12. ジュリアン・オーガスタス貴族学園教諭4
「いやあ、突然突き飛ばされるから驚いたよ」
「すみません、ごめんなさい、驚いただけでわざとじゃないんです」
「いいよ、いいよ。僕も不審者が侵入したのかと思って背後から忍び寄ったけど、生徒だったからびっくりしちゃった」
ほのぼのとした笑顔で笑いながらコーヒーを淹れてくれているジュリアンだけれど、口元は笑みの形になっているのに目が全然笑っていない。怒りをあらわにしているほうがまだ分かりやすくてマシだ。はっきり言って超怖い。
目の前に置かれたコーヒー入りのビーカーを、ヘンリーは信じられないものを見る目で見降ろしている。
「こんな入れ物でごめんね? この研究塔にはお客さんなんて滅多にこないから、食器も揃ってなくて。あ、ちゃんと洗ってあるから、おかしな薬が混じっている心配もしなくていいよ」
研究所で出るお約束のタイプのコーヒーだけれど、入れ物より中身に一服盛られていないかそっちのほうが心配だ。そんな考えを見透かすように、ジュリアンはにこにこと笑う。
「教諭は、先ほどまで確かに部屋の中にいたはずです。どうやって我々の背後を取ったんですか」
「ここは僕の縄張りのようなものだから、やりようはいくらでもあるよ」
うふふ、とおかしそうに笑い、ビーカーに入ったコーヒーをくいと傾けると、ジュリアンは足を組んでテーブルに頬杖を突き、舐めるような目をこちらに向けてくる。
「結果として、驚いたくらいで済んでよかったんじゃないかな? 可愛い子羊二匹が狼の巣に忍び込むなんて、頭から食べられても文句は言えないと僕は思うよ」
それで、僕に何か用だったのかなと続けて問いかけられる。
つまらない用事ならば、それこそ暇つぶしに頭から丸呑みにしようかなと言い出しかねない雰囲気だ。
「ええと、実は私には運命の「歯車」が見えるんですけど。先生の後ろにもそれがあるので、壊しにきました!」
「おい、いいのか?」
ヘンリーが小声で聞いてくるのに、こくりと頷く。
ジュリアンは好奇心が強く未知のものには特に興味をそそられるタイプのキャラクターだ。
不意を突くのが無理だった以上、真正面からあなたの知らないことがありますよと持ち掛けた方が勝率がある。たぶん。
「運命の「歯車」? それって、君が予知者ということかい?」
「限定的には、そうとも言えます。私の知っている未来はすごく狭くて、未来のことはなんでも知っているとは言えませんけど」
「ふぅん……。予知者は王族がすごく欲しがる能力なんだけど、ほとんどは詐欺師か思い込みが強いだけなんだよね。それでも歴史上、確かに未来を予知しているとしか思えないような予知者も数人はいるから、全く存在しないというわけではなさそうなんだけど」
考えるように言って、次に向けられたのは先ほどとは違い、やや温度がある視線だった。
「その「歯車」は、どんな働きをするんだい?」
「これまで観察した上での予想になりますけど、その人の感情や感覚、認識に影響を与えて「歯車」がそうしたい未来に沿うように動くみたいです」
「ふうん……でも僕、精神系の魔法や呪いの類は効かないよ? 元々耐性があるし、護符もたくさん仕込んでるから」
ほら、と言って白衣の袖をめくると、白い肌に黒いインクでびっしりと入れ墨が彫られていた。
複雑な文様とソニアの記憶にない謎の文字のようなもので埋め尽くされた腕に、完全に顎が引けてしまう。
「顔と手を除く全身に入ってるから、生半可な術だと僕には効かないと思うなあ」
「ぜ、全身……痛くないんですか」
「体に彫った術式がどんなふうに役に立つか調べるのは楽しいよお。痛みなんて大したことじゃないよ」
心からそう思っているのだろう、愉悦めいた笑みだった。
なんでジュリアンって、いちいちこんなに怖いんだろう。攻略させる気があるのかも分からない。
「ああでも、だから首の後ろから頭だけにかけて歯車があるんですね。ほら、頭皮に入れ墨はできないから」
「頭が一番大事なところじゃないか」
「なんか、耳なし芳一みたい」
あれは耳だけ持っていかれた話だけど、ジュリアンは……あわてて首を横に振って、怖い想像を振り払う。
「ふむ、自分では確認できないけど、ここになにかあると、君たちは主張するんだね?」
ここ、と自分のうなじの辺りを撫でているけれど、その手が「歯車」に触れることはなく、ジュリアンも懐疑的な様子だった。
「僕の行動に僕以外の意思が介在するなんて、気持ち悪いなあ。それで、君はそれを壊すことができるんだっけ」
「はい、今すぐにでも!」
「じゃあ、お願いしようかな。試した前と後で、自分の心境がどう変わるのかも興味があるし」
ちょっと待ってね。そう言うとジュリアンは帳面を取り出してなにやら書き付け始めた。さらさらと落ち着いた速度でペンを動かし、何度かページをめくって十五分ほど待ったところで、よしと頷く。
「もういいよ。それで、どうすればいいんだい?」
「体を密着させると、私の壊れろ! って意思が伝わって「歯車」を壊すことができるみたいです。これまでの三人は抱擁しました」
「じゃ、やってみようか」
ジュリアンは立ち上がり、両腕を左右に広げて「どうぞ」と囁く。
噂も雰囲気も実物も怖いところだらけのジュリアンではあるけれど、攻略対象らしく大変な美形だし、銀縁の眼鏡という属性まで持っている。年上のイケメンの先生だと思うと、少しドキドキした。
その胸の高鳴りも、白衣の裾からちらちらと覗く入れ墨でシュッ、と収まる。うん、やっぱりちょっと怖い。
「じゃあ、失礼します」
ともあれ、初めての協力的な破壊だ。勢いまかせではなくそっと抱き着くと背中に腕が回される。
なんかこう、ムズムズするなあと思っていると、背後でチッ、と変な音が響いた。
背後に人なんてヘンリーしかいないけど、舌打ちした?
まさかね。紳士のヘンリーがそんなことをするわけがないし、する理由もない。
たぶん変なくしゃみが出ちゃったんだろう。あるよね、そういうこと。
「うーん? 確かに何か変わったような気もするような?」
「あ、すみませんまだです!」
緩く抱きしめられながら壊れろ! と強く念じると、ぴきっ、と木製品にヒビが入るような音が響く。それ以上は特に派手な音を立てることもなく、ジュリアンのうなじから生えていた「歯車」は輪郭を失い、すうっと空気に溶けるような消えていった。
「終わりました」
「うん。――うーん、確かにちょっと、思考の方向性が変わった気がするかなあ……。その日の気分程度の問題な気がするけれど」
ジュリアンは首をひねり、自分を操っていた「歯車」が崩壊したにもかかわらず、少し経過を観察するかぁとのんびりと言っている。
ヘンリーやエヴァ、エドワードにはそれなりに劇的な変化があった気がしたけれど、ジュリアンの「歯車」はやはり、ほとんど彼に影響を与えていなかったんだろうな。
「ええと、用はすみましたので、これでしつれいしまーす」
「ああ、ところで騎士団長の息子が治療中に抱擁してきた娘を探してるって噂が流れているみたいだけど、もしかしてそれって君のことかい?」
「……ええと」
「彼、理想の乙女を見つけた、探し出して必ず妻に迎えるって息巻いているみたいだけど、可愛い教え子に教えて上げたほうがいいかなあ」
「やめて下さい!」
「やめろ」
ヘンリーとぴったりハモって叫び、ジュリアンはおかしそうにくつくつと肩を揺らしている。
「じゃあ、明日のこの時間も、ここを訪ねてくれ。ああ、ネズミのように息を殺しながらこそこそする必要はないよ。あまりそうされると、害獣と間違えて処理してしまうかもしれないから、歌でも歌いながら階段を登ってきてくれ」
「歯車」も壊したことだし、これで縁が切れると思ったのは、甘い考えだったらしい。
「最近研究したいテーマが見つからなくてさ。息抜きも兼ねて、君たちと遊ぶのも楽しそうだ」
教師なのにそれでいいのか。
それが許されているのが、ジュリアン・オーガスタス・ボーフォートという存在なのだ。なぜか。