05.
ポットが湧くのを待ちながら、リルは長々と溜め息を吐き出した。その吐息には、怒気も含まれている。
お湯を沸かしているのは、シャムスディンが風呂からあがったときに温かい飲み物が飲めるようにするためだ。降り始めに家にたどり着いた自分よりずっと濡れていたというのに、風呂の順番を譲ったのだ。身体は冷えきっているだろう。湯船だけではなく、中からもあたためる必要がある。
シャムスディンは弟子を第一優先に行動するが、その傾向はリルも同様だ。どんなに苛立ちを覚えようと、彼の身を案じて行動してしまう。
リルだって年頃なのだ。半裸とはいえ、異性に、それも彼に肌をみられれば動揺もする。そう動揺していたのだ。
しかし、彼はといえばぽけっとこちらをみるだけ。自身の身体が、シャムスディンにとって魅力的に感じるには到底及ばないのだと思い知らされた。解っていたというのに、動揺してしまった事実が悔しい。
いつも自分だけなのだ。淡い恋心を抱くようになった頃、精一杯の勇気を振り絞って好きだと伝えたことがある。しかし、彼は幼いときと同様に容易く好きと返してきた。欠片も想いが伝わらなかったあのときの絶望たるや。そうした積み重ねがあれば、こちらも荒むというものだ。
何も響きはしない師に苛立つが、一番腹立たしいのはそれでも彼を想い続ける自身だ。
いつになったら諦めるのかと、呆れるばかりだ。どうしたら諦められるのか、誰か教えてほしい。
嵩を増す想いに自身が潰れるまでだろうか。それとも、シャムスディンに恋人でもできない限り、諦め悪く続くのだろうか。そちらの方があり得ると、リルは自嘲した。
彼に恋人ができたら、きっと自分は無様に嫉妬し、とうとう嫌われるのだろう。見苦しく、浅ましく、こんな醜い自分をよく可愛いといえるものだ。
自分の正体を知らない。いや、気付いていないから、彼はあんなことを毎日口にするのだ。
可愛いといわれるたび、律儀に跳ねる鼓動は一向に学習しない。次の瞬間には虚しさが襲うというのに。あとどれだけの日々、絶望をくり返せばいいのか。
希望がないと頭で解っているのに、心は期待するのだ。だから、絶望する。
彼の心が少しでも自分に傾くというなら、以前のように笑いもしよう。けれど、何もかも無駄なのだ。だって、彼は自分に愛想がなくなっても嫌ってくれない。
嫌われないということは、好きになってもらえないということだ。彼の愛情がどれだけ深まっても、それは親か兄のようなもの。リルの望む愛情ではあり得ない。
おそらく裏切っているのは自分の方なのだ。
彼の想いと違う形で好きになってしまった。勝手に彼の望まない期待をしては、裏切られた気持ちになっている。
「……ほんと、意味ない」
自分は、狙った効果がでない失敗作の魔導具のようだ。
「リル、泣いてるの……?」
気遣わしげな低い声。振り向くと、声音の通りに心配そうな表情を浮かべたシャムスディンがいた。風呂上りで濡れた髪はちゃんと乾かされていない。
自身には頓着せず、こちらばかりを気にする師が可笑しかった。けど、笑みも浮かばない。
「何もないのに、泣く訳がないでしょう」
そして、涙もでない。泣いても絶望的な状況が変わることがないと知っている。
「そう……?」
気のせいか、とシャムスディンは弟子の言葉を信じる。たしかにリルの瞳は濡れていない。それでも、彼女の横顔をみたときに、なぜか泣いている気がしたのだ。自分の前髪が濡れていて、その雫で錯覚を覚えたのかもしれない。
「せっかくぬくもったのに、そのままじゃまた冷やしますよ」
パチン、とリルは指を弾いて、師の髪を乾かした。火魔法が得意な彼女なら、髪を乾かすことなど造作もない。
熱風を帯びて自身の髪が一瞬舞い、くすぐったそうにシャムスディンは笑う。
「ふふ、リルの魔法、やっぱ好きだな」
彼女が魔法を使うたび、見込んで弟子にしたことを満足する。抱える魔力に戸惑っていた頃を知っているだけに、成長を感じてシャムスディンは嬉しくなるのだ。
「そうですか。何が飲みたいですか?」
「ココア!」
温かい飲み物を用意すると提案され、シャムスディンは素直に希望を伝える。さきほどの感想に無反応なことも気にならない。リルが、自分のために湯を沸かして待っていてくれたと解っている。
彼女は要望通り、砂糖がいっぱいの甘いココアを作ってくれた。テーブルを向かい合って、互いにココアで温まる。ココアの甘みに表情をゆるめるシャムスディンと違い、リルは眉すら動かさずにココアを飲んでいる。彼女は自分の分に砂糖を入れなかったのかと思うほどだ。
昔は同じ甘いものを美味しいといい合っていた。成長につれて、味の好みも変わってしまったのかもしれない。同じものを共有できなくなったのなら、それは少し寂しいものだ。
女の子って難しい。
出会った頃と同じでいられないと理解したシャムスディンの感想はそれだった。