込む光で顔がよく見えないのか、後光が差しているのか判別するのが難しい強烈な顔面で現れたのは――まだ学園に復帰したという噂すら流れていない、皇太子エイドリアン、その人だった。
お話を先に進めたいので、領地での休暇の過ごし方は本編終了後に追加します。




