1.プロローグ
新連載です。それほど長くならないと思います。不定期で更新します。
王都の華やかな通りの喧騒が遠くに聞こえてくる。
多くの人が行き交う大通りからほんの数歩しか離れていない細い路地裏の建物の柱の陰で、私は制服の背中を漆喰の壁に押し付けられ、唇は柔らかいもので塞がれていた。
言うまでもなくキスだ。思わぬ展開に体をよじったものの、がっしりと腰を掴まれ反対の手で肩を押さえられていて、ろくに動くこともできない。
建物と建物の間の、二人並んで歩くのもちょっときつい道幅しかない路地裏である。薄暗くて、周囲に人気もなくてちょっと雰囲気が怖い。そんな場所で私にキスをしてるヘンリーの後ろから、相変わらず巨大な「歯車」が回る音が聞こえてくる。
遠目で見てもそうと分かる、異様な大きさの、それでいて私以外には見えない「歯車」が、今もヘンリーを操っているのが伝わる。
突然の展開に怯んでいる場合じゃない。これはチャンスだし、今を逃すともうこんな絶好の機会は訪れないかもしれない。
目を閉じて、大きな歯車と小さな歯車が複雑に噛み合ってよどみなく回っているそれに意識を集中する。
――壊れろ!
「歯車」に向かって強く強くそう念じると、ミシリと歯車に異物が挟まるような軋む音が立った。それはすぐにバキバキッと歯車同士が互いを巻き込んで連鎖しながら自壊する、耳障りな音に変わる。
一度バランスを崩してしまえば後は簡単だった。ほどなく一際大きな「歯車」が砕ける音が響いて、それきり音はしなくなった。
「っぷは!」
やった! と思ったのと同時に、今の今まで私に密着していた男が勢いよく後ろに下がった。繰り返すけど、狭い路地裏だ。思い切り飛びのいたせいで反対側の建物の壁に勢いよく激突し、ゴンッ、と頭をぶつけた音が響く。
それに構わず彼――緩く癖のついた金の髪に紺色の目をした恐ろしく顔立ちの整った青年は、手のひらで口を覆い、抗議するように叫ぶ。
「と、突然何をするんだ君は!?」
「えっ、キスして来たのはそっちですよね!?」
心外もいいところの抗議にとっさに言い返すことができたのは、我ながらいい反射神経だ。ここでもたもたと言い訳をしても仕方がない。頑張れ私と自分を鼓舞し、両手の拳をぎゅっと握りしめる。だが相手も負けるつもりはないらしく、顔を真っ赤に染めて叫び返す。
「こんな暗がりに誘い込まれて抱き着かれたら、するだろう、キスくらい! いや、まっとうな紳士はしないかもしれないが、君はされても仕方がないだろう!?」
紺色の瞳に涙が浮いているのは、頭をぶつけた痛みからではないのだろう。乙女のファーストキスを奪っておいて、反応が逆ではないだろうか。
「私だって、あんなことやりたくてやったわけじゃないんです。とにかく落ち着いて、話を聞いてください」
いくら人気のない路地裏とはいえ、大通りからほんの数メートルしか離れていないのだ。痴話喧嘩かと見物にくる物好きがいないとも限らないし、それが魔法学園では知らぬ者なしのヘンリーと地味めの転校生など、いいゴシップの種にしかならない。
神妙なトーンで言うと、ヘンリーは怪訝そうな表情をしながらも、頷いた。
「……いいだろう、言い訳があるなら聞かせてもらおうじゃないか」
どうやら少し冷静になって、体勢を整えることにしたようだ。彼は腕を組むと胸を反らし、さも尊大な貴族らしいポーズをとった。
「私はヘンリー・マクシミリアン・モンターギュ。突然私を路地裏にひっぱりこんで抱き着いてきたお嬢さん、君の名前も教えてもらえるかな」
言葉は丁寧だったけれど、これは初対面の男になんてことをするんだという皮肉の類であるのは、その表情と口調から明らかだ。
いいだろう、受けて立つ。
ここまできたら逃げる選択肢など、最初からないのだ。
「初めまして、ヘンリー様」
ヘンリーの美貌には遠く及ばないけれど、それなりに愛嬌のある顔に精いっぱいの笑顔を浮かべ、制服のスカートの裾を軽く摘まみ、ちょい、と淑女の礼を執る。
本当はそんな柄ではないので、様になっていないのはこの際大目に見てもらおう。
「私はソニア。ソニア・メアリー・シュレジンガー。先月学園に転入した一年生です」
もはや私が異世界恋愛を書くには、冒頭からキスをさせるしかないのでは……と思いました。