20. トリスタン・エドモンド侯爵家令息6
控室で着替えを終えてリビングに入るとエヴァがそわそわと扇を畳んで立ち上がり、ぎゅっと抱きしめてきた。
「ひゃ」
「よかったわ、貴女が血まみれだって連絡を受けた時には、血の気が引いたものよ」
柔らかいエヴァの胸に抱きしめられて、それから「さ、おいでなさい」と手を引かれ、先ほどまでエヴァが座っていたソファの隣に促される。
「貴女って、よく血まみれになるわね。貴女みたいな子に血は似合わないわ」
「どっちも私の血じゃないですけど」
「それでいいわ。血を流すのは血の気の多い殿方に任せておけばいいのよ。――いつまで寝転がっているの。いい加減起きなさい、ヘンリー。あなたもよ小侯爵様。いつまでも辛気臭いったらないわ」
テーブルを囲んで円座に置かれたソファのうち、上座はエヴァが、その左右には頭を抱えてそのまま膝に埋まっちゃうんじゃないと心配になるくらい俯いたトリスタンが、そしてその向かいのソファには肘置きにぐったりともたれかかったヘンリーが座っていた。
「あー、あの、ヘンリー様。大丈夫? ですか」
「……私の顔を見ないでくれ」
「いえ! 鼻血を出したヘンリー様もかっこよかったですよ! さすが美形は何をしても様になるというか、鼻血を出しても色男なんてなまじな顔の整いっぷりだと真似できませんから! まして放り投げられた私を見事キャッチしたじゃないですか。すごい運動神経! 天才かと思いました!」
「すまない……私は、私は、私は一体なにを」
渾身のヘンリーへの元気づけに反応したのはトリスタンのほうだった。頭を抱えたままぶつぶつと謝罪と自己嫌悪の天秤がぐらぐら揺れているらしく、どんよりとした雰囲気を放っている。
この中で平然とお茶を飲んでいたエヴァの胆力たるや、本当にすごい。
「お腹が空いたでしょう? 軽食でも用意させようかしら」
「や、このドレスに何かこぼしたらと思うとそっちの方が怖いから。ていうか、なんでドレスが豪華になってるんですか」
「あれは会場に潜入するのに疑われないための侍女用のドレスだもの。こちらは私服よ」
「……エヴァのサイズじゃないよね」
「似たようなものよ」
どこがだ! と突っ込みを入れなかったのは、エヴァに真顔で言われるとそうかな? と思う謎の説得力があるからだ。
でも、すらりと背が高く、出るところはきっちり出ていて絞られるところはきゅきゅっと絞れているダイナミックボディラインのエヴァと、いいとこ短めの丸太みたいなソニアの体形でドレスの交換ができるわけがない。
淡いオレンジ色の布は光沢があってとても軽い。胸の少し下で搾りが入れてあってそこからふわっとスカートの上にレースが広がる形になっていて、丸太でもちゃんとメリハリがあるみたいに見える。背中が結構開いてるのはちょっと落ち着かないけれど、きわどいところまでではないし、シャーリーさんが貸してくれたストールを巻いておけばちょうどいいかなというところだった。
同色の靴と一段濃いオレンジのイヤリングまで用意されていたし、明らかにこれはソニアの髪色に合わせて作ってくれたドレスだ。
パーティの最中にシャーリーさんと話していたように、ドレスはすごく高価なものだ。作りすぎて家が傾く貴族もいると聞いたばかりなのに、さすがの私も食事をしようなんて気にはなれない。
「そんなことは気にしなくていいのよ。あなたは思うままに振る舞いなさい」
無茶なことを言うと、エヴァは一口サイズのチョコレートを摘み、ほら、と口を開くよう促される。
「おいしい……。ぱりっとしたら中にトロッとしたものが」
「ガナッシュね。中と外で食感が変わって面白いでしょう?」
「うん、すっごく美味しい」
「ふふ、よかったわ。こちらにはオレンジピールを刻んだものが入っているのよ。ほら、あーん」
「あーん」
前世とは違ってこちらのチョコレートは、ものすごい高級品だ。原料を遠くから運んできているからとにかく高くて、薬としてお湯で溶いて飲んでいたのだってそんなに昔のことではないらしい。
今はいい船ができたので一部の裕福な人たちにはたまに口に入る嗜好品なのだけれど、当然私が食べられるようになったのは、エヴァとヘンリーに関わるようになってからである。
高価なドレスを着て、高価なチョコレートを女神のようなエヴァにあーんしてもらう……あれ、もしかしてここ、天国なのかな。
「レディ・エヴァリーン・アンジェリカ」
トリスタンに名前を呼ばれてエヴァは私の口に三つ目のチョコレートを入れ、おもむろに振り返り、扇を広げる。
「少しは落ち着いたかしら、サマーヴィル小侯爵様」
「まだ混乱の中にありますが、少しは冷静になれてきました。それと、小侯爵ではなく、どうぞトリスタンとお呼びください」
「あら、あなたはわたくしが名前を呼ぶと随分嫌そうな顔をしていたではありませんか。私なりに敬意を払っていたつもりですけれど」
「……本当に、なぜ自分でも、そんなことをしたのか。謝罪は幾重にもさせていただきます。ですが、今は私に何が起きていたのか、知っている事を話していただきたいのです」
再び膝の上に折れてしまいそうなトリスタンを見ていると、流石に可哀想になってくる。ちょい、とエヴァのドレスを摘んで引いて、こちらに気を引く。
「エヴァ、トリスタン様だって操られてて、したくもないことをしていたんだよ。あんまりいじめたら、可哀想だと思う」
「まあソニア。あなたはその小侯爵様に、大理石の床に放り投げられたのよ。羽のない小鳥のようなあなたを。いとけなく風に揺れる小さな花のようなあなたを」
「すまない、すまない、すまない……」
「あはは、大袈裟だよ。私これでも結構たくましいんだよ! それにヘンリー様がズザーッ! って助けに来てくれたし」
「………ぅぅ」
渾身のフォローをしているはずなのに、同席している男性二人がどんどん底なし沼に沈んでいる気がする。
「いやでも、本当にヘンリー様はすごかったですよ。普通に放り投げられたのに、あの距離をあのスピードで駆けつけるなんて」
「……足に身体強化を掛けただけだ。上手くやれば馬より速く走ることができる。まあ、長くはもたないが」
「へえ、身体強化ってすごいんですね」
そういえば目もよく凝らすことで「歯車」が見えると言っていたので、ヘンリーはそうやって体の一部の機能を強化する魔法の使い方が上手いのかもしれない。
「ちょっと勢いあまって顔面から床に着地しちゃいましたけど、私はきっちり助けてくれましたし」
「………」
「え、えーと。身を挺して庇ってもらって、嬉しかったし、かっこよかったですよ?」
ヘンリーにしてみれば、高位貴族なのにそんな姿を晒して、かつ鼻血が盛大に出ていることに気づかずに私を抱き上げて運んでくれて、明るいところまで出てようやくエヴァから借りたドレスが血まみれになっていたことに落ち込んでいるかもしれないけれど、本当にあの時のヘンリーは、ピンチに颯爽と駆けつける王子様みたいだった。
「――そうね。「歯車」に操られている間を思い出す忌々しさはわたくしも経験があるし、不肖の弟だけれど、ソニアを助けたことだけは及第点をあげてもいいわ」
埒が明かないと判断したらしく、ぱしん、と扇を畳むと、エヴァは睥睨するように背筋を伸ばす。
「まずトリスタン。あなたに起きたことを説明するわ。ヘンリー、あなたはソファと一体になり続けるなら、邪魔だから出てお行きなさい」
* * *
トリスタンは侯爵家の令息で、同じ貴族といってもソニアが対等に話ができる相手ではないし、学園では一応身分差なく振る舞っていいという建前になっているけれど、ここは王宮で元々の身分が重要視される。
というわけで、ソファに座り直したヘンリーとともにトリスタンへの説明はモンターギュ家の姉弟にお任せすることにした。シャーリーさんが甘いミルクティを淹れてくれたので、エヴァの隣で幸せな気分になっているうちに、トリスタンががくりと肩を落とす。
「私が操られていたなんて、到底信じられないが、そうとしか思えないような醜態の数々を晒していた自覚はある……」
「わたくしも、ヘンリーもそうよ。数年間、この国の未来を背負う者ばかりが相次いで精神操作を受けていたなんて、とても表沙汰にはできないわ」
「とんでもない醜聞になると思います。精神操作の耐性が低いと思われれば、全員が失脚ということにもなりかねない。そうなったらラヴェンステッド王国は、どうなっていたか……」
そう言いかけて、トリスタンは表情を曇らせた。
「「討議会」などというあからさまに胡散臭い反体制組織に傾倒していたなど、我ながら到底受け入れがたいことです。今ならばそう思うことができるのに、あの時の私は本気でこの国を憂い、国民を憂い、貴族である自分をひどく恥じてさえいました」
「そうね。たとえばこのチョコレートだけれど、たった一粒だって、平民が口に入れることは難しいわ」
ちょい、とガナッシュ入りのチョコレートを摘み、エヴァは私の口に入れてくる。
あ、お酒が強く利いてるやつだ。口の中にふわぁっとお酒の風味が広がって、芳醇な香りだけで酔ってしまいそうになるけど、すごく美味しい。
「けれど、これがわたくしの前に出るまでに、商人が買い付けに行き、その商人の乗る船が職人によって造られ、その船の材料を木こりが切り、材木問屋がそれを造船所まで運んでいるわ。収穫したチョコレートの材料を職人が加工して、料理人がそれをこうしてチョコレートの形にして、皿に載せて、侍女が私のところまで運んでくるのよ。その間に発生する多くの人々の生活を、貴族は支えているの。平民はその日一日の仕事の有無が生活に直接影響があるものよ。今日貴族がいなくなったらそれらの人たちは、明日から何を生業に生きていけばいいの」
「……おっしゃる通りだと、思います」
「貴族という在り方に一筋の矛盾もないとは、私も言いません。ですが変えていきたい矛盾があるならば、あなたが変えていけばいいではないの。それこそが身分を持って生まれ地位を得ることが決まっているあなたの役割そのものなのだから」
トリスタンは深々と頷くと、すっと立ち上がり、テーブルを回りこんで私の横に立って、床に膝を突いた。
それから顔を上げて、ひたむきな目をじっと向けてくる。
「レディ・メアリー。改めて、貴女の名前を教えていただけますか」
「えっ、あ、ええと、私はソニ」
「姉上! トリスタンが正気に戻った以上手始めに「討議会」なる貴族学園に巣食った不穏分子を取り除く必要があると思います! トリスタン、幸いお前は奴らの中に食い込んでいる状態だ。会員のリストから取りまとめをしている黒幕まで洗い出し、白日の下に晒そう。それ以外お前の汚名をそそぐ機会はないだろう」
「あ、ああ……。そうだな、確かに」
「私も力を貸すぞ。この国を憂う者の一人として!」
「そうか……とても心強いよ、ヘンリー・マクシミリアン。これまで君をふしだらで軽薄な女好きだと思い、遠ざけていた私を許してくれ」
「……もちろんだとも。そして次は敬愛する皇太子殿下だ。共に彼の方を「歯車」から救い出すためにも、和解の握手をしようじゃないか」
ヘンリーは口元を引きつらせながら右手を差し出し、体を起こしたトリスタンも微笑んで、その手を握る。
エドワードはあんな感じだし、ジュリアン先生もああだし、「歯車」を壊しても微妙に事態が改善していない気がしていたけれど、ようやくまともな協力者が現れてくれたようで、私も嬉しい。
「うんうん、よかったよかった」
「まあ、及第点ね。ギリギリだけれど」
エヴァは口元を隠し、そう囁いて、小さくため息を吐いていた。




