23.皇太子・エイドリアン・ヴァレンティン・ラヴェンステッド
秋はそれなりに穏やかに過ぎた。
穏やかというのには、日中はエドワードから逃げ回り、放課後は研究塔に通ってジュリアン先生と肝の冷えるおしゃべりをして、週末はモンターギュ家でエヴァとヘンリーと共にトリスタンの報告を聞くことも含まれているけれど、致命的な問題が起きていないという意味では多分穏やかなのだろう。
ソニアは学生で、一年生で、貴族学園にはイレギュラーな途中編入でもある。勉強は遅れに遅れ、秋の学期末のテストの結果は散々だった。
貴族学園は社交界の縮図であるので、結構成果主義だ。身分が高いほど成績がよくて当たり前という風潮があり、結果も上位十名までは張り出され、それ以外は個別の成績表が渡される。
私の何倍も忙しいはずのヘンリーが一年生の一位に輝いているのは、流石としか言いようがないだろう。
貴族学園には留年はないし、どんなに成績が良くても卒業後は市井に下ることになっているソニアは、逆に成績が悪くても別段困ることは無い。幸か不幸かシュレジンガー家も成績を確認するほどソニアに興味がないので、本当にただ、数字の上だけの話だ。
「でも、もう少し頑張った方がいいかもしれないわね」
珍しく切なげにそう言ったのはエヴァで、ヘンリーは向かいの席に座ってむっつり顔で紅茶を飲んでいる。
「まさか最下位だなんて……。ソニア、貴女は決して頭は悪くないわよね? 頭が悪い者は話しているだけでそうと分かるわ。貴女がこんな成績だなんて、信じられないわ」
「いえ、あのう……私、教養が全然なくてですね」
「教養? 確かに女子の配点では一番大きいけれど」
そう、男子と女子とでは計算や文章問題以外は試験の内容が全然違う。そして、その全然違う部分が私は壊滅的に苦手なのである。
例えば男子ならば礼儀作法、剣術、馬術、組手、ダンスやエスコート術などがかなり大きく配点を取っている。
一方女性は、食事のマナー、歩き方、相手によるお辞儀の深さやスカートの摘み具合から、刺繍や楽器、詩作や朗読などが結構な加点要素になるのだ。
「私、平民育ちじゃないですか。淑女教育はものすごい付け焼刃で、家庭教師からちゃんと合格点貰えたのは歩き方だけでして」
「歩き方ね、考えたこともなかったわ」
「君は食事も特に問題は感じないが。綺麗に食べているじゃないか」
「や、同じ子爵家とか、伯爵家や男爵家の人と食事したら多分裏でぼろくそに言われますよ」
それはエヴァやヘンリーが本物の大貴族で、目下の者のすることに寛容だからというのが大きい。
もっともそうした変化にうるさいのはむしろ身分の近い人たちで、学食で一人で食事をしていた頃は、よく近くからクスクスと笑う声が聞こえていたものだ。
「汚さず丁寧に食べる以上に、大切なことなんてあるのかしらね?」
「さあ……私も気にしたことがありませんので」
エヴァとヘンリーが不思議そうに話しているのは、まさに天上の会話である。下々のすることに目くじらを立てない、自分を不快にさせないことこそが礼儀作法である人たちの感覚だ。
大分彼らにも慣れたつもりだったけど、時々この本物の圧を感じる。それは別に嫌というわけではなく、私だって細かい礼儀にあれこれ言ってくる人たちより、チョコレートを摘んで口に入れてくれるエヴァの方がずっと大好きだ。
ただ、やっぱり住む世界が違うんだなぁと思うとき、ほんのちょっと、寂しいだけである。
「まあ、それについては追々考えましょう。冬まつりも間近だけれど、用意した服は本当にそれでよかったの?」
それ、とエヴァが視線を向けた先には、トルソーに着せられた服が掛けられている。
ソニアのなけなしの冬服の一枚で、その中でも一番上等なものだ。本当は冬の始まりに自腹で買うことになっていたのだけれど、必要経費としてエヴァが用意してくれた。
「十分です。というか、身分差がないと殿下の興味が引けないので、いかにも貴族の令嬢のお忍びです、みたいな格好では意味がないかなって」
「でもねえ……寒いじゃない? コットンの下履きを三枚くらい追加しましょう」
「近くに馬車を待機させて、毛皮のコートも用意させておきましょう」
「引き揚げたらすぐに温まれるようにしておかなければね。冬まつりの会場から公爵家までは少し離れているから、アジトとして家を買いましょうか」
「いえ! 厚着してない、ちょっと寒そうな感じじゃないと財布を掏られた痛々しさが演出できませんから! それに遠いといっても大した距離じゃないですし、家を買うなんて大袈裟ですよ!」
放っておくとどこまでいくか分からないのがこの二人の会話というものである。十代の姉弟が、これを冗談で言っているわけではないというのが、なんとも怖い。
「でもねソニア。貴女が風邪をひいてしまっては大変なのよ?」
「姉上の言うとおりだ。この気温で風邪を引くかは怪しいが、念には念を入れた方がいい」
一言多いヘンリーは無視して、エヴァをじっと見つめる。この場で主導権を持っているのは常にエヴァなので、彼女さえ説得できれば目的は達成できるのだ。
「エヴァ、私は丈夫だし、頑丈なのが取り得なんです。「歯車」を壊すのは私の役目だから、そんなにたくさんご褒美もいりません」
「でもねえ……」
「どうしてもっていうなら、この間シャーリーさんが作ってくれたホットチョコレートがまた飲みたいです。あのとろっとして、濃厚な」
「ああ、クリームを入れて、果実の蒸留酒漬けを浮かべたあれね。あんなものでいいなら、いくらでも用意してあげる」
「嬉しいです! 頑張ります!」
「ふふ」
なでなでと頭を撫でられて、単純だけどいい気分だ。
あのホットチョコレートはすごく贅沢な気分になって本当に美味しかった。
まあ実際、すごく贅沢な飲み物なのたけれど。
「ホットチョコレートも、ガナッシュの入ったトリュフも、マドレーヌも、いくらでも用意するわ。可愛いソニア、だから無事に戻ってきてちょうだい」
「はい!」
拳を握って力強く告げるのに、なぜかヘンリーはちょっとだけ唇を尖らせていた。
多分、私ばかりエヴァに構われるのに拗ねているのだろう。
* * *
「君、少しやつれていないか」
シュレジンガー家を出て大通りまで歩き、指定の場所に停まっている地味な装飾の馬車で待っていたヘンリーは、開口一番そう言った。
「五日ぶりです、ヘンリー様。いやあお休みっていいですね。閉じこもっていればエドワード様に遭遇する心配もないし、学校も閉鎖されているからジュリアン先生の長話に付き合う必要もないし」
「それで煙にまけると思っているなら、君はすこし私を侮り過ぎじゃないか?」
「いやあ、ヘンリー様は粗末なもの食べてるって話をすると、なんか不愉快そうなんで、避けたほうがいいかなぁって」
テストが終わった後は、貴族学園は長期休暇に入る。どれくらい長期かというとほぼ三カ月、領地が遠い生徒によっては申請次第で、なんと四か月も休暇が取れるのだ。
寮は狭いけど個室だし、食堂はそんなに美味しくないし量も少ないけどちゃんとご飯も出る。微妙にぼっちな学園生活ではあるけれど、シュレジンガー家に戻ると学校の方が全然マシだなぁと思う次第だ。
「そんなにひどいのか……」
「いえ、最低限のご飯はちゃんと貰ってますよ。時々暖炉の薪が補充し忘れられているのと、パンがカチカチなのはちょっとつらいかなぁってくらいです」
シュレジンガー家としては、明確に養育を放棄するのは当主の名誉の疵になるし、卒業まではちゃんと部屋と服と食事を与えるつもりはあると思う。
ソニアへの当たりの強さは使用人の奥様への忠誠心の強さの裏返しなので、誰かが主導して命令している系統だったものという感じではなく、それぞれの使用人が少しずつ冷遇している結果のチリツモ型だ。
命に関わるほどではないし、まあしょうがないよね、という程度だ。よく思われていない立場であるのは仕方がないと納得しているものの、それはそれとして、ひもじい思いというのはやっぱり精神的に来るものがある。
「……家を出てうちに来いというのは、君には負担なんだろうな」
「子供は親の所有物ですもんねー。大体そんなことしたら、ヘンリー様が責任を取らされちゃいますよ」
「………」
「卒業までの我慢ですし、時々こっそり厨房からチーズやパンをかすめ取っているので、そんなに心配してくれなくても大丈夫ですから!」
紳士のヘンリーにはちょっと冗談がきつかったのを反省して、明るく言う。
「それに、エヴァが美味しいものをたくさん食べさせてくれたので最近ちょっとウエストがヤバめだったので、休暇の間はいいダイエットになりますって」
「トリスタンの計画の話し合いも、「歯車」を壊す相談もある。休暇の間もできるだけうちに通えばいい」
「はい! まず今夜のホットチョコレートですね!」
今日は冬まつりの日。一年でもっとも広場に人が集まり、屋台や見世物で大変に盛り上がる日である。
どうせ掏られると分かっているので、財布の中には銅貨が一枚だけ。財布自体も普段使っているものではなく商店街で売っている中で一番安いものを買い直した。これが銅貨二枚なので、財布の方が中身より高い。
「ああ、とっとと済ませて、帰ろう」
ヘンリーは自分の着ていた毛皮のコートを脱ぐと、無言で差し出してくる。
うーん紳士だ。ありがたく会場まで羽織らせてもらうと、ぬくぬくと温かかった。
「私もホットチョコレートが飲みたくなってきた」
「ええと、コート、返しましょうか?」
「――そういう意味じゃない」
ヘンリーがこんこん、と御者席に面した窓をノックすると、馬車はゆっくりと走り出す。
そうして、運命の冬まつりの日は始まった。




