19. トリスタン・エドモンド侯爵家令息5
「……確かに、俺が強引だった。癒し手殿」
「癒し手?」
よし、こんな好機は二度とない、思い切ってがばっといくぞと思った瞬間、エドワードが矛を治め、その言葉に訝しむ様子でトリスタンが背後を振り返る。
おかげで今まさにがばっと行く体勢を見られてしまい、ささっと腕を後ろに隠してぶんぶんと首を横に振った。
「さっきから人違いだと言っているのですが、聞き入れて下さらなくて……」
「貴様、人違いで迫っていたのか。その軽挙妄動が巡り巡って殿下の風評を落とすことになると、側近の身でありながらなぜ自覚できないのだ」
「断じて人違いではない! 俺のここが! 心が! 彼女が俺の運命の女性であると告げているのだ!」
「ひぇ」
「……話にならないな。もう行け。これ以上蛮行を見せられては、ブラックウッド家に報告しないわけにはいかなくなる。私とて伯母上の嘆くところを見たいわけではない」
「ふん……。癒し手殿、では、またそう遠くないうちに」
ぶんぶんと首を横に振るという淑女らしからぬ動作をしてしまったけれど、それはトリスタンの陰に隠れて多分見えなかっただろう。
というか、繰り返すが広間以外は歩くのに困らない程度の明かりしか用意されておらず、この辺りは暗いのだ。私の顔だってはっきり見えていなかったと思うのに、なんであんなに断定できるんだろう。
夜目が利く人もいるというけれど、そんなに違うものなのだろうか……軽く拳を握って口元に当てて考えていると、その仕草をどう受け取ったのか、トリスタンが気遣うように声を掛けてくれる。
「あんな思い込みの強い男に迫られて、さぞ恐ろしかっただろう。だが侍女殿、こんなところを一人でふらふらと歩いているあなたにも、責任が無いとはいえないですよ」
「はい……とても反省しております。お嬢様にも、なんとお詫びすればいいか……」
「きちんと反省しているならば、許してくれるでしょう。厳しい主人であるならば私からあなたは被害者であると口添えをいたしましょう」
紳士だ。ヘンリーも紳士だけれど、それとはまたちょっと属性が違う感じがする。
そのヘンリーはと存在を思い出すと、ちょうど回廊の中庭側の柱の陰に、月あかりを弾いてきらりと光る金髪を見つける。どうやらエドワードの乱入に気づいて上層回廊から急いで降りてきてくれたらしい。
上層回廊は、階段が入り組んでる上に外側を大回りしなきゃいけない構造のところが多いから、上るのも降りるのも結構手間だ。エドワードの乱入は五分ほどだったと思うけど、かなり急いで降りてきてくれたんだろう。
エドワードが立ち去ったことで飛び出してくるかどうか、迷っているらしい。見えるかどうか分からないけど、そのまま少し待っていてと適当にハンドサインをする。
どうやら騒ぎに人目を憚って「討議会」のメンバーもどこかに行ったらしい。つまり、二人きりだ。
がばっとやるなら今だろうか。けれど向かい合ってがばっとしてとっさに突き飛ばされたら、私の力では再戦は不可能だろう。
ここまで来たら、確実を取りたい。
「ああっ……」
額に手の甲を当てて、ふらふらっとその場にへたり込む。エヴァから借りたドレスなので床に座るのは気が引けたけれど、後でしっかりと謝ろう。
「侍女殿!?」
「申し訳ありません……助かったと思ったら私、足から力が抜けてしまって」
「なんと可憐な……。いや、無理もない。あんな脳みそまで筋肉で出来ているような男にあなたのような人が絡まれたのだ。巨大な魔獣の首を素手でちぎり取ったという噂もあるほどだ。まあさすがに、それは眉唾だと思うが……」
あ、それ本当です。目の前で見ました。すごい血しぶきだったし、超怖かったです。
「そ、そんな恐ろしい方だったのですね。そんな方に目を付けられてしまったなんて、私、これからどうしたらいいのか……よよよ」
言っておいてよよよはないだろうと思ったけれど、トリスタンにはか弱い女性が嘆いているように見えてくれたらしい。いたわし気に傍に膝を突いて、手を差し出してくれる。
「私も口添えをするので、あなたの主人に相談してみよう。あの執念深そうな様子では近くで待ち伏せして私がいなくなるのを見計らっているかもしれないから、私が送らせていただこう」
「まあ……ありがとうございます」
「紳士として当然のことだ。――その、君の名前を聞いても構わないだろうか」
「私は、メアリーと申します。さる高貴な女性にお仕えしております」
貴族としてなら家名も添えてソニア・メアリー・シュレジンガーと名乗り、仲のいい友人にはソニアというファーストネームを名乗るけれど、ここには仕事というテイできていてるのでミドルネームであるメアリーを名乗る。
「メアリー……あなたによく似合う、清らかな名前だ」
「あら、おほほ」
親切にしてくれているトリスタンにはちょっと悪い気がするけれど、こんな好機はそうそう巡ってこないだろう。
後はさりげなくもう一度背後をとってガバッといくのみだ。
立ち上がらせてくれるつもりなのだろう。差し出された手に手を重ねると、素早く腰に腕を回され、えっと思った時には軽々と体が浮いていた。
「えっ、あのっ!?」
「無理に気丈に振る舞おうとしなくても構わない。女性を守るのは男の仕事だからな。それより、まるで羽のような軽さだ。きちんと食事はしているのか?」
「はい、あの、それはもう……たくさん、いっぱい……」
エヴァが美味しいものを食べさせてくれるので、それ以前と比べると雲泥の差というくらいよく食べている。間食としてクッキーやマドレーヌも出てくるので、最近ちょっとスカートがきついのが悩みの種なくらいだ。
シュレジンガー家が作り直してくれるわけもないので、制服は三年間大事に着るつもりだ。このままではよくないという危機感はあるものの、白魚の指とはエヴァの指の固有名詞だったのかもと思う白くて整えられた指先で差し出されるお菓子の甘美なことといったらなく、私は為す術もなく口を開いてしまうのだった。
「メアリー?」
「いえ、あの、たくさん食べてます、はい」
「そうか、ならばよかった」
いわゆるお姫様だっこをされているため、トリスタンの声がものすごく近くから聞こえる。
この状況、聖プロの中にも似たようなスチルがあった。毎日のように図書館で顔を合わせるようになったソニアとトリスタンは、会話を通じて少しずつ仲が深まっていく。ある日ソニアは段差を踏み外して足をくじいてしまうのだけれど、トリスタンがそれまでの少し突き放したような態度から一転、ソニアを抱き上げて、医務室まで運んでくれるシーンだ。
夕焼けに染まった廊下、伸びる影、トリスタンに抱き上げられたソニアの気恥ずかしげな表情と、トリスタンの冷静な様子ながら、耳が赤く染まっている小技を利かせたスチルだった。
ちなみにこの世界の図書館は会話オーケーで、むしろ積極的に討論することを推奨しているくらいで、ところ変わればマナーも変わるものである。
まるで重さを感じさせないように颯爽と歩くトリスタンにあわあわとしていたけれど、現実逃避している場合じゃない。まさかトリスタンのほうから抱き上げてくれるとは、むしろこれは、想定以上の大チャンスだ。
「ゆ、揺れて怖いです。その、肩に掴まってもよろしいでしょうか」
「ああ、もちろんだ」
夢を見るようなトリスタンの返事に、エドワードの時ほどではないものの少しだけゾワッとする。
暗くてその姿はよく見えないけれど、さっきからしきりに「歯車」が回る音が聞こえてくるせいだろう。
トリスタンの肩越しに、ヘンリーの姿が見えた。きっと心配してくれているのだろう、両手を上に上げたり角度を付けて下げたり、よく分からないハンドサインを送ってきているその様子に、決意を新たにする。
人を操り、人の行動を操り、思惑通りに動かそうとする「歯車」。
エヴァも、ヘンリーも、あまり顔には出さないけれど、操られていた間のことは黒歴史になっている。
思い出せソニア! 私は「歯車」には負けないし、こいつの存在なんて絶対に許さないんだから!
「トリスタン様、失礼します!」
「メアリー!?」
がばっ、とトリスタンの首に縋りつく。トリスタンは驚いたように一度体を支えている腕が大きく揺れたけれど、構ってはいられない。
――「歯車」、人を操るあんたなんか、この世界には要らない。
――壊れちゃえ!
よどみなく回っていた歯車の音に、ギシギシと軋むような異音が混じる。それは次第に大きくなっていって、やがて小さな歯車が脱輪したのだろう、床に音も立てずに落ちて、それを契機に他の歯車たちもつぎつぎと崩れていく。
それはほんの短い間のことで、やがて全ての歯車が壊れたようだった。見えないけれど、多分いつものように空気に溶けるように、消えたのだろう。
ほっと肩から力が抜けたのと、トリスタンが叫んだのは、ほとんど同時だった。
「うわぁっ!」
「ひぇっ!?」
正気に戻り、自分がソニアを姫抱っこしている状態に混乱したのかもしれない。ヘンリーの時も驚きすぎて壁に頭をぶつけていたもんね。
でもあれは、頭をぶつけたのはヘンリーのほうだった。今回はそれなりに長身のトリスタンの腕から、宙に放り投げられたのは、私のほうだ。
正面からいったら「歯車」を壊すまえに突き飛ばされちゃうかもなんて思っていたけど、そっちのほうが被害は少なかったかもしれない。中途半端な放物線を描いて落下しながら、そんなことを考えた。