07.
その日の夕食後、シャムスディンは重々しく弟子にいった。
「リル、話があるから後できなさい」
「はい」
彼が真剣な表情をするのは珍しいと感じながら、リルは師の命に従った。後で、がいつか具体的にいわれなかったので、食器洗いをして入浴を済ませ寝支度が整ってから、シャムスディンの部屋を訪ねた。
ノックをすると入るよう声が返り、そわそわと落ち着かなげにベッドに座る彼の隣に座った。魔術書や魔導具を置くことを優先され、ベッド以外に座る場所がない。生活家具が少ない魔法使いらしい部屋だった。
緊張した面持ちの師が話し出すのを、リルは静かに待つ。一体何をいわれるのだろう。
「あ……、あのね。リルは可愛いでしょ?」
「可愛くないですよ」
「いや、リルは可愛いよ!」
話しだしから腰を折られ、シャムスディンは弱る。どうして弟子は頑なに自身の魅力を否定するのか。
「リルは絶対に可愛い。だから、危ないと思うんだよ」
「危ない?」
「だから、その、男に嫌な目に遭わされたりしてないかなって……」
「……ジャイルの入れ知恵ですね」
彼ひとりで気付くはずのない懸念に、リルは察した。必要ないといったのに、お節介な友人だ。
「リルの師匠として、僕は知っておくべきだと思う」
親代わりとしての使命感が強い彼が、こういいだしたら下がらない。それを解っているリルは、溜め息ひとつ零して諦めた。
シャムスディンが心底心配しているのだ。白状するしかないだろう。
「大丈夫ですよ」
「本当に? 触られたりとかしてない?」
「指一本触れるより前に焼いてます」
「触られそうにはなってるんだ……!」
リルの対応に慣れた様子にも、シャムスディンはショックを受ける。慣れるほどの回数があったにもかかわらず、自分には何ひとつ報告されなかった事実が辛い。自分が能天気に研究していた間に、弟子が嫌な目に遭っていただなんて。
「どうして僕に言ってくれなかったの」
拗ねたような物言いになる師を宥めるようにリルは返す。
「余計な心配をかけたくなかったんです」
だが、それが悪手だった。
「余計なんかじゃないよ!」
肩をつかまれ、押されると身体がベッドに埋まる。視界には苦しげなシャムスディンが見下ろしていた。
「心配するに決まっているじゃないか。僕は、君の師匠なんだよ? リルは強くなったけど、女の子なんだから。嫌なことがあったら我慢せず、僕には相談してほしいよ。何も言ってくれないのは不安になる」
泣きそうだな、とリルは冷静に彼を見上げる。彼は自分が傷付けば涙するだろう。彼が全身で伝えてくる愛情は、自分の望むものではない。肩に触られる指の長い手も、視界を埋める自分だけをみつめる顔も、心臓が騒いでいるのはきっと自分だけだ。
「可愛い弟子を心配するのは悪いこと?」
悪い、と答えられたらどんなにいいだろう。
「わたしは誰にも指一本触れさせるつもりはないです。こんな風に押し倒されるようなことなんてあり得ません」
「わからないじゃないか……っ、リルは女の子なんだよ!?」
自覚を促すための発言だったが、彼女には逆効果だった。
「女の子」
師の言葉を復唱して、リルは失笑する。
「好きな人にそう思ってもらえないのに、それに何の意味が?」
シャムスディンは何も返せなかった。ジャイルのいっていた投げやりの意味が解った。これは危うい。同時に、彼女に好いた相手がいることに驚く。本当に彼女は自分に何もいってくれない。
好きな人。そんなものが存在していたのか。今日は想定外のことばかりを知る。彼女にそんな者ができる日を考えたことがなかった。恋人ができることも、誰かと結婚することも。あり得る可能性だったのに、シャムスディンは想像したこともなかった。そうして、考えること自体を拒絶していた自分に気付く。
今だって、リルの好きな人のことを詳しく訊こうとすらできない。好きな人との関係が進展するよう応援する言葉もでない。
傲慢にも彼女はずっと自分といると思っていた。離れることがあり得ない、と。
そんな自分に、シャムスディンは動揺する。
「リルは、もっと自分を大事に……」
師として、親代わりとして、彼女を説得しなくてはと、どうにか言葉を探す。
「もともと危なくないですよ。先生はわたしに何もしないでしょう?」
大事にする以前の問題だと、リルは返す。危ない目に遭わないなら危惧する必要はない。だって、目の前の彼以外に触られるのを許すつもりなどないのだから。
弟子に自分は安全な存在だろうと同意を求められ、本来なら頷くべきだった。なのに、シャムスディンは言葉に詰まってしまう。
彼女の言葉を拾って、現在の体勢に気付いた。少女を押し倒す男。状況だけみれば、他ならぬ自分が彼女を危ない目に遭わせている。なら、自分は危険なのかと自問自答する。彼女が抵抗しなければ、こうして腕の中に閉じ込めてしまえる。自分で口にしておいて、今さら彼女が女の子なのだと実感した。
彼女が嫌がらなければ、これ以上のことを自分はするのか。何か、の指す内容を具体的に考えてしまう。すると、生々しく想定できてしまい、どっと心臓が強く打った。
大事な女の子になんてことを、と自身を責めるのに、彼女に触れる手を引けずにいる。まだ何もしていないが、自分から逃げてほしい気持ちでいっぱいだった。
「先生?」
何も言葉を発しないシャムスディンを怪訝に思い、リルは呼びかける。眼差しはしっかり自分を捉えているというのに、一体どうしたというのか。
硬直する師に、リルの方から折れる。きかずとも答えはわかりきっている。わざわざききたい答えでもない。
「わかりました。以後、気を付けます。報告もします。これでいいですか?」
「あ……、うん」
覇気のない返事が不思議だったが、ぎこちなく被さった身体を退けてくれた。リルは身を起こし、就寝の挨拶をして部屋をでてゆく。
自身の部屋に残されたシャムスディンは、一応の説得ができたことより、彼女の警戒対象に自分が含まれる可能性に動揺していた。可能性というより事実だ。異性としての接触を具体的に想定できてしまった。
なのに、自分にも気を付けるようにいえなかった。
当たり前のことなのに、この日ようやくシャムスディンは自分がリルの親ではないことを認識した。親代わり失格かもしれないと、その晩は葛藤した。
「うん……、わかった。あれは危ない。リルが可愛いのは前からだったけど、どきどきしてやばかった」
「詳しく言わなくて大丈夫っす。ウチ、そういう相談所でもないんで」
翌日、弟子の可愛さを正当に認識したシャムスディンは冒険者ギルドにいた。いくら友人の師とはいえ、営業範疇外のサービスを求められるのは業務妨害である。ジャイルは適当にあしらうことにした。