10. ジュリアン・オーガスタス貴族学園教諭2.
貴族学園は王都の中心地からすこし南側に外れたところにある、大きな敷地を持った施設である。
国の将来を背負って立つ貴族の子弟が集まっていて毎年多額の寄付が寄せられている上に、特に高位貴族や王族が入学した年は寄付金が増える傾向があるので、施設の充実ぶりは言うまでもない。
そもそも王族や高位貴族が在学する年代には、他の貴族の子供の数も増えるのだ。将来の側近や結婚相手として、その年に合わせて周りの貴族たちも子供を作ろうとする動きが活発になるという理由からだけれど、年によっては他の年の倍近くも生徒数が増えることもあるらしい。
そうした生徒の増減にも対応できるよう、学園の敷地は広く、校舎や施設は十分に余裕をもって作られているというわけだ。
そんな広大な敷地と設備なので、中には古い建物もあり、敷地の中心部にある校舎から離れているため生徒もあまり足を踏み入れない場所も存在する。
ジュリアンが根城にしている基礎魔法科の研究施設――という名目になっている塔は、その代表格のようなものだ。
校舎から徒歩で十五分もあるし、これといって一般生徒が訪ねる用事もないので人気が少ない。けれど何か用事があっても喜んで足を運びたいと思う人は滅多にいないだろう。
ガァ、ガァ……。
「ひぇ」
校舎から離れるほどに背の高い木が増えていって、辺りは薄暗くなっていく。本当にここ、王都の一部なの? と思うくらい鬱蒼としていて、ただでさえ雰囲気に気押されているところに不気味なカラスの声が響き、びくりと体を震わせる。
「ブラック・クロウだな。魔物の一種だが頭がいい。滅多なことでは人は襲わないから、心配しなくてもいいだろう」
「それは、滅多なことがあったら襲ってくるということじゃ?」
「子育て中の巣に悪戯をすればそのファミリーが七代入れ替わるまでしつこく襲い掛かってくることで有名だな。そうなると日常生活もままならないから、本人がブラック・クロウの縄張りから出ていくか、ファミリーを根絶やしにするしかないが、とにかく頭がいいから毒餌や罠にはひっかからないし、罠を仕掛けた者まで恨みの対象になる可能性があるらしい」
「それ、縄張りから出ていくしか方法がないのでは?」
「何代か前の王族が、卵のある巣を叩き落として恨みを買ったことがあるそうだ。その時は根絶が選ばれたらしい。それでも外を歩けるようになるまで三年ほどかかったらしいが……」
「やっぱり怖いじゃないですか……」
巣に悪戯なんて絶対にする気はないけれど、それだけ執念深い大きくて真っ黒で目がひとつしかないカラスの魔物というだけで、十分怖い。びくびくとヘンリーの傍にぴったりとついて、先を進んでいると、不意に肩を掴まれてぐい、と引き寄せられた。
「ひぇっ!?」
「妙な声を出すな……。そことそこ。それからそこの土が盛り上がっているところは踏むな。トラップがある」
「ととと、トラップ!?」
「術式からいって致命傷になるようなものじゃないな。術者に報せがいくのと、この先を進みたくなくなる気分にさせるような、軽い催眠の魔法が仕込まれている」
地雷のような危険なものではないようだけれど、精神系に作用する罠がそこらに仕掛けられていることと、ヘンリーの思ったより大きな手でがっしりと肩を掴まれて低めのイケボで囁かれる混乱が混じり合って、変に舌がもつれてしまう。
「ななな、なんで、罠があるってわわわ、分かるんですか?」
私の目から見ればほんのすこし周りより生えている草が少ないとか、ちょっとだけ土が盛り上がっている気がするとか、その程度だ。言われなければ絶対に分からないし、正直言われてもよく分からない。
「私は、魔力を見ることができる。魔法の罠は性質が悪いからな。昔からそうしたものから姉上を守るのが私の役割だった」
護衛の騎士や腕っぷしのある侍女もついているのだろうけれど、高位貴族や家族しか出入りできない場所もあるんだろう。そういうところに潜んでいる罠や刺客から未来の王妃であるエヴァを守るのが、ヘンリーの仕事のひとつだったらしい。
ヘンリーを含む攻略対象のことは、ゲームをプレイしたことで結構知っている気になっていたけれど、そんな特技があるとは知らなかった。
やっぱりゲームのキャラクターと違い、生身の人間としての彼らは生きている人間としての葛藤や感情、努力してきた結果として人生の厚みのようなものがある気がする。
そんな彼らを「キャラクター」にしているのが「歯車」の存在だとしたら、それは随分罪深い存在なんじゃないだろうか。
「慣れてきたせいか、うっすらとだが私にも「歯車」も見えるようになってきた。君が言っていた者以外にも、背負っている者が何人かいるな」
「あ、それはエヴァの取り巻きとか、暴走する人たちですね。エヴァの「歯車」が壊れてからは、動かなくなってますよ」
高位貴族であるエヴァは、人を使うことには長けていても自ら動くことはあまりない。ゲームでソニアに絡むシーンでも必ず左右に取り巻きを侍らせていて、実際にソニアを突き飛ばしたり足を引っかけたりするのは彼女たちの仕業だ。
エヴァの「歯車」が壊れ、エヴァ自身が彼女たちから少しずつ距離を取るようになったこともあり、そちらの「歯車」は動きを止めたままだ。
難易度の高い攻略対象を優先しているけれど、今後にどう影響するかは分からないので、卒業までに機会を作って目につく「歯車」は壊していこうと思っている。
「……ちなみに、私の周囲にいた女性たちは」
「あれは、自主的でしょうねえ」
「自主的なのか……」
「歯車」がないならその可能性が高いと分かっていたと思うけれど、一縷の望みも絶たれたようにがっくりと肩を落とすヘンリーに、ちょっとだけ同情してしまう。
まだ知り合ってそんなに時間が過ぎたわけではないけれど、ヘンリーが真面目で規則に忠実な紳士なのは疑う余地もない。そんな彼がチャラ男枠のキャラクターとして過ごしていたのだ、「歯車」が壊れた後のショックは、私が想像しているよりもずっと大きいのかもしれない。
「これまで粉を掛けていた女生徒の一人一人に、謝ってるって聞きましたよ。えらいですねヘンリー様」
公爵家の跡取りである彼が、人に頭を下げ慣れているわけもない。それでも礼を尽くしこれまでの軽薄な行いを詫びているのだから、これまでとは違う意味でヘンリー様って素敵、となっている女子も多いようだ。
この世界では、裕福な男性が愛人を囲ったり私生児を生ませたりするのは、別段珍しいことじゃない。チャラ男のヘンリーにもすでに私生児がいるという噂すらあった。
これまでは、下位貴族にはヘンリーの愛人枠でも構わない子もいたと思うけれど、眩いほどの美形で公爵家の跡取りで、婚約者がいなくて、おまけに真面目で誠実という属性まで足されたら、これまで以上に真剣に正妻の座を狙う女子も出てくるだろう。それはそうなる。
「私の不覚で彼女たちにも悪いことをしてしまったのだ。当然だ」
「……やっぱりちょっとエッチなこと、しちゃったんですか?」
「していない!」
「あー、よかった」
「よかった、のか?」
「歯車」に操られて本来の彼から逸脱した振る舞いをしていたのだから、その間に起きたことはノーカンとまでは言わなくても、ヘンリーの責任を真っ向から問うのは気の毒だろう。
それでも、「歯車」に操られたヘンリーによって不幸な女の子が出なかったことは、普通によかったと思う。
「ヘンリー様の財力なら愛人を何人でも囲えるでしょうけど、私の出自が出自ですから思うところはありますよ、それは。私は平凡で顔も普通でいいから、愛人とか囲わずに一途に愛してくれる人がいいなあ」
「……うちの父は、愛人は一人もいない。私もそんな父を尊敬しているんだ。生涯の伴侶は妻ひとりでいいと思っている」
「それはとてもいい心がけだと思います!」
「……私は、何を言っているんだ」
なぜか少し落ち込んだ様子のヘンリーに、元気づけるように背中を撫でる。
きっとちゃらちゃらと左右に女の子を何人も侍らせたことを思い出してしまったのだろう。
「元気出してください。チャラついてた黒歴史を乗り越えてヘンリー様の誠実さを信じてくれる女の子に、いつかきっと出会えますよ」
「……、……そうだな」
そこも踏まないように、とどんよりとした声で言われて、ひょいとそこを避ける。
すすけて遠目からは真っ黒に見える研究塔まで、気づけばあと少しだった。