24.皇太子・エイドリアン・ヴァレンティン・ラヴェンステッド2
通りから少し離れた場所で馬車から降りて、広場へと進む。
分かってはいたけれど、冬まつりはかなり人が多かった。家族連れやカップルでごった返していて、手に思い思いの屋台料理を持っている。あちこちで楽団が見世物として音楽をかき鳴らしていて、普段の王都とは全く違う賑わいと盛り上がりを見せている。
この世界でソニアの中で意識が芽生えて、そろそろ二年弱というところだろうか。私の中にはソニアの記憶があるし、その中には母と冬まつりを楽しんだ記憶もあるけれど、そこに感情のようなものはなくて、お祭りに母と行った、屋台でクレープを買ってもらって美味しかったというような、情報としての記憶である。
ソニア自身は笑ったりはしゃいだように振る舞っていたけれど、それはその場ではそう振る舞うのが正しいから、という、ただそれだけだった。
「歯車」に操られているというのは、多分ああいう感じなのだろう。記憶はある。自分がその時何をしたかも知っている。周りの人間はそれに対して違和感を覚えてもいない。
でもそれは自分の意思で行ったものではない。生まれた瞬間から「歯車」に操られていたらしいソニアの中身は、ちょっと空恐ろしく感じるくらい空虚なものだった。
「やめやめ、折角お祭りなのに、暗いことは考えない!」
どうせ掏られるからといって、財布の中に銅貨一枚は少なすぎたかもしれない。事件が起きてエイドリアンと出会うまでどれくらいの時間がかかるか分からないのだ。なにか買い食いできるくらいのお金は持ってきてもよかったかも――。
でも、原作のソニアは無駄遣いしちゃだめだと思ってただお祭りの雰囲気を楽しみに来ただけだったし、もりもりと買い食いをしていたらそれはそれで何かしら変化が起きてしまうかもしれない。
今日の計画は、こうだ。
エイドリアンと出会ったあと、ソニアはいずれ市井に下るのだからとそれまであまり積極的ではなかった貴族学園での生活も努力しようと決め、令嬢としての振る舞いや教養の勉強も熱心に行うようになる。
一方エイドリアンは、懸命に生きる市井の少女と言葉を交わしたことで、国の治安を守り貧しい者を一人でも減らさねばならないという初心を思い出し、それまで休みがちだった学園に戻ってくるのだ。
とはいえ、ソニアは今一つ学園に馴染み切れず、友達もいない状況で、時々辛くなって学園の端にある人気のない廃温室で一人の時間を過ごしている。
一方エイドリアンも、登校を再開したことで婚約者のエヴァやその取り巻きを含む多くの生徒に取り囲まれる状況に疲弊して、側近であるトリスタンすら撒いて一人になれる場所を探し、その廃温室にたどり着く。
そうして二人は偶然再会し、皇太子と子爵令嬢という身分差もあって他の場所では無関係を装いながら、廃温室で親交を深めていく。
廃温室で会っているのは二人の秘密だけれど、質素に懸命に努力しているソニアに惹かれるほど、過剰に自らを飾り立てているエヴァに嫌気が差し素っ気ない態度になっていくエイドリアンへのいら立ちと、ふと学園内ですれ違った二人の親密な視線のやりとりに気づいてしまったエヴァによって、ソニアへの嫌がらせがはじまる、というのがストーリーの流れだ。
つまり、今日出会ってしまえばエイドリアンとは廃温室で二人きりになる機会が必ずある。冬まつりでガバッとやるのはリスクが高すぎるという話になったので、学園で二人きりになったらそこでガバッとやってしまえばいいというわけだ。
一国の王子に対してハニートラップをやるようで多少気が引けるものの、子爵家の妾腹であるソニアがエイドリアンに近づき、なおかつその体に触れるというのは一歩間違えば不敬罪になりかねない。とても、ものすごく不本意だけれど、婚約者のいる相手と道ならぬ恋に落ち……はかなり安全な方法だ。
そんなことを考えながらぶらぶらと通りを見て歩く。楽団や曲芸の見世物は立ち止まって見ていると係の人が鑑賞代の徴収に来てしまうので、ちょっと見たらすぐに離れる。日本人の記憶を持つ私としてはかなり理不尽なシステムに感じるのだけれど、こちらでは街のテラスでお茶を飲んでいるだけで近くで勝手に演奏を始めた楽団が鑑賞料を払うように言ってきたりもする。
報酬を払うのに見合わないという理由で断ってもいいらしいのだけれど、聞いたのだから払えと結構強く迫られるので小銭でも支払った方が手間が省ける。
ちなみに、演奏や見世物は王都の花で、彼らに報酬を払うのはほとんどの人は喜んで払っているらしい。その割には自発的に報酬を出す人はいないんだけど……と私なんかは複雑な気持ちになってしまう。
ソニアの記憶があるおかげでお金や物価の相場なんかは解るんだけど、こういう文化とか習慣と感情の齟齬はたくさんあって、二年ぽっちじゃ中々埋まらないものだった。
ぶらぶら歩いているうちにドンッ、と強く人にぶつかって、ふらりとよろける。ぶつかってきたのはまだ背の伸び切らない少年で、「気を付けろ!」って大人みたいな言い方をして走り去ってしまった。
やられたかなと思ってスカートのポケットをさりげなく探ると、やっぱり中に入れてあったお財布がなくなっていた。慌てず騒がずてくてくと人の比較的少ない広場の端まで歩いてゆき、そこではっとしたようにスカートをぽんぽんと叩く。
「ああ、どうしよう、どうしよう!」
オロオロ、そわそわ、きょろきょろ、オロオロ。
我ながら落ち着きのない態度をしばらく繰り返し、悲しみの演出のために昨日夕飯に出てきたしみじみと不味いシチューを思い出し、両手で顔を覆って俯く。
本当にあのシチュー、不味かった。食べ物ってちゃんと塩を入れていないだけであんなに不味くなっちゃうんだ。使われている野菜だって端っこのクズ野菜を細かく刻んでごまかしたものだったし、パンも学食で出る安いパンよりもっと固くてカチカチで、絶対買って数日放っておいたものじゃん。
カビが生えていたり腐っていたり、そんなあからさまな嫌がらせではないけれど、そうならないギリギリのラインを攻めている。
「ううっ」
日本で生まれ育った記憶があるだけに、ご飯が不味いのは本当に悲しい。乙女ゲームの世界なだけあって美味しいものは沢山あるはずなのに、ソニアが口にできるものは実家のそうした料理と、それよりはちょっとマシな下級貴族の寮と食堂のご飯ばかりで、ヘンリーやエヴァと出会うまで、悲しい食事ばっかりだった。
思い出すと本当に悲しくなってきて、ほろりと涙があふれてくる。
なんか明るく振る舞っていたけど、案外辛かったんだなぁ……なんて思っていると、もし、と控えめに声を掛けられた。
「先ほどから泣いているようだが、大丈夫か? どこか苦しいのか?」
「あ……ごめんなさい、財布を掏られたことに気が付いて、私、動揺してしまって」
弱々しく言いながら顔を上げて……たまげた。
そこに立っていたのは、真っ黒なマントに同色のフードを目深にかぶった男性だった。おまけにかなり背が高いので、かなり、ものすごく、怪しい。
さらに驚いたのが、その非常に怪しい格好をしているフードの中にある顔があまりに綺麗だったからだ。
聖プロユーザーなので、もちろんエイドリアンの容姿は知っている。でもエヴァやヘンリーに対してもそうであるように、やっぱり画面の向こうのキャラクターと自分の目で見る人物の迫力は全然違っている。
ゆるくウェーブの掛かったつややかな明るい金髪、優しそうな少し垂れ目気味の瞳は吸い込まれそうなブルー。エヴァやヘンリーにも感じる、およそ欠点というものが見当たらない完璧に整った顔立ちに度肝を抜かれてしまう。
もうね、一目で「ただ者ではない」っていうのが分かりすぎて、びっくりするのを通り越してなんだか笑ってしまう。ゲームのソニアが意識改革した理由が、さっぱりわからない。もはや自分と同じ人間だと思うのが無理というものだ。
「君? 大丈夫か?」
「あ、はい、あの、ええと……」
「本当に混乱しているのだな……こんな日にスリに遭うなど、気の毒に……」
いえ、スリよりあなたに混乱しています。と言えるはずもなく、圧倒的存在と向かい合っていることに落ち着かずにもぞもぞソワソワとしていると、青年はマントの中に手を入れて、取り出した時には彼の髪と同じ色の硬貨を取り出していた。
「君、手を」
「ひゃい!?」
言われるままに手を差し出すと、左手でそっと手の甲を取られ、右手で手のひらに金貨を落とされて、きゅっと握らされる。
「これをあげるから、もう泣かないで。君のような子は泣いているより、笑っているほうが似合うと思うよ」
「は、は、はい」
「ここで私と会ったことは忘れてしまいなさい。お嬢さん、いい冬まつりを」
そう言って、金貨を握らせた手にちゅ、とキスをして青年――この国の皇太子、エイドリアンはすっと人ごみに消えて……いくというには真っ黒なマントが目立ちすぎて中々視界から消えていかなかった。
まだ周囲は明るいし、みんなお祭りで色とりどりの一張羅を着て遊びに来ているので、黒は逆に目立つのだ。
けれど、エイドリアンを中々見失わなかったのには、もうひとつ、理由があった。
「……すごい「歯車」」
彼の背中の「歯車」は、まさに聳えるという言葉が相応しい、巨大なものだった。
回り方はゆっくりだけれど歯車のひとつひとつが巨大で、カチリ、カチリと音を立てている。
あれは、壊すのにちょっと時間がかかりそうだ。
手にした金貨を人に見られないようにポケットに突っ込んで、ゆるゆると張りつめていた息を吐く。
人は住む世界が違い過ぎると、その分距離を感じるものなのだと思う。エヴァやヘンリーにも多少はそれを感じることがあったけれど、エイドリアンに至ってはもはや同じ生き物として認識するのも難しくなるのかもしれない。
――あれに憧れて私も学園生活をがんばろ! てなったソニアって、実は大物なのかもしれない。
ただぶらぶら歩いて出会ったエイドリアンに金貨を貰い出会いのきっかけを作るというだけだったのに、とても疲れた。
そのまま周りにどんな目があるとも知れない冬まつり見物を続けて、十分に時間が過ぎてから広場から道を逸れて、予定通りカフェに入る。ここはヘンリーが個室を取ってくれたカフェで、注文せずにそのまま裏口から外に出ると打ち合わせ通り地味な馬車が止まっていたので乗り込む。
「首尾は」
「完璧です。でも、お腹すきました」
「すぐに公爵家に向かおう。――よくやったな」
ヘンリーのねぎらいの言葉にえへへ、と笑い、椅子に深くもたれかかる。あまりお行儀のよくない振る舞いだけれど、ヘンリーも注意はしなかった。
お金はあっても買い食いはできなかったので、エヴァの「ご褒美」が楽しみだ。
「それが殿下からいただいた金貨か?」
「はい、これ、どうしたらいいですかね?」
「……もらっておけ」
敬愛する皇太子殿下、エイドリアンは、街の屋台では金貨は金額が大きすぎて使えないのだと、多分知らなかったんだと思う。
あの真っ黒なフード付きのマントといい、もしかしなくともエイドリアンはかなりの世間知らずなのではないだろうか。
一度でも経験があれば分かるはずなので、お忍びで街に出ても、多分本人は屋台で買い食いをしたことはない気がする。
それか、当たり前に金貨を出して、世間知らずと思った屋台の店員が差額をちょろまかしたとか……。
いや、あの一目でただ者ではないと分かる相手にそんな詐欺をして、あとで家が出てくれば平民などアリのように潰されるので、それはないかな。
お忍びで街を歩き回っていても、平民の暮らしに触れていても、エイドリアン自身はその細やかなありように興味があるとは思えなかった。




