14.幕間 紳士の悩み
「そこで引いてしまったの? まったく、あなたって本当に……」
言いかけて、姉であるエヴァリーンは扇を開き、口元を隠す。
年の近い姉を相手にこんな話をしている苦々しさも、居心地の悪さも全て押し殺し、氷を入れて冷やした紅茶をぐいと飲み干す。
ソニアはジュリアン教諭の「歯車」を壊した報告をしつつ満面の笑みで夕食を済ませ、入浴し、ご満悦の様子ですでに客間に入っている。公爵家のベッドはふかふかで最高だと以前言っていたから、今頃深い眠りの中にいることだろう。
「仕方がないではないですか。真正面から駄目だと言われたのに、強行しては単なる私の独りよがりになってしまいます」
「強行しろとは言っていないわよ。あの子が気にしているのは、自分と出歩くことであなたの評判を貶めることになることでしょう? 公爵家で逢引の真似事なんてしようとせず、隣の街でデートでも、いっそ足を延ばして領地にでも誘えばよかったじゃない」
「結婚前の若い男女が外泊など、彼女の名誉が……」
「外堀を埋めることも覚えなさいな。あなた、顔は気に入られているのだからそれを最大限に活かさなくてどうするの」
姉というのは、どこもこんなに辛辣なものなのだろうか。ヘンリーにはヘンリーの言い分があるけれど、エヴァリーンが言いたいのは一貫して「ヘタレね」ということだ。
「あんな可愛い子、放っておけばあっという間に他の悪い虫に攫われてしまうわよ。婚外子の子爵令嬢で平民になる予定の子なんて、遊び相手が欲しい貴族令息や愛人を囲いたい貴族たちの餌食になるのは時間の問題なのだから」
痛いところを突かれて、ぐっと口をつぐむ。
そう、ソニアはなぜか自分の容姿の良さに対して、まったくの無自覚だ。
ヘンリーやエヴァリーンを目が潰れるほどの美形だ、眩しくて何も見えなくなると大仰に表現する割に、自分のことは十人並みで地味でぱっとしないと思っているらしい。
オレンジの混じったボリュームのある茶髪のサイドをリボンで結び、小柄ながら颯爽と歩く様子は学園の中にいても自然と目を惹く。濃いめの青の瞳は大きくて、小動物のようにくるくると動き彼女の感情をよく表している。
貴族なのに感情表現がストレートで、危なっかしい。守ってやりたいし、「歯車」を壊すための手段でしかないと分かっていても、他の男と抱擁などさせたくない。
「市井で育ったにしても、鏡を見たことがないわけではないと思うのだけれどね。――ヘンリー、これは姉からの忠告だけれど、責任を取るつもりがあるならば、いっそとっとと手を出してしまいなさい」
「なっ……! 姉上、そんな行いは、彼女が一番嫌うことでしょう。出自が出自だから愛人を囲うような行為には抵抗があると言っていましたし」
ギリギリのところで叫ぶのは回避したものの、つい非難がましい口調になってしまう。けれど子供の時からあらゆる場面で自分の上にいた姉には、なんの痛痒も感じないらしい。
「わたくしだって、あの子を囲い者にするなら許す気はないわよ。それならわたくしの女官としてシャーリーと一緒に王宮に連れていく方がマシだわ。女官は結婚はできないけれど、生活には一切困らないし、わたくしと同じものを食べさせてあげられるしね。案外あの子にはその方が幸せかもしれないわよ」
「いや、それは……」
「まあ、王妃の女官になってしまったら私的な管理も行うようになるから、よほどの用事がない限り筆頭公爵でも中々会えないでしょうね。その頃にはあなたも結婚しているでしょうし、ソニアの性格だと二人きりで会うこと自体避けるようになるかしら」
「姉上! ――わかりましたからこれ以上いじめないでください」
宮廷などという場所に彼女のような素直な性格の娘が居心地が良いとも思えない。
適応できたとしても、野に咲く逞しくも可憐な花のようなソニアは、きっと変わってしまうだろう。
「いじめたくなるような振る舞いをするあなたがいけないのよ、ヘンリー。せめてもう少しがんばりなさいな。「歯車」はあとふたつ。あの子と関わる口実があるのもその間よ」
その言葉には、焦燥感があった。
毎日のように顔を合わせ、エヴァリーンとは寄り添い合ってお菓子を与えられているほどの距離感であるというのに、ソニアは「歯車」をすべて壊せば自分たちとは疎遠になると思っている。
それが当たり前で自然なことだと言わんばかりだ。
「……精進いたします」
「私も姉として、あなたを応援するわ。三人でいる時に既成事実を作りたくなったら三回ウインクすれば、わたくしは席を外すことにしましょう。ああでも、無理矢理はいけないわよ。ちゃんと乙女は大事に扱いなさい」
「姉上っ!」
「おほほ!」
高らかに笑い、エヴァリーンは悪戯っぽく細めた目でこちらを見た。
――完全に、おもちゃ扱いされている。
エヴァリーンとは仲が悪かったわけではないものの、高位貴族の姉弟として儀礼的に振る舞う場面が多く、この二年ほどは虚飾に拘泥するエヴァリーンと女性を侍らせているヘンリーの関係は悪化の一途だった。
こんなふうに、夕食を終えた後で家族の団欒室で雑談に興じるようになったのは、ごく最近のことだ。
話題は最初の方こそ「歯車」に関する深刻なものから始まることが多いけれど、すぐにあの小動物のような愛らしい少女にとって代わる。
いずれ王妃となる前提の少し距離のあった姉と、色恋の話をするようになるなど、ほんの少し前は想像もしなかった。
エヴァリーンはソニアをとても気に入っている。腹心のシャーリーの次くらいには可愛がっているだろう。
既成事実云々は悪い冗談としても、姉の言葉そのものは冗談ではないはずだ。ソニアを傷つけるようなことをしたら、本気で女官として王宮に連れていくに違いない。
やると言ったらやる。それが姉、エヴァリーン・アンジェリカ・モンターギュという人である。
ソニアはおそらく、宮廷については無知だろう。今から平民に戻った時の仕事についても考えているくらいだ。美味しい食事と大きな風呂、そしてふかふかのベッドを保証されたら、ソニアも深く考えずにほいほいとついていく可能性もある。
いや、その上で、王宮で働くなんて自分の柄ではないと笑うだろうか。
「……くそっ」
「ふふ、沢山悩みなさいヘンリー。あなたいつも涼しい顔をして勉学にも恋愛にも悩んだりしてこなかったのだもの。いい経験になるわよ」
「姉上に言われたくはありません」
「あら、私はそれなりに努力したし苦悩したわよ」
さらりと言うと、エヴァリーンは立ち上がり、おやすみなさいと告げてシャーリーを伴い談話室から出ていった。
扉が閉まり、一人残されて取り繕う必要もなくなり、両手で頭を抱える。
どうすればいいんだ、これは。
ソニアは食欲も物欲もそれなりにありそうなのに、ここと設定した自分の身の丈を越えようとは決してしない。
いっそ身分や財産にギラギラと目を輝かせてくれれば、つけいる隙もあっただろうにと、紳士らしからぬことまで考えてしまう自分もまた、厭わしい。
だが、ヘンリー・マクシミリアン・モンターギュの全ては生まれついての身分と財産、それを維持し発展していくためのもので構成されていて、それらを全て脱ぎ捨てた自分など、自分だって知りはしない。
ソニアがバイトするだの働くだのと言っても、何一つイメージできなかったくらいだ。
なのに、その見知らぬ自分で勝負しなければならないのか? 武器なのか棒きれなのかも分からないものを握りしめて、あの隙だらけのくせに全くつけいる隙のない相手に?
隣の街に、いっそ領地に……。
「いや、急すぎるだろう。もっと人目がなくて、重すぎない、それでいて負担に思われないような何かから始めないと」
その何かがまったく思い浮かばず、筆頭公爵令息、ヘンリー・マクシミリアン・モンターギュの眠れぬ夜は更けていくのだった。