18. トリスタン・エドモンド侯爵家令息4
早々に秋の太陽は隠れてしまい、すでに日が落ちた宮殿の中をこそこそと移動する。
煌々と明るいのはホールだけで、そこから離れると暗がりだらけだ。時々これって聞いてもいいの? という物音がしたりしてかなり、だいぶ、よろしくない雰囲気だった。
宮殿はものすごく広い。色々な施設があるし、今どこを進んでいるのかあっという間に分からなくなった。ヘンリーとはぐれたら一人でホールに戻ることも難しそうだと思っていると、少し前を小走りに進んでいたヘンリーがぴたりと足を止める。
これは二度目なので警戒していたため、ぶつからずに済んだ。私もちゃんと学習するのだ。
「いたぞ……誰かと一緒だな」
柱の陰に隠れてヘンリーの指す方を見ると、回廊に差し込む月の光に映し出されたのは、確かにトリスタン・エドモンド・サマーヴィルだった。
トリスタンは灰色の長い髪を高い位置で結んでポニーテールにしている特徴的な髪形をしているので、間違いないだろう。瞳は金色で、銀縁の眼鏡を掛けている。
「ヘンリー様、二手に分かれましょう。私は隙を見てガバッといきますから、ヘンリー様は……あそこの上層回廊に潜んでいて、何かあったら助けを呼んでください」
上層回廊は文字通り、回廊をぐるりと囲んでいる二階部分のことだ。回廊のある広間や中庭で催しがある場合の女性用の席が用意される場所でもある。見晴らしがいいけど階段を上らなければならないので、使われていない今夜なら他に人はいないはずである。
「それではすぐに助けに入れないだろう」
「二人一緒に見つかって尋問されるよりはマシですよ。ヘンリー様の身分なら警備をしている兵士に動いてもらうことができますし、エヴァの侍女が宮殿内で行方不明になったといえば本気で探してもらえるでしょうし、事情を知らない兵士が割って入ってくれるほうがトリスタン様は冷静になると思います」
「なんで、こんな時に限ってやたらと説得力があることを言うんだ君は」
渋る様子を見せた後、決して無理はするな。次のチャンスだってあるはずだと言い含められ、それにしっかりと頷いたのを確認して音もなく離れていった。
私は靴を脱いで身を屈めて、もう少しだけトリスタンに接近していく。
トリスタンの背後に回り込むことには成功したものの、がばっといくには少し距離がありすぎるなという位置で隠れるための柱やカーテンが途切れてしまう。もう少しこっち側に来ないかなと思っていると、トリスタンのやや荒々しい声が響いた。
「本当に、今夜のパーティは見るに堪えない。君も見ただろう、あのこれ見よがしに高価な絹を使ったドレスの数を。あのドレス一枚で救貧院の食事が何日分、孤児院の子供たちの服が何枚買えることか」
それに応じるのは、少し甲高い男性の声だった。見えないけど、揉み手でもしているんじゃないかっていうくらいトリスタンにおもねる口調で応じる。
「本当ですよねぇ。令嬢たちの宝石は眩いばかりで、特に王妃の首から下がっていたあの首飾り。国家予算に相当する国宝であるとのことですが、この国の虚飾の極みと言えるでしょうねぇ」
その言葉に、流石にぎょっとする。
他家の服装や宝飾品に口を出すのも品がある行為とは言えないけれど、王族のそれはマナーどうこう以前の不敬な行為だ。不敬罪が実際の刑罰として存在するこの世界で、まして宮殿の中で口にしていい言葉じゃ絶対にない。
「民から血税を搾り取って、空腹と絶望に喘がせておいて、貴族たちは食べもしない料理を並べ立て、夜を昼間のように明るく照らし立てて贅沢に溺れているなんて、ひどい話ですよねぇ。表面ばかりは煌びやかですが、なんと醜悪な光景なんでしょう」
盗み聞きしておいてなんだけれど、ねちょっとした口調にざわざわする。
会話の内容から、間違いなく「討議会」のメンバーの一人だろう。こんなパーティにまで潜り込んでいたとはと思うけれど、学園のメンバーで構成されているのだから、当然他の会員も貴族階級の人たちだ。
こうしてじわじわと、将来の宰相であり王の側近になるトリスタンを、自分たちの思想に傾けていっているのだろう。
「我々も貴族ですので、批判できる立場ではありませんけどねぇ」
「ああ、貴族であることが恥ずかしくなってくる。――このカフスひとつで、何人の子供の今日の腹を満たせるのかと思うと」
「かといって、貴族には見栄も必要ですからねぇ。王子殿下の隣に、平民の服で立つわけにもいきませんから」
「……王政、か」
段々話が危ない方向に向かっている気がする。
ねっとり男は批判的なことは言うけれど、決定的なことは言っていない。貧しい人たちから搾り取った税金でこんなに贅沢をして、貴族ってよくないですよね。でも自分たちも貴族なんだから仕方ないですよね。見栄が張れなければ貴族の一員として認められないですしね。
それを言葉を変えて繰り返しているだけだ。
でもそれは、じゃあ問題の原因である貴族、ひいては王政が間違っているという結論にしかならない。はっきりとは言わないけど、トリスタンは自分で考えてそう思うようになったと考えるんじゃないだろうか。
宰相家の嫡男として生まれたトリスタンが、そんな視野狭窄になるような教育を受けているはずがないと思うけれど、彼の背負っている「歯車」は多分彼をそちら側に向けさせてしまう。
もどかしい……早く話が終わってトリスタンが一人になってくれないかなぁと焦れていると、不意に「もし」と声を掛けられて、その場でぴょんと飛び上がる。
「君、こんなところでなにをしているんだ? どちらかの侍女のようだが、道に迷ったのか?」
「げ」
「げ?」
「いえ、ほほほ……はい、道に迷って、足が疲れてしまって、辺りも真っ暗で心細くて、立ちすくんでいたところだったのです」
「おお、女性がこのようなところに一人でいては、さぞ不安だっただろう。気の毒に」
気さくな声をかけてきた相手の顔は暗くてよく見えない。多分あちらも同じで、単にドレスのスカートの広がりから女性であると判断しただけだろう。
だが、聖プロユーザーでキャラボイスCDだって何回も聞いた私は知っている。相手は間違いなくエドワード・ヴィクター。狩猟大会以後、運命の乙女とやらを探し回っている騎士団長の息子である。
「私は夜風に当たって物思いに耽っていたところだが、よろしければホールまで案内しよう。貴女の主人も今頃心配しているのではないかな?」
「ま、まあ。嬉しい申し出ですが、招待されているお方の手を煩わせては、主人に怒られてしまいます。もしよろしければ方向だけ教えていただければそれで構いませんわ」
「宮殿内はひどく入り組んでいるし、貴族の中には道理を分からぬ者も多いからな。暗がりを女性が一人で歩いていては、危ない目に遭うこともある。どうか安心して私に任せるといい」
「まあ……」
エドワードとしては警戒させないようにという心遣いだったのだろうけれど、会話をしながらじりじりと近づいてこられて、近づかれた分遠のこうとしても背後には身を隠していた柱しかない。
「ん? 君は……」
顔が見える距離に達したのだろう、エドワードは訝しむように首を傾げ、次の刹那、カッと目を見開いた。
「もしや、君は癒し手ではないか!?」
「いえ、私はとある高貴な方に仕えるしがない侍女でして、あの、あのっ」
ずんずんとこちらに近づいてくるのに、右に逃げようか左に逃げようかなんてどっちでもいいことを考えているうちに目の前まで距離を詰められてしまった。さすが次期騎士団長。本気のダッシュで逃げても簡単に捕まってしまうだろう。
「あのう、私は本当に、癒し手なんてそんな特別な力はないんです。今日だってパーティに憧れる私に、お嬢様がお情けで連れてきてくれたくらいで、礼儀作法とかも何も分かってなくて」
これだけ声を出しているのだから、人目を憚る密談をしていたトリスタンたちはすでに立ち去ってしまっただろう。エドワードもエイドリアン王子の側近の一人で若手の貴族なんだから、当然今日も参加しているのは予想できていたのに、トリスタンにばかり意識がいっていて失念していた。
次はいつトリスタンに接近できるか分からないのに、ここでエドワードに会ってしまうなんて、ツイていない。
「ですから、癒し手というのは誤解ですわ」
「いや、その雰囲気、その物腰に覚えがある!」
「は、はぇ?」
「君はあの時の癒し手だ! 間違いない!」
なんで!?
「歯車」は壊したはずなのに、思い込みが強すぎる。ヘンリーやエヴァは元々の性格からかなり大きく操られていたようだし、ジュリアンは「歯車」自体が極小で少し意識を誘導されていた程度のようだけれど、もしかしてエドワードは元から単純馬鹿だったのだろうか。
それでいいのか次期騎士団長。ヘンリーとエヴァだってそこまで馬鹿ではないみたいなことを言っていたのに。
「ともかく、場所を変えて話をしよう。ブラックウッド家の居室も近いが、そこに抵抗があるならテラスでも休憩室でも構わない」
「えっ!? いえ、あの、私お断りします」
「何故だ!」
「仕事を投げ出して道に迷っていただけでもお嬢様に叱られてしまうのに、男性とお話をしていたなんて言い訳が利かないじゃないですか!」
「なんてひどい主人だ。俺から一言文句を言ってやる。それで首になるなら、うちに転職すればいい」
「お仕事もお給金も気に入っているんです!」
「君をそんな環境から救い出せるならば、給与は倍出そう!」
突っ込みどころが満載過ぎる。私がいくら男女のあれこれに慣れていないからって、これは愛人になれという誘いと受け取られても、文句は言えないんじゃないだろうか?
こんな風に迫られてほいほいオーケーする女は逆に警戒した方がいいと思う。大抵の女子は強引な人ってステキ、よりもなにこの人怖い近寄らんとこ、となるのが一般的な反応のはずだ。
顔は見られてしまったとしても、周囲は薄暗いし細かいところまでは見えていないはずだ。その状態でベールを被っていた癒し手と断言するエドワードははっきり言って超怖いけど、明るい場所に連れ出されていない今なら、ギリ誤魔化せる、はず!
ヘンリー助けて! イレギュラーだけど早く兵士を呼んできて! そう祈りながらのらりくらりと断っていると、カツカツカツ、と靴の裏が床を叩く癇性な音が近づいてきた。
「宮殿内でやけに騒がしいと思ったら、嫌がる女性になにをしているんだ、エドワード・ヴィクター・ブラックウッド」
「トリスタン……なぜここにお前がいるんだ?」
「パーティの喧騒に疲れて静かな場所で休憩をしていただけだ。それより、その手を放してやれ」
いつの間にかエドワードに掴まれていた腕をちらりと見られ、慌てて解放される。エドワードも無意識だったらしく、すまない! とそこらじゅうに響く声で謝罪される。
エドワードとトリスタンはどちらも未来の王であるエイドリアンの側近ではあるけれど、エドワードは伯爵家、トリスタンは侯爵家と、私的な身分はトリスタンのほうが上だ。
寄らば大樹の陰である。
「た、助けてください! 人違いをしていると言っても聞いてくれず、人気のない所に行こうとか金なら出すとか言われて、私、怖かったんです!」
涙を隠すふりで両手で顔を隠しながらトリスタンの後ろに回り込む。思想にかぶれかけているとはいえ――いや、それくらい、トリスタンは義に厚く道理に忠実な男性だ。か弱い女性が悪徳貴族に迫られて困っていたと訴えれば、それを見過ごすような人じゃない。
予想通り、トリスタンの声が一段低くなった。
「エドワード……最近随分浮ついているという噂が流れていたが、こんなことをしていたのか。身分を笠に着て侍女に迫るとは、恥を知れ」
「俺は本気だ! 本気で彼女を求めている!」
いや怖い。割と本気で怖い。怯えているのが伝わったのだろう、トリスタンは背後をガードするように片手を伸ばし、きつい口調で言った。
「愛人を囲うこと自体褒められたこととは思えないが、そうであるにしてもせめて相手が望んでいる場合だけにしたらどうなんだ。嫌がっている女性に強引に関係を迫るなど、紳士の風上にも置けない」
「愛人だなんて、そんなつもりはないぞ!」
「一夜の遊びというならなお性質が悪い」
「人聞きの悪いことを言うな! 俺は本気だと言っているだろう!」
「フン。では愛人ではなく恋人だ、か。色に溺れた貴族のお決まりの妄言だな」
バチバチと、見えないはずの火花が散っているのが見える気がする。
考えてみればトリスタンの背中を取っているのだから、今ガバッとやればいけるんじゃないだろうか? けれどその場合、エドワードのことはどうすればいいのだろう。
正気に戻ったトリスタンには「歯車」の説明をしてエイドリアンに接近する手引きをしてもらう必要がある。「歯車」が壊れた直後が好機であるのは間違いない。
いっそエドワードもこちら側に引き込む? でもそれは、エヴァとヘンリーとの話し合いで「毒にも薬にもならない上に副作用が大きすぎる」という意見の一致を見たことだ。
目の前にトリスタンの無防備な背中があるのに!
見つけた癒し手を逃すまいとしているエドワード、強引に迫られている侍女を庇うトリスタン、そのトリスタンをがばっといきたい私の微妙なトライアングルは、膠着状態に陥っていた。