君の寝顔とサニーサイドアップの目玉焼きが大好きだから
【小説を書いてみました】
還暦の手習、余生におけるボケ防止策も兼ねて、隙間時間につらつらと書いてみました。高校時代と20代の最後くらいをつなぐ時空を舞台にしたラブストーリーです。絵の好きな子供が後先考えずに絵を描くような感じで、後先考えずに書いてみたら思いの外楽しくて執筆作業にはまりました。もし、面白かったとか、ここが少し残念だったとか感想いただけるようなら、こっそり伝えてくれると嬉しいです。
ちなみについ先日還暦同窓会のあった自分の実際の母校は僕らの1学年下から女子の募集が始まりました。今は普通の共学校になっていますが、数年前までは男女別学。校舎もグランドも公道を間に挟んで隔離されていて、広大な敷地の中に男子校と女子校がそれぞれ併設されている感じでした。僕の在学中、男子生徒は1学年12クラスで600人、全校で1800人。女子はとりあえず1学年下から1クラスだけの募集から始まったように記憶してます。僕が卒業する頃でも、まだ100人もいなかったかと思います。そんなだったので、在学中、同じ学校に女子生徒がいるという感覚は皆無でした。同年代の異性の視線を気にすることはなく、屋上でパンツ一丁で昼寝したりする純然たる男子校ライフを3年間貫徹しました。なので、この小説は完全フィクションです。事実無根の妄想です。ただ想像の世界を介することで、つまらない事実の中に埋もれて見過ごしがちな心の真実には少しは触れられたのではないかと自惚れてたりしています。お時間許す時にご一読いただければ幸いです。
目覚まし時計のアラームを止めて寝返りをうつと、目の前に瑞希の寝顔があった。前の晩、しゃもじを炊飯器に入れたままにすることの良し悪しを巡って少々の諍いがあったのだけど、瑞希は何事もなかったかのように微かに口角を引き上げたままの表情で安らかな寝息を立てていた。一年前の夏の終わりに、瑞希が一人暮らしをしていたこの小さなアパートに僕が転がり込み、そのまま二人で暮らすようになってから、一年と三か月の日々が過ぎていた。
瑞希の大きな瞳と丸みを帯びた頬には人懐こさがにじみ出ている。笑うと、口元に桜の花びらのような可憐さが広がった。最初に好きになったのは、そんな彼女の昼間の笑顔だったけど、こうして僕の隣りで安心しきった様子で眠っている、赤ん坊のような無防備な寝顔も、いつの間にか、それと同じくらい好きになっていた。
二年前の春、桜の季節に、瑞希は僕の人生にふいに現れた。
「制作部の新入社員、藤嶋瑞希さん。美大卒のデザイナーさんや。ああ、それで、こいつは、営業のホープ中里航。」
僕は大学を卒業して直ぐに中堅の広告代理店「明通」に就職して四年目の春を迎えたところだった。寝坊して、朝礼が行われていた会議室に慌てて駆け込んできた僕に、直属の上司である営業部長の大村さんが瑞希のことを紹介した。
瑞希は、それまで周囲に分け隔てなくふりまいていた笑顔をいったん自分の内側に回収してから、僕に向けて小さく微笑んだ。そして、それから一息おいて、深々とお辞儀をした。
「藤嶋です。よろしくお願いします。」
栗色の髪の毛の毛先が肩先で優しく揺れていた。
その一連の所作は、洗いざらしの木綿のTシャツのように自然で柔らかな振る舞いとして僕の心に映り、そのまま、お気に入りの映画の一場面のように記憶に残った。
出会いから二か月程経った六月の半ばの夜、僕が制作部に駆け込んだとき、他のデザイナーは出払っていて一人残っていた瑞希も帰り支度をしているところだった。
「ごめん。藤嶋さんも帰るところだったかな。」
「はい。何もなければ失礼するところでしたけど。」
「申し訳ないんだけど、これから一仕事お願いできないかな。」
「はい。私にできることなら。」
「例の高校野球案件。一番手の子が使えなくなったんだ。」
元のカンプを瑞希のデスクの上に広げながら言った。女子高生にしては少し大人びた清楚な雰囲気の美少女が長い黒髪を風に揺らせていた。
「綺麗な子ですよね。でも、大人の事情ってやつなんですね。」
瑞希は僕の慌てぶりに心を寄せながらも、それに過剰に引きずられることなく、落ち着いて状況を理解しようとしていた。
「事情としては、だいたいご想像通り。差替え用の素材が案件フォルダの中にあるから確認してもらってもいいかな。」
僕の説明が終わるか終わらないかのうちに、瑞希は帰り支度を放り出して、写真データを確認し始めていた。
それから、少し時間をかけて素材を確認し終えた瑞希は、PCのモニタに映っている二番手の子の明るい笑顔に優しい眼差しを向けながら言った。
「大丈夫です。この子に頑張ってもらいましょう。」
翌朝、スマートフォンにメッセージが届いていた。
「作業完了しました。中里さんのデスクにカンプ置いておきました。出社されたらチェックお願いします。藤嶋」
送信時間は、「2:53AM」となっていた。
会社に着いて制作部を訪れると、ワークスペースの隅のソファーの上で、瑞希が冬眠中の子熊のように丸くなって眠っていた。寝顔に向けて、心の中で「ありがとう。」と告げた。羽織っていた仮眠用のブルーのブランケットが片方の肩からずり落ちていたので、眠りを妨げないように気をつけながら、そっと両肩にかけ直した。
自分の席に戻り、パソコンの電源を入れて、大村さんに完了報告を入れ、急ぎのメールがないかをチェックして一息ついたとき、背中で瑞希の声がした。
「おはようございます。」
「おはよう。もしかしてさっき起きてた?」
「いえ、爆睡してたと思います。」
「冬眠中の熊みたいだったからね。一応、生存確認だけはしといたけど。」
「アハハ、ひどい。」
「でも、これはOKだよ。」
テーブルの上の新しいカンプに目を向けながら言った。
「ほんとですか」
「助かった。ほんとにありがとう。」
「よかった。」
瑞希はマシュマロのような頬を大きく膨らませて、それから、身体中の息をゆっくりと吐き出して安堵の表情を浮かべた。
「全体の光のトーン変えてくれたでしょ。この子の魅力、よく引き出せてると思う。」
瑞希は、満足気な笑顔で右の拳を握りしめガッツポーズをつくってみせた。つられて僕も思わず頬を緩めながら、瑞希の拳に自分の拳をこつんとぶつけた。
高校野球案件の緊急作業から、一か月程が過ぎた七月の半ば、瑞希を最初のデートに誘った。
「今月中に使える映画の招待券が二枚あるんだ。藤嶋さんの観たい映画があれば、それでいいので。この間の深夜作業のお礼もかねてということで。どうかな。」
「観たい映画あります。一緒に観てくれる人も募集中です。」
瑞希は、即答でOKの返事をくれた。
瑞希の「観たい映画」は、悪魔と悪魔祓いをする牧師が対決するホラー映画の古典的名作の続編だった。苦手だったけど、チャンスを逃したくなかったので、瑞希のチョイスに僕も即答でOKした。
映画が始まるまでは、彼女が小さな悲鳴をあげながら僕の肘につかまってきたりすることを密かに期待していたのだけど、映画が終わるまで僕の肘は空いたままだった。開映から五分もしないうちにスクリーンから目を背けていたのは僕の方だった。横目でそっと様子を伺うと、瑞希は座席から身を乗り出さんばかりにして、くるくると表情を変えながらスクリーンの向こう側の世界に夢中になっていた。僕は、奥歯を噛みしめ、掌に爪が食い込むほど拳をにぎりしめながら、二時間と少しの間、繰り返し襲ってくる悪魔の恐怖に一人で耐え抜いた。
映画の後は、僕が予約したイタリアンレストランで食事をした。以前、クライアントを接待するときに使った店で、自腹を切るには、少し背伸びが必要だったけど、味は確かだった。瑞希は、目の前に運ばれてくる料理の一品一品を、心から美味しそうにテンポよく平らげていった。
「いい食べっぷりだね。」
「だって美味しいんだもん。」
瑞希の笑顔が弾けて、僕を幸せな気持ちにさせた。
「食事を美味しそうに食べる人好きだな。」
「私もホラー映画が駄目な男の人、嫌いじゃないですよ。」
「ばれてたか。」
「ばればれですよ。でも、苦手なら、言ってくれればよかったのに。」
「子供の頃からずっと避けて通って来たんだけどね。そろそろ大丈夫じゃないかなと、トライしてみたけど・・・、やっぱり全然駄目だった。」
「アハハハ、ごめんなさい。私だけ楽しんじゃって。」
「まあ、一緒じゃなかったら一生観られない映画観れたし、今、こうやって話していて楽しいし。だから全然OK。」
「よかった。でも、中里さんは、ほんとは、どんな映画が好きなんですか。」
「「恋する惑星」って知ってる?」
「観てないですけど。タイトルは聞いたことあります。」
「素敵なラブ・ストーリーなんだ。十代の最後の頃に観て心に刺さった。今、又、再上映されてるみたいだけど。」
僕は、それから「恋する惑星」の魅力について瑞希に語った。瑞希は、目を輝かせて僕の若干長尺の熱弁を最後まで楽しそうに聞いてくれた。
デザートも食べ終わって席を立とうとしたとき、瑞希が少し照れながら、「私、ラブ・ストーリーもOKです。」と申告してくれたので、次のデートでは僕のお気に入りのラブ・ストーリーを二人で観ることを約束して、最初のデートはお開きになった。
二回目のデートで観た「恋する惑星」のエンドロールで、瑞希は白いハンカチでそっと頬の涙を拭っていた。僕はこの映画を観るのは三回目で、観るたびに、きりきりと胸を締め付けられるような甘い痛みは感じていたけど、涙を流したことはなかった。多分、この映画で描かれている僕の胸を締め付けた何かを瑞希も彼女なりの感じ方で感じとり、それが彼女の中では涙と言う形に変わって身体から溢れたのだと思った。映画を観終わった後、互いの感想を語り合っていたら、あっという間に三時間が過ぎていて、映画より長い時間話したねと二人で笑いあった。
その帰り道、瑞希のアパートの近くの小さな公園で、僕は瑞希に交際を申し込んだ。
「僕の彼女になってください。」
「高校生みたい。」
「ごめん。「恋する惑星」みたいな感じじゃなくて。」
「大好き。」
瑞希は勢いよく僕の胸に飛び込んできた。思春期以降、恋愛成功体験が乏しく、こんなにすんなりと思いが受け入れられたことはなかった。生まれて初めての経験に、嬉しさと同じかそれ以上の驚きを感じながら、瑞希のことを抱きとめていた。
瑞希を起こさないように、毛布からそっと這い出て、薄氷の上に降ろすようにして爪先を床に着いた。冷え切った床の冷たさが背筋まで突き抜けるのを感じながら台所の方に向かいかけたとき、微かな振動音に気づいた。テーブルの上で震えているスマートフォンに急ぎ足で歩み寄って手に取った。掌の中で震え続けるスマートフォンの着信表示が微かな電流を胸の奥に走らせた。通話ボタンをオンにして耳に押し付けた。
「航君、・・・」
唯の声を聴くのは十年ぶりだった。
「唯?」
「ごめんなさい。こんな時間に。」
懐かしい声が起き掛けの鼓膜を通り抜けて胸の奥の扉を直接叩いた。
「大丈夫だよ。どうしたの。」
一瞬、唯が小さく息をつく気配を感じた。
「剣が、亡くなりました。」
唯は、注意深く感情の乱れを削ぎ落とした静かな口調で剣の死を告げた。
「今晩、前夜式なの。」
凍りついた時間の流れに、微かな温もりを注ぎ込むように、唯はそっと言葉を継いだ。
「ぜんやしき?」
「教会でやるお通夜のこと。横浜の教会で六時から。明日の告別式までは、親族と、プライベートで親しかった人だけにお声かけしてるの。剣が亡くなったことは、明日の午後、正式に事務所から発表されることになってる。」
「行ってもいいのかな。」
「勿論。来てもらえるなら。」
「午後に大事な仕事があるから、少し遅れるかもしれないけど、必ず行く。」
「ありがとう。着いたら受付の人に、名前を言ってね。KENの親友だと伝えておくから。」
「わかった。」
「それと、教会の場所、少し分かりにくいと思うので、詳しい案内、後でメールしておくね。」
「よろしく。OB会の名簿に載せてるアドレスで大丈夫だから。」
「ごめんなさい。伝えるのが遅くなって。」
唯は気丈な態度を崩すことなく最後に言った。
「いや、伝えてくれてありがとう。」
それより、唯は大丈夫かと言おうとして、言えないまま電話を切った。
電話を切った後、窓際まで歩きカーテンを開いた。前の晩遅くから降り始めたらしいその冬最初の雪が、見慣れていた住宅街の風景を、一晩のうちに、時の流れから切り離された旧いモノクロ写真のような景色に塗りかえていた。
スマートフォンの検索サイトに「シリウス KEN」と打ち込んでみた。人気ロック歌手の急死は、まだニュースにはなっていないようだった。最新の投稿は音楽雑誌系のサイトのインタビュー記事で、その末尾に剣のプロフィールが付されていた。
〈KEN〉 四人組のロックバンド「シリウス」のボーカル&ギター。神奈川県鎌倉市の私立清風学園高校中退。同校では硬式野球部に所属し一年生の夏の大会からエースとして活躍するが、負傷によりその夏を最後に退部。その後まもなく、大学生を中心としたメンバーで構成されていたロックバンド「シリウス」に参加。KENが17歳の時に、「シリウス」はアマチュアバンドを対象としたロックバンドコンテストでグランプリを獲得し、翌年、メジャーデビュー。デビュー2年目にリリースした「冬の流星(作詞・作曲 KEN)」は、史上最速で再生回数1億回を突破する大ヒットに。今年12月24日のクリスマスイブに予定されている横浜スタジアムでのデビュー10周年記念のライブは発売から10分でチケットが完売。本名、鷹野剣。家族は、父(故人)・母、兄弟姉妹は無し。独身。昨年4月のライブ中に、「シリウス」のマネージャーでもあり、デビュー前から交際を続けていた高校の同級生である女性との婚約がファンに向けて本人から発表されている。
「おはよう。」
いつの間にか、瑞希が背中の後ろに立っていた。パジャマの上に僕のスエットパーカーを無造作に羽織り、小さな両手を自分の息で温めながら僕を見上げていた。
「友達が、死んだ。」
瑞希の頬に、微かに不安の色が差した。
「高校の野球部の同期。今晩、通夜に行ってくる。」
瑞希はパーカーの胸元をきちんと締め直して、それから静かに目を閉じて夜明け前の空に向けて手を合わせた。
「雪、酷くならないといいね。」
目を開いた瑞希が、ぽつりと零した。
午後に、二人でチームを組んで準備を進めてきた大手の映画会社相手のプレゼンテーションの予定が入っていた。
「プレゼンが終わったら直行?」
「そうなると思う。横浜で六時からなんだ。」
窓の外を見つめ続けていた瑞希の横顔に返事をした。
瑞希が朝食の支度をしてくれている間に、燃えるゴミをアパートの前のごみ収集スポットに持って行き、瑞希が買ってきたのだけど僕が世話をしている観葉植物に水をやり、クリスマスに瑞希にプレゼントしたエスプレッソマシンで二人分のエスプレッソを淹れた。テーブルの上に散らかっていた広告ちらしや、まず読みもしないDMはがきや、途中までは読みかけていた雑誌や、昨晩の晩酌の名残りのビールの空缶や乾きもの入っていた小皿を片付けて、二人分の朝食スペースを確保した。
「ヨコハマ6時」と唯の声を写し取った広告ちらしだけは、小さく折り畳んでポケットにしまいこんだ。
「野球部の人たちも来るの?」
オニオンスライスが山盛りのサラダに手作りのドレッシングをふりかけながら、瑞希が普段通りの調子でたずねた。いつも通りの絶妙な焼き加減のサニーサイドアップの目玉焼きのトロトロの黄身を一滴もこぼさないように口の中に運びながら、僕は、どうかな?というニュアンスで首を傾げてみせた。
「亡くなったのは、野球部、途中で辞めたやつなんだ。あまり多くは集まらないかもしれない。」
目玉焼きを上手に食べ終えたところで、僕は、そう付け加えた。どうでもいいことかもしれないけど一応付け加えておくねという言い方で、瑞希の質問に対する答えを朝の会話の中に滑り込ませた。電話をかけてきたのは誰なのかということには瑞希は触れてこなかった。
付き合い始めてしばらくした頃、どういう話の流れだったのかは覚えていないのだけど、多分一度だけ、高校の時に野球部のマネージャーに片思いしてたことを、瑞希に話したことがあった。
「現役中は恋愛禁止だったんだけど、根拠なく勝手に両想いだと自惚れていてさ、それで、野球部引退した後、自信満々で告ったらあっさり自爆。」
と、他愛のない笑い話として話した。
「めっちゃ航君ぽい。」
と、瑞希は笑っていた。
あの時、唯という名前まで、瑞希に喋ったかどうかについては、よく覚えていなかった。
窓の外では、一晩で街の景色を塗り変えた雪が音を立てずに降り続いていた。
十三年前、唯と初めてあった日も朝から雪が降っていた。朝方家を出る時には、まだ地面に落ちたそばから溶けて消える程度の雪だったけど、バスが清風学園に着く頃には、雪は少しずつ勢いを強めていて、バス停から校舎の入口に続く歩道にも雪が積もり始めていた。
一時間目は英語の試験だった。周りの受験生たちは、皆、張り詰めた表情で各自が持ち込んだ参考書やノートに向かっていた。単語カードを一通りめくり終えた頃合いで、試験監督の小柄な女性教師が入学試験の問題と解答用紙を両手で抱えて教室に入ってきた。僕は、筆箱から先の尖った鉛筆を三本取り出して机の右隅に並べた。準備万端、と思ったとき、消しゴムを忘れてきたことに気がついた。全身から血の気がひいた。
前の席の男子生徒に助けを求めようとして腰を浮かしたまま躊躇していると、隣の席から天使の囁きのような救いの声が耳に届いた。
「どうしたの。」
声の方に顔を向けた瞬間に、僕の視線は、黒い瞳に釘付けになった。入学試験開始前の張り詰めた空気の中で、彼女の周りの空気だけが不思議なしなやかさを保っていた。
「消しゴム、忘れたみたいなんだ。」
彼女だけに届くくらいの小さな声で返事をした。
「これ、使って。」
彼女はピンク色の真新しい消しゴムを差し出してきた。
「大丈夫。私、もう一つ持ってるから。」
僕がぐずぐずしていると、彼女は優しく微笑みながら、更に手を伸ばしてきた。一目で、気持ちを奪われかけていることを気づかれてはいけない気がして、僕は、わざとぶっきらぼうに彼女の方に手を伸ばした。ピンク色の消しゴムを受け取るとき、白くて細い彼女の指が、マメだらけのごつごつした僕の掌に微かに触れた。
「それでは、これより、清風学園高校入学試験の解答用紙及び試験問題を配ります。以後、私語は一切禁止します。」
試験監督の小柄な女性教師の甲高い声が、柔らかな感触を断ち切るように教室に響いた。
雪は試験の間中降り続き、午後に行われた三科目の国語の試験が終わる頃には、学園の広いキャンパス全体を白一色に塗り替えていた。
最後の科目の解答用紙が集められるとき、隣の席の「彼女」の解答用紙を視界の片隅で一瞥し、カメラのシャッターを切るようにして、氏名欄の「蒼野唯」という名前を胸の奥深くに刻み込んだ。
剣と再会したのは、高校の入学式の日だった。その朝、僕は、未だ皮の匂いのする学生鞄を脇に抱えて、両側に野菜畑と果樹園が広がる旧街道を肩で息をしながら走っていた。袖を通したばかりの真新しい濃紺の詰襟の学生服に、初夏を思わせるほどの強い日差しが降り注いでいた。腕時計に目をやると、入学式はすでに始まっている時刻だった。電車の駅からバス停四つ。たいした距離ではないと思って走り始めたけど、最初のバス停までも思いのほかの距離があった。学園前のバス停はまだ三つ先だった。追い打ちをかけるように、履きなれない革靴の中で踵がひりひり痛み出した。次のバス停まで行っておとなしくバスを待とうと思い、時々後ろを振り返りながら、靴擦れした方の足を引きずって歩き続けた。
次のバス停が百メートル先くらいに見えてきたとき、黒いバイクが肩先をかすめるようにして僕を追い越して行った。乱暴な運転に憤慨していると、バイクは少し先の路肩で急停車した。バイクから降りた男がフェイスガード越しにこちらを睨んでいた。目を合わさずに傍らを通り過ぎようとしたとき、大きな手が肩をぽんと叩いた。
「おまえも寝坊?」
フェイスガードを上げた男が白い歯を見せて笑った。黒い皮のジャンパーの下に僕と同じ濃紺の制服が覗いていた。
「乗れよ。」
剣に促されるままリアシートに跨った。
「しっかり摑まってろよ。」
剣はバイクのエンジンをかけた。僕は剣の腰に回した手に力を入れた。
「男二人でさえねえなあ。」
笑いながら剣が言った。同時に二人を乗せたバイクは、路肩から左車線の真ん中へ、獲物を狙う豹のような勢いで飛び出していった。剣は慣れた様子でバイクを操っていたが、僕は、想像以上のスピードに恐怖を感じながら必死で剣の背中にしがみついていた。スピードの分だけ冷たくなって頬を掠めていく春の空気と一緒に、分譲中の建売住宅の看板や果樹園の緑が滑るように二人の後ろに流れて言った。
「去年、帰ってきた。」
エンジンと風の音に紛れてしまわないように剣が大声で叫んだ。僕は、剣の背中にしがみついたまま、剣が家族の仕事の都合でアメリカに引っ越して行く少し前に二人で行った夏祭りの記憶を手繰り寄せていた。
小学校三年生の夏休み、近所の神社に剣と二人で出かけたことがあった。
「オオカミ少年現る!」と、けばけばしい書体で殴り書きされた見世物小屋の看板に引き寄せられた僕たちは、派手なアロハシャツを着た赤ら顔の大男に百円ずつ払って小屋の中に入った。柵の中で毛先が腰のあたりにまで届く茶色の鬘を被った小柄な中年男がいかにもやる気のなさそうな態度で半裸で地べたに寝そべっていた。狼親父は、時折、意味不明な甲高い呻き声をあげていた。やられたと思った。その時の自分にとってはそれなりに貴重だった百円玉を、いんちきな見世物に払ってしまったことを情けない思いで悔やんでいた。
ふと隣を見ると、剣が、「いんちきだ」と叫びながら、柵に手をかけてよじ登り始めていた。入り口にいた大男が駆け寄ってきて剣を引きずり落として胸倉をつかんだ。僕は思わず目を伏せた。顔をあげると、剣は歯をくいしばって、真正面から大男を睨み返していた。
「いい面構えだ。けどな、大人の商売の邪魔するのはうまくねえな。」
男はポケットから百円玉を二枚取り出すと、剣の掌に突っ込んだ。
そのお金で、剣は、隣に出ていた露店で冷たいラムネを二本買った。剣は、そのうちの一本を笑顔で僕に差し出した。冷たいラムネを腹に流しこんで落ち着きを取り戻した僕は、剣と並んで肩で風を切りながら、愉快な気持ちで境内の中を歩きまわった。
剣の背中はその頃よりも随分大きくなっていた。走っているうちに、いつの間にかバイクのスピードに対する恐怖感は薄れていた。
学園前のバス停に着いたところで、剣はガードレールの内側にバイクを停めた。
「ここに停めてく。」
バイクから降りた剣は街道を横切りキャンパスに続く坂道を走り始めた。
「バイク通学って禁止だったよな。」
剣の背中に言った。
「そうなの?」
他人事のように剣は答えた。
「ああ、でも、大丈夫だよ。」
剣は思い出したように言った。
「何で?みつかったら免許没収されるぞ。」
「その心配はない。」
「え?」
「持ってねえから。日本の免許。」
唖然として足を止めた僕の方を振り向きもせず、剣はすたすたと先に坂道を上がって行った。僕も右足を引き摺りながら剣の背中を追った。
坂道を上りきると少し先に青い屋根の講堂が見えた。ところどころ塗装の禿げかかった講堂の壁伝いに進んで行くうち、剣はいきなり排水パイプの金具に足をかけて壁をよじ登り始めた。
「来いよ。」
三メートルほどの高さのところにある講堂の黒い窓枠にしがみつきながら剣が呼んだ。ためらいながらも剣がそうしたのと同じように窓枠のところまでよじ登った。少し中の様子を覗いたらすぐに降りようと思いながら窓から講堂の中に目を向けたとき、足を踏み外して地面に滑り落ちそうになった。必死で窓枠にしがみつきながら奇声を発した僕に、場内から非難の視線が集まった。僕の視線は新入生代表の挨拶を終えてこちらを振りむいた蒼野唯の驚き混じりの笑顔に釘付けになっていた。
入学式の間中、二人は講堂の入り口の脇に立たされていた。やがて式が滞りなく済まされ、新入生たちは整然と並んで退場し始めた。その中に唯の姿もあった。彼女が近づいて来たとき、僕の心臓は、隣に立っていた剣に聞こえてしまわないかと心配になるくらいの勢いで脈打っていった。唯は、僕の側を通り過ぎるとき、僕だけに微かに笑みを浮かべながら小さく目で会釈をした。僕も不器用に視線を返した。半ば放心状態の僕の脇腹を剣が肘でつついた。
「別になんでもないから。」
僕は、宝物を隠しているところをみつかった小さな子供のように、自分と唯との密かな関係を剣に対して慌てて否定した。
「藤沢だっけ。ちょっと海沿い回って行こうか?」
入学式からの帰り道、江ノ島に抜ける道と東海道との交差点の手前で剣が言った。
「かまわないけど・・・捕まらないうちに帰ったら?鎌倉駅まででいいよ。」
剣の背中にしがみついたまま答えた。
僕の答えを無視して剣は交差点を直進した。そのまましばらく走るうちに吹き抜けて行く風の中に潮の香りが混ざり始め134号線に出ると夏休みの喧騒と冬の静寂の間でのんびりと昼寝をむさぼる四月の海が眼下に広がった。剣は僕の知らない英語の歌を口ずさみながら海沿いの道を走った。
辻堂の辺りで剣は左のウインカーを出した。
「ちょっと小便。」
剣は海水浴場に面した空っぽの駐車場にバイクを入れた。
「この下に便所あったよな。」
剣はすたすたと砂浜に続く階段を降りて行った。階段の下のところに古い公衆便所があった。僕も剣の後から階段を降りて砂浜に出た。
少し離れたところの波打ち際で地元の子供たちらしい小学生がアメリカンフットボールのまねごとをして遊んでいるのが見えた。
「あれ、昔、俺たちもやったな。」
用を足してきた剣がハンカチで手を拭きながら言った。
「向こうじゃ野球より人気あるんだって?」
「どうかな。場所にもよると思うけど。アメリカ広いから。」
ロングパスでも通ったのか遠くで小学生たちの喚声があがった。
「剣は、どうしてうちの高校にしたの?」
話しの流れを変えて剣にたずねた。
「帰国・・・なんとか制度っていうのがあってさ…ばあちゃんも勧めるし・・・まあ、成り行きってやつ?おまえは?」
今度は剣が僕にたずねた。
「女?」
剣は冗談ぽく言葉を重ねた。咄嗟に冗談で切り返せるほど、十五歳の自分は、「女」に慣れていなかった。制服姿の唯の姿が胸をよぎったが、剣の言う「女」の中に唯のことは入れてほしくない気がした。
剣は、僕との会話の流れを放り出し、代わりに胸ポケットから紺色の煙草の箱をつまみだすと、両手で風を防ぎながら慣れた手つきで煙草に火を点けた。その仕種はそのまま外国煙草のCMになりそうなほど様になっていた。剣は気持ちよさそうに海に向かってゆっくりと白い煙を吐き出すと、思いついたように僕の方にも紺色の箱を差し出した。それまで煙草を喫ったことはなかったけど、目の前の剣の喫いっぷりがあまりにもかっこよく見えたせいか、何となく自分も喫ってみたいという気になりかけていた。けれども、僕がほんの少しの間躊躇しているうちに、
「お前には似合わないな。」
と言って、剣は紺色の箱を胸ポケットにねじ込んでしまった。
「なあ、向こうで野球はやってなかったの?」
未遂に終わった喫煙初体験に少しの未練を残しながら剣に問いかけた。
「やってたよ。」
「だったら、野球部どうかな?」
「日本の野球部って色々めんどくさそうじゃん。」
「まあ、そうだろうけど、でも、俺はここの野球部でやってみたくて、この学校にしたんだ。五年前に、甲子園に初出場で、全国優勝してるんだぜ。」
剣は、即答はせず、煙草の煙をくゆらせながら、黙って遠くの水平線の辺りを見つめていた。小学校低学年のとき、ゴムボールでやる野球では、クラスで剣が圧倒的に一番上手かったことを思いだしながら返事を待った。こういうとき、煙草でも喫えれば間が持つんだろうなと思ったとき、波の音に紛れて聞き覚えのあるメロディが耳に飛び込んできた。剣はいつの間にか煙草の火をもみ消して海に向かって口笛を吹いていた。
『栄冠は君に輝く』、夏の甲子園大会の入場行進曲だった。ワンコーラス吹き終えると、剣は足元に転がっていた小石を左手で拾って立ち上がった。そして二、三度軽く左肩を回すと、海に向かって力強くその小石を投げた。それは滑らかな放物線を描いて驚くほど遠くまで飛び、静かに四月の海に吸い込まれていった。
「野球部って、禁煙だよな・・・」
冗談とも本気ともつかない表情で剣は言った。
入学式の翌日、教室から昇降口に向かう薄暗い廊下を歩きながら、唯のことを考えていた。一年生のクラスは、A組からJ組までの10クラスだったが、僕と唯は、一年I組、奇跡のように唯と同級生になれた。剣は隣のH組だった。
Ⅰ組の教室で唯に最初に会ったとき、消しゴムのお礼を言った。
「覚えていないかもしれないけど・・」
唯は僕の目を真っ直ぐに見ていた。
「入試の時、ありがとう。」
「覚えてるよ。よかったね。一緒の学校に入れて。」
薔薇色の高校生活のイメージが胸を満たしてくらくらした。
その後も、何か話しができる機会がないか、伺い続けたが、その日は結局最後のホームルームが終わるまでそれ以上話しかけるきっかけをつかむことができずに終わった。三年間同じクラスなんだし、慌てることないよなと、自分に言い聞かせながら、廊下を歩いて行き昇降口に向かう方に角を曲がるとその先に剣がいた。
「グランドに行けばいいんだろ?」
剣は足元のスポーツバッグを持ち上げなら言った。
「うん。」
親指を革靴の踵につっこみながら答えた。
昇降口を出て並んで小走りに駆け出した二人の間を黄色い揚羽蝶がひらひらと先に飛んで行った。
「中里君。」
そのとき、背後から聞き覚えのある声が僕たちを呼び止めた。その声が誰の声だかわかるより早く、胸に甘酸っぱいものが広がった。
「待って。」
唯が昇降口のところで手を振っていた。剣が僕の脇腹をつついた。唯はそのまま手をふりながら二人に駆け寄って来た。
「一緒に行こう。」
唯は二人の間に割って入り、二人に均等に笑顔を向けながら言った。
「俺たち先約があるんだよね。」
剣が言った。
「野球部でしょ。私も。」
唯は大きな瞳を見開いて自分を指差した。
「まじかよ。」
剣は両手を広げて外人のような大袈裟なポーズで言った。
「まじだよ。」
唯は剣の口調をまねて答えた。そして、その場で軽くシャドーピッチングをしてみせた。女の子にしては、きちんと理にかなったピッチングフォームだった。
「うそうそ。マネージャーだよ。」
「こいつ野球部だってよ。」
剣は愉快そうに言った。
「そうなの?」
僕は少しつまらなそうに答えた。
剣は「よろしくな」と唯の肩を気軽に叩いていた。僕は収拾のつかない気持ちのまま、とりあえずの「よろしく」を唯に告げた。それぞれの「よろしく」をまとめてしなやかな笑顔で受け止めた唯は、背筋をぴんと伸ばして先頭に立ってグランドへ続く坂道を歩き始めた。
唯に引っ張られるようにして坂を登りきると、そこはちょうど野球部のグランドのセンターの後方辺りだった。金網の向こうに青々とした芝生が敷き詰められた外野グランドが、そして更にその先に、手入れの行き届いた内野グランドが春の光を反射して白く輝いていた。唯は、少し先の金網とそのすぐ外側の排水溝の間の狭いスペースに設けられた花壇の中に、身を寄せ合うようにして咲いている一群の白い花に視線を落としながら言った。
「昔からずっとここに咲いてるんだ。」
「こんなのどこでも咲いてるじゃん。」
剣が口をはさんだ。
「そういう言い方、好きじゃないなあ。」
「どうでもいいけど、おまえ、何でこんなところに来たことあるの?」
剣が唯にたずねた。
「お兄ちゃんの試合見に来たのよ。」
「兄ちゃん野球部だったのか?」
「うん。」
しばし蚊帳の外にいた僕が、唯の横顔とグランドを交互に見つつ二人の間に割り込んだ。
「えっ、もしかして、蒼野って…」
唯は小さく頷いた。
「ほんとに?」
唯と自分の思わぬ接点の出現が胸に小さな灯を点した。
「優勝パレード、俺、鎌倉まで見に行ってたよ。」
僕が声を弾ませて言うと、
「私も行ってたよ。」
と唯も笑顔を浮かべた。
小学校五年生の夏休み、町内会の軟式野球チームの練習帰りに、清風学園の優勝パレードを見に行った。ユニフォーム姿のままパレードのコースに着いたときには、すでにどこも黒山の人だかりで、僕の背丈では何も見えそうになかった。コース沿いに張られたロープの内側では、けたたましく笛を拭きながら、何人もの警官が車道にはみだしそうになる人だかりを歩道の方に押し戻していた。
選手たちが自分の方に近づいてきたとき、人だかりの足元に潜りこんで前方に這い出ようとした。ラッシュアワーの通勤電車のような人波にもみくちゃにされて、勢い余ってロープの外に弾き出された僕は、飛び出した拍子に膝小僧を擦り剥いた。
「大丈夫か。」
ちょうどそこに通りかかった選手が大きな手を僕にさしのべた。僕はその手につかまって立ち上がった。
ありがとうございますと、言おうとしたとき、若い警官が僕の両脇を掴み乱暴にロープの中に押し戻した。僕を助け起こしてくれた選手は背筋をぴんと延ばして颯爽と歩いて行った。身体をロープに押し付けられながら、僕は背番号1番のその選手の後ろ姿を食い入るように見つめ続けていた。
「兄ちゃんがどうしたって?」
今度は、剣が二人の間に割って入った。
「蒼野さん、五年前に甲子園で優勝したときのエースだったんだよ。今はヤクルトスワローズのエース、だよね。」
唯に同意を求めつつ、剣にはもう少し感動しろよと促すように興奮気味に言った。剣はそれほど驚いた様子も見せずに、ただ、そうなの?と軽く首を傾げてみせた。
「なんか、めんどくさいな。日本の野球部だとさ、みんなお前のこと蒼野とか、気やすく呼びにくかったりするんじゃないの。」
「唯、でいいよ。」
唯が言ったとき、三人の背後からグランドに向けて強い風が吹いた。風は、唯のセーラー服の襟を震わせ、外野の芝生の上を滑るように走り、白く輝くダイヤモンドの方に勢いよく吹き抜けていった。風を追うようにして、唯はグランドの入り口に向けて駆けだした。僕と剣もその背中を追って走った。
藤沢の駅前商店街の中にあるイムラスポーツには西日が店の奥までさしこんでいた。
「明日、一回戦なんですよ。」
陳列棚から白いアンダーソックスを取り上げながら顔馴染みの井村さんに向かって言った。
「一応ベンチ入りできたんで。」
僕は、十日ほど前のメンバー発表の時のことを思い出しながら答えた。
エースナンバーの1番は剣。その後、順次番号順にベンチ入りのメンバーが発表されてゆき19番までの発表が終わった時点で、一年生のベンチ入りは剣一人だけだった。
「20番、中里。」
「はい。」
しゃっくりの止まらないときのようなひっくり返った声で返事をし、油の切れたロボットのような足取りで輪の中央に進み出た。真新しい20番の背番号を受け取って元の場所に戻ると、隣に立っていた剣が尻をぽんと叩いた。一瞬、身体が宙に浮いたような気がした。
「清風で一年からベンチ入りか。たいしたもんだ。」
井村さんは、どこか遠くを見つめるようにして言った。
「最後の一枠の20番です。主な役割はブルペンキャッチャー。別に僕でなくてもよかった感じですけど。それより、今年は、エースが一年生なんですよ。」
「鷹野君か。ありゃ別格だな。他には一年生のベンチ入りなんて何人もいないだろう。」
「ええ、まあ。剣と自分だけですけど。」
「たいしたもんだ。」
「自分でも何でベンチ入りできたのか不思議なんですよ。」
「見てる人はちゃんと見てるんだよ。」
「自分くらいの選手いくらでもいるんですけどね。」
「何か光るものがあったんだよ。」
「だといいんですけど。」
「自信もちなよ。ところで相手はどこだっけ?」
「神奈川商業です。」
「そうか、航君もついに高校球児か。初めてお父さんと一緒にグラブ買いに来たときは、こんな小さかったのになあ。」
井村さんは、自分の腰の辺りに手をやって言った。
「七歳のときですよ。」
「そうか、じゃあもう十年にもなるか。」
「おじさん、よかったら店休んで応援に来てくださいよ。」
「そうしたいけどな。商売も厳しいのよ。」
井村さんはソックスを入れた紙袋を僕に手渡した。
店を出た後、駅とは反対方向に商店街を歩いた。夕方の商店街は買い物客が足早に行き交い、八百屋や魚屋の店先では威勢のいい呼び声が響いていた。教室とグランドだけの生活が当たり前になっていたので、そういった普通の風景がとても新鮮なものに感じられた。
そのとき、思わぬ人の姿が視界に飛び込んできた。ちょうど三十メートルほど先のショッピングセンターから、唯が出てくるところだった。唯は道路に出ると、僕の方に向かってゆっくりと歩き始めた。僕は咄嗟に彼女に背中を向けてしまった。様子をうかがうようにそっと振り返ると、唯はまだ僕には気づいていない様子だった。唯はこちらに向かって歩き続けていた。声をかけるタイミングをうかがっているうちに、唯の方が僕に気づいて小さく手を振ってきた。僕もぎこちなく手を振り返した。唯は小走りに僕に近寄ってきた。
「買い物?」
「ああ。」
少し斜め下に目をそらしながら答えた。
「私も買い物。」
なぜだか嬉しそうに唯は言った。
制服やジャージ姿以外の唯を見るのは初めてだった。薄桃色のシャツに亜麻色のロングスカート姿の唯は、自分よりも一つ二つ大人びて見えた。
「学校以外で会うの初めてだね。」
唯が言った。
「そう言えばそうかな。」
視界の中で夕暮れの雑踏はいつしか単なる背景に後退し、唯の姿だけが視界の中心に映しだされていた。どうしていいのかわからないまま、とりあえず駅の方に向かってのそのそと歩き始めると、唯も肩を並べて同じ方向に歩き始めた。
「何買ったの?」
少し歩いたところで、唯が僕の持っていた紙袋を見てたずねた。
「試合用のソックス。」
紙袋を目の前で振って見せながら答えた。
「そうか。明日だね。」
「うん。明るいうちに商店街歩けるのが珍しくてさ、なんとなくぶらぶらしてた。」
「私も久し振りだ。」
唯は僕に同意するように言った。
それからしばらく、二人は黙って商店街を歩いた。歩きながら、僕はときおり横目で唯の横顔をちらちらと覗き見た。
その美しい横顔を、そうとは気づかれないいようにワンカットずつ自分の胸にしまいこみながら、これから自分のとるべき行動についての思いをめぐらせていた。唯は涼しげな表情を変えることなく僕の歩調に合わせるように隣を歩いていた。歩いているうちに再びイムラスポーツが見えてきた。
「これ、そこの店で買ったんだ。」
店の前を通り過ぎたところで、僕は唯に話しかけた。
「死んだ親父が、ここの店のおじさんと草野球仲間だったんだ。」
「そう。」
唯は、ごく短い返事だけを僕に返した。
少し先に駅ビルが見えてきたとき、唐突に胸に考えが浮かんだ。
気持ちを伝えるだけ。ただ伝えるだけ。二人きりで話せるチャンスなんて二度とない。
先のことについては何の展望もない思いつきだったが、ゆっくり考えを整理している余裕もなかった。
でも、面と向かっていきなり「君が好きだ」って言えるか?
「よかったらお茶でも飲んでかない?」
胸の中で勝手に大騒ぎしていると、唯の方がごく気軽な言い方で僕を誘った。一瞬ぽかんとしていた僕はあわてて唯の提案に同意した。
なぜだか二人で逃げ込むようにして入った喫茶店の店内は少し薄暗く、ゲーム機がそのままテーブルになった席がいくつか空いていた。二人で向かいあって座り、同じ年くらいに見えるウエイターに珈琲を頼んだ。
「中里君はこういうとこよく入る?」
「いや、めったに。」
「そう。私も。」
「普段は練習終わったら帰って寝るだけ。」
「そうだよね。」
「あのさ・・・」
「何?」
「唯、どうしてマネージャーやってるの?」
話しのとっかかりに意味もなく軽い気持ちでたずねた。
「毎日暗くなるまでつきあっててたいへんだよね。」
「たいへんだよ。」
唯は珈琲カップの皿を静かに自分の方に滑らせながら言った。
「でも、つきあってるって言い方は、ちょっと寂しいかな。」
しまったと思い、あわてて「ごめん。」と謝った。
「あやまらなくてもいいよ。」
やわらかな微笑を返しながら唯が言った。
「でも、私だって、本気で甲子園行きたいんだよ。」
相槌をうちながら、「甲子園」という言葉が、自分にはきちんとした現実味を伴って心に響いていないのを感じていた。日々の練習を乗り切っていくことだけで精一杯の毎日の中では、その先にあるものまで、なかなか気持ちが届いていないというのが正直なところだった。
「中里君ミルクは?」
「ああ、もらう。」
唯は白いミルクの入った銀の容器をそっと僕の方に滑らせた。自分のカップに白いミルクを注いだ。唯が砂糖を入れなかったので、普段は入れていた砂糖を入れずに珈琲に口をつけた。慣れない苦味が舌を刺した。
珈琲を飲みながら、「好きだ」という言葉を、その輪郭が擦り切れるほどに心の中で何度も何度も繰り返してなぞっていた。そして、それを口にした後の考えられ得る限りの唯の反応をあれもこれもと頭の中で想像していた。悪いケースを考えるときりがなかった。しかし、それらを全て飲み込んでしまうほどの感情の高ぶりが背中を後押ししていた。
唯は瞳を伏せて静かに珈琲を飲んでいた。薄桃色の頬と細い喉が微かに動いている。
眩暈がするほど綺麗だと思った。
―好きだ。―
気持ちを言葉にしようとしたとき、不意に唯の白い珈琲カップのルージュの跡が目に飛び込んできた。鮮やかなピンク色の唇の形が、白い珈琲カップになまめかしく残っていた。唯がいつもより大人っぽく見えていたのは気のせいばかりでもなかったのだと思った。
「化粧…するんだ・・・。」
ルージュの引かれた唯の唇を視界の隅にとらえながら力なくたずねた。
「ああ、リップだけね。普段は女子高生できないし…。」
微笑みながら言った唯のピンク色の唇は、唯自身とは別の意思を持った何か別の生き物であるかのようにゆっくりと動いていた。僕は、それまでの経験では説明のしようのない不思議な気持ちでそれを見つめていた。いつか剣の言っていた「女」という言葉が頭の中で渦をまいた。なぜだか気持ちを伝えようと言う意気込みが急に萎えていった。気持ちを奮い立たせようとしてみたが、まるで何か悪いクスリを間違えて飲んでしまったかのように、自分で自分の気持ちをどうすることもできなかった。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない。」
実際、自分の中で何が起きているのか自分でも分からなかった。
「ねえ・・・」
しばしの沈黙の後、唯は少し遠慮がちに言葉を選びながら僕に言った。
「邪魔じゃないよね。」
「えっ?」
「私。」
そう言って自分のことを指差す唯の質問の意図をとっさにうまく受け止め切れなかった。
「そんなことないよ」
と、一瞬の間を置いてからあわてて唯の言葉を否定した。
「よかった。」
唯は、ほっとしたように小さくつぶやいた。僕は、ぎこちなく同意の微笑みを返した。唯は、もう一度両手で包み込むようにして白いカップを持ち上げると、残りの珈琲をゆっくりと美味しそうに飲み干した。募る思いを伝えようとしていた覚悟は、吸いかけの煙草の先の白い灰のように、ぽろりと胸からこぼれ落ちていた。夢から覚めた起きがけの幼い子供のように軽く頭を振ってから、冷めかけの苦い珈琲を一気に飲み干した。
最初の夏の大会は快晴の横浜スタジアムで幕を開けた。試合前の挨拶を終えてベンチに戻るとき、人工芝から立ち上る陽炎の向こうに赤いルージュをひいた唯の微笑が一瞬ちらついた。バックネット裏付近に目を向けて見ると、配球表を膝の上に起き、いつもの試合の時と同じく、真剣な眼差しでマウンドの方を見つめている唯の姿を見つけることができた。唯の視線の先では背番号1番をつけた剣が投球練習を始めていた。捕手のミットに勢い良く突き刺さる剣の速球に次打者席の神奈川商業の一番打者の表情に動揺の色が浮かんでいた。
主審が試合の開始を告げた。
「ストライク!」
剣はゆったりとしたワインドアップポジションからほぼど真ん中にストレートを投げ込んだ。
主審の甲高いコールが響いたとき、打者のバットが初めてピクリと動いた。それまでのスタンドのざわめきを一塁側の清風学園応援席の大喚声が飲み込んでいった。
八回が終わった時点で二対0で清風学園がリードしていた。スコアボードを見る限りでは僅差の好ゲームだったが、スタンドを埋めた多くの観客の興味は勝敗の行方よりも剣の大記録の達成がなるか否かということに向かい始めていた。剣は初回から一人の走者も塁に出していなかった。夏の大会での初登板の一年生投手の完全試合は前例のない大記録だった。ベンチの中にも勝負の行方とは別の意味を孕んだ緊迫感が漂い始めていた。剣だけがその空気に無頓着で、入学式の日に海沿いの道をバイクで走りながら歌っていた英語の歌を口ずさみながら、九回のマウンドに向かった。
翌朝、学校に向かう電車の中で、周りに先輩の姿のないのを確かめてから、空いている座席に腰をおろし、駅で買ったスポーツ紙を読み始めた。ジャイアンツのサヨナラ勝ちと同じくらいのスペースを剣の完全試合の記事がしめていた。「高校生の投手としては、怪物・松川以来の逸材」というプロ野球のスカウトのコメントが目を引いた。
小学校の卒業文集には自分も「将来は巨人軍のエースになる」と書いていた。そのことがどれほど遠い夢なのか当時は見当もつかなかったが、それでも努力さえすれば夢は必ずかなうと信じていた。ふと気づくといつの間にか小さく萎んでいる古いゴム風船のように、プロ野球選手になるという夢は自分の中で現実味を失っていた。野球は高校だけでやり尽くして、大学に進んだら普通に勉強して普通に就職して先ずは女手一つで育ててくれた母親を安心させてやろう、そんな風に考えるようになっていた。
「隣、座っていいかな。」
記事に夢中になっていて気がつかなかったが、いつのまにか唯が目の前に立っていた。僕はもう一度周囲に野球部員がいないことをさりげなく確かめながら、いいよと頷いた。
「中里君。二駅、私に気づかなかった。」
唯は少しすねてみせるような調子で言った。 僕はどんな態度で言葉を返せばよいのかわからなかった。
「すごいね。初めてなんだ。初登板で完全試合って。」
僕のとまどいにかかわらず、唯は新聞を横から覗き込みながら無邪気に声をはずませた。
「鷹野君、プロに行くのかな?」
僕は、わざと興味のなさそうな言い方で「さあ、どうかな」とだけ答え、「蒼野さん、今年もオールスターに出そうだな。」と、隣の面のオールスター戦のファン投票の中間発表の記事に話題をそらした。
「俺、蒼野さんに憧れてうちの高校に入ったんだ。」
そこだけ、わざと言葉をはずませた。
「ふーん。」
唯は他人事のような返事をした。
「私ね、うちのお兄ちゃんがそんなたいした選手だってこと、つい最近まで、よく知らなかったんだよね。」
「へえ。」
「野球が上手でも下手でも、お兄ちゃんはお兄ちゃんだし。」
「でも活躍すれば悪い気はしないだろ。」
前日の試合で、ヤクルトスワローズの蒼野投手は広島カープ相手に完封で、今シーズン八勝目をあげていた。
「そりゃ嬉しいよ。兄妹だもん。」
「複雑だな。」
「そうでもないよ、ふつうだよ。」
「俺、兄弟いないからよくわからないけど。そんなものかな。」
「中里君ってさ・・・なんでもきちんと考えるのね。」
唯は慎重に言葉を選びながら言った。
「頭で考えてもしょうがないことも多いんだけど。」
「そうかもね。」
唯が頷いたとき、電車は学園へのバスへの乗換駅に停車しドアが開いた。
決勝戦の前日は雨が降った。県大会の決勝に進んだのは唯の兄たちが甲子園に出場したとき以来六年ぶりだった。雨天練習場でピッチング練習を終えた剣と僕が部室に戻ると、唯がベンチにこしかけて二人を待っていた。
「はい。横浜学院のデータ。」
唯は剣にノートを差し出した。
「ミーティング何時からだっけ?」
剣は無造作にノートを鞄に突っ込みながらたずねた。
「五時から視聴覚室。もうみんな行ってるよ。」
部室の時計は五時十分前を指していた。三人は並んで部室を出た。僕と唯は傘を持っていたが、剣は自分の傘を持っていなかった。
「はい。これさしていって。」
唯は剣に赤い傘を差し出した。
「いらねえよ。これくらいの雨。」
勝手に歩き出そうとする剣の肘を唯がつかんだ。
「駄目だよ、肩濡らしちゃ。」
唯は自分の傘を広げて剣に渡した。
剣はめんどくさそうに赤い傘を受け取ると、右手でそれをくるくる回しながら先に立って歩きだした。
「私は中里君に入れてもらおう。」
唯は僕の黒い傘の中に飛び込んできた。僕はあわてて唯の方に傘を寄せた。
「中里君、濡れちゃうよ。」
唯は僕の方に軽く傘を押し戻した。
「おまえら、いつまでもやってろよ。」
剣が二人の方を振り返りちゃかすように言った。
「待って。」
唯は先にすたすたと歩きだした剣の背中を追うように歩き始めた。僕は唯に傘を差し出しながらそれに続いた。
三人はグランドのフェンス沿いの小道を歩いた。グランドは雨で、ところどころが、銀色に光っていた。センターの後方に校舎の方に降りていく坂道があった。そこまで来たとき、剣は急に足を止めるとグランドの方に向き直り背筋をぴんと伸ばして姿勢を正した。それから珍しく真剣な表情でグランドに向けて黙礼をした。僕と唯もなんとなくそれにならってグランドに向かい頭を下げた。
「どうしたの。」
唯が剣にたずねた。
「別に。意味なんてないさ。」
剣は悪戯っぽく白い歯を見せてそう答えた。
霧のように立ち込める細かい雨粒の中に唯の小さな疑問を置き去りにしたまま、三人は肩を並べて坂道をゆっくりと下って行った。
高校野球一年目の夏。あと一つ勝てば甲子園という決勝戦の相手は、三年連続での甲子園出場を狙っていた横浜学院だった。
前々日の準決勝でノーヒットノーランを記録していた剣は、決勝戦も初回から好投を続けていた。0対0のまま進んだ八回表の横浜学院の攻撃、二死走者無しで一年生の四番打者、二年後の秋にジャイアンツからドラフト一位で指名されることになる原雄平が打席に入った。初球は外角低めにストレートが決まった。その日投げた球の中で一番の速さだった。軽い牽制球を一塁に投げた後、剣はその牽制球よりも更にスピードを抑えた山なりの超スローカーブを原に投じた。原の背中の後ろからブーメランのようにストライクゾーンに戻ってくる軌道で球はホームベース上の空間の角っこを掠めた。原は、ぴくりとも反応せずにその球を見送った。
「ストライク、ツー。」
審判の手が高く上がった。
三球目は外角高めのストレート、四球目は膝元に落とすカーブが外れて2ボール2ストライクになった。次の球を投げるとき、剣は、それまでに聞いたことのなかった激しい雄叫びを上げながら腕を振った。初球と同じく外角低めいっぱいにストレートが走った。原は右足を踏み込んでコンパクトにスイングした。マッチを擦るような音と球がミットに当たる音がした。
「ファールボール。」
ホームベースの後ろに転がっている球を拾い上げたキャッチャーが悔しそうにミットを叩いた。剣は能面のように表情を消したまま何事もなかったかのように、主審から新しいボールを受け取った。
「3ボール2ストライク。」
主審のコールでプレーが再開された。
今度は構えた原が、珍しく猛獣のように雄叫びをあげた。剣は一瞬静かに微笑み、それから一塁走者を無視して大きく振りかぶった。一瞬あっけにとられていた一塁走者が慌ててスタートを切ったが、剣は動ずることなくそのまま右足を高々と上げていった。外野スタンドの最上段から見ていても間違いなく他の誰でもない剣だとわかる美しい投球フォームだった。左腕を鞭のようにしならせてボールをリリースした瞬間、プラスチックがパチンと千切れるような嫌な音が味方ベンチにまで響いた。その直後、その嫌な音をかき消す金属音が球場を支配し、数秒後、白球がバックスクリーンを直撃していた。一瞬の静寂の後、スタジアムは地鳴りのような歓声に呑み込まれていった。マウンドにはグラブをはめたままの右手で左肘を抱え込んでいる剣が石ころのようにうずくまっていた。
一、二年生の新チームで挑んだ秋の県大会は準々決勝で敗れた。その翌日、雨で練習が中止になった日に、剣の家に足を運んだ。剣は稲村ケ崎の近くの瀟洒な七階建のマンションの最上階に住んでいた。
「一人暮らし?」
玄関で靴を脱ぎながら剣にたずねた。
「親はまだニューヨーク。ばあちゃんが一階に住んでる。大家さんだけど家賃は勘弁してもらってる。飯も食わせてもらってる。」
リビングに入ると、壁際のオーディオセットが目を引いた。黒光りしている二つのスピーカーボックスは、それぞれが自分のうちの冷蔵庫と同じくらいの大きさだった。
「凄いな。」
僕は、巨大なスピーカーボックスを撫でながら言った。
「いや、全然ボリューム上げられないんだ。ばあちゃん、壁の厚さをけちったらしい。」
剣は真顔で言った。部屋の反対側の隅には鉄アレイが一組、無造作に転がっていた。オーディオセットの隣にメタリックブルーの光を放つエレキギターが立てかけてあった。
「弾くのか、あれ。」
僕はギターに目配せしながら言った。
「弾くよ。」
剣は、ごく当たり前のことのように答えた。野球以外に趣味らしきものがなかった僕は、青いギターに軽い嫉妬を覚えた。
「秋の大会昨日負けたんだ。雨も降ったんで、今日は新チームになって初めての完全オフ。明日から冬トレ。」
僕は、話しの流れを、本題に引き戻そうと野球部の近況を話題にした。
「きついんだってな。」
「走りながら気絶するらしい。」
「たいへんだな。」
剣は他人事のように言った。
「おまえは、いつ戻ってくるんだよ。」
「やめる。」
剣は、汗をかいたアンダーシャツをその辺に適当に脱ぎ捨てるかのように無造作に言い放った。虚を突かれて言葉に詰まっていると、剣は黙ってシャツの左袖をめくって見せた。巨大なミミズが這っているような手術の痕が痛々しかった。それから、剣は両腕を僕の方に向かって伸ばして見せた。左腕は右腕と同じようには伸びなかった。
「もう150キロとかは無理みたいなんだよな。」
「やめてどうするの?」
「ロック。」
剣は落ち着きはらって答えた。
「ロック?」
僕は、すっとんきょうな声で問い返した。
「ロックンロールさ。向こうでやってたんだ。その時の仲間が、今、横須賀にいて、この間、ちょっと洒落でライブに出たんだけど、そこに居合わせた「シリウス」って言うバンドに誘われてやることにした。」
そう言うと、剣はアンプのスイッチを入れギターのストラップを肩にかけ、慣れた手つきでどこかで聞いたことのあるフレーズを勢いよくかき鳴らしてみせた。
「最後の大会までまだ二年近くあるんだぜ。」
「150キロのストレートは、俺が投げなくたって、来年の夏もその次の夏もきっとどこかで誰かが投げるよ。」
穏やかな口調ではあったが、その場の感傷が入り込む隙間はなかった。いつか海沿いの国道でバイクを走らせながら歌っていた英語の歌を剣は弾き始めた。僕は、目の前でギターを弾いている剣と自分との間に、望遠鏡を逆さに覗いたときのような奇妙な距離感を感じていた。
「シリウスってさ、実は二つの星なんだってさ。」
1フレーズギターを弾き終えた剣が、何光年も離れた宇宙のことを、隣りの町のことでも語るような口ぶりで言った。シリウスは、肉眼では一つの恒星に見えるが、実際には「シリウスA」と呼ばれる主たる星と、「シリウスB」と呼ばれる白色矮星から成る連星であるらしかった。シリウスが一番明るい恒星であることは知っていたけど、それが二つの星であることは知らなかった。
十二月二十九日に年内最後の練習が終わった。年明けの三日までの五日間が夏休みも春休みもない野球部の一年を通して唯一のまとまった休暇期間だった。練習がないのは嬉しかったが、休みに入って三日も過ぎると唯の顔を見れずに過ごすことの寂しさの方が胸の中で幅をきかせるようになっていた。
元旦の夕方、家でぼんやりとテレビを見ていたときに電話が鳴った。
「よう、高校球児、今、コンパやってんだよ。ちょっと顔だせないか?」
中学の同級生の野田からだった。コンパと言われても実際にどんなものなのかよくわからなかった。野田とも特に親しい間柄だったわけでもなかったが、普通の高校生が普通にやっているらしいコンパというものがどんなものなのかということに興味をそそられて誘いにのった。
電話で説明を受けた鎌倉駅の近くのスナックに入ると、中学のときの同窓生に加えて、同じ歳くらいのようではあるが見覚えのない顔が、半々くらいで小さな店いっぱいに車座になって座っていた。
「青春真っ只中、めざせ甲子園の中里君でーす。」
野田は親しげに手をあげて、僕を自分の隣の席に招き入れると、声を張り上げて僕のことを紹介した。
青春という言葉はどうにも気恥ずかしかったが、その場の喧騒の中で微妙なニュアンスを一から説明してもしょうがないと思い、とりあえずのお愛想笑いを浮かべながら席に着いた。
正月のお屠蘇くらいしか酒など飲んだことはなかったので、周りと同じように飲めるのかどうかおっかなびっくりだったが、正面に座っていた女の子が慣れた手つきでつくってくれた水割りは想像していたよりはスムーズに乾いた喉を流れ落ちていった。子供の頃、父親に一口だけと言って飲まされたビールがただ苦いだけだったのとは随分違った。中学のときに特に親しかった友達は来ていないようだったので、最初は回りから投げかけられる高校野球に関する質問に、あたりさわりなく答えているだけだった。最初のうちは場違いなところに来てしまったような気がしていた。しかし、勧められるままに飲んでいるうちに、名前もうろ覚えの隣の女の子の肩に手を回して野田の構える使い捨てカメラに向けてピースサインを出せるくらいには酔いが回っていった。
会が半ばを過ぎた頃、店の明かりが落ちてスローテンポのバラードが流れはじめた。野田から促され、野田の知り合いらしい女の子の腰に手をまわし、いいかげんなステップでチークダンスらしきものを踊りだした。踊りながら自分の身体が自分のものではないような違和感を覚えてはいたが、それは嫌悪感というよりは、甘美な匂いのする未知なる世界への誘惑として、ますます深く僕を酔わせていった。
チークタイムが一段落し席に腰を下ろすと、耳元で野田が「あいつ、いけるぞ。」とささやいた。
帰り道、ダンスを踊った女の子と鎌倉駅に向かう裏路地を二人きりで歩いていた。野田が自分に彼女を送らせたのか、もしかしたらその逆に自分の方が送られていたのか、前後の記憶はさだかでないが、とにかくふと気づくと二人はメインの商店街から少しはずれた路地を千鳥足で歩いていた。ぎらぎらとした原色の光を放つ妖しいネオンの光が半開きの目に飛び込んできた。彼女のほうも、かなり酔っていたのか、あるいは、そのふりをしていたのか、無言のまま僕の腕に自分の腕をからめてふらふらと歩いていた。ホテルの入り口前にさしかかったとき、ふいに彼女の腕に力が入ったような気がした。野田の囁きが朦朧とする意識の中で渦を巻いた。後先を考える思考力を停止したまま僕は彼女を引きずり込むようにしてそのホテルに飛び込んだ。彼女は少しも抵抗しなかった。
部屋に入るなり彼女にのしかかるようにしてベッドに押し倒したが、酔いのせいか、それとも緊張感、あるいは心の奥底にわずかに残っていた罪悪感のためか、気ばかりがあせって、下半身はいうことをきかなかった。 状況を察したらしい彼女が急所を手で愛撫しだした。すると今度は急激にこみあげてきた欲望がみるみるうちに下半身に充満して押さえきれないマグマとなって爆発しそうになった。どうしていいかわからないまま彼女の白い裸体をむさぼった。滅茶苦茶な動きの中で怒張した敏感な部分が彼女の太ももに何度かこすれたとき、それだけで興奮は頂点に達しあえなく果ててしまった。
「もしかして、初めてだった?」
彼女はベッドの脇にあったティッシュで太ももにこぼれた白い粘液をふきとりながら表情を変えずに言った。僕は色を失ったままベッドの横に突っ立っていた気がする。
「私、寝るね。」
彼女はそう言ったきり、頭まで布団をかぶり僕に背を向けて寝ついてしまった。しばらくベッドの上に腰を下ろしたまま、呆然と安っぽい壁紙の模様を見つめていた。いつしか彼女はすやすやと寝息を立てはじめていた。 僕はエンジ色の古ぼけた絨毯の上に脱ぎちらかされたままになっていたパンツとズボンを拾い上げ、ドアの近くに落ちていたシャツとジャンパーを盗みとるようにして身につけると、彼女をおこさないように忍び足で部屋を出た。
ホテルを飛び出したとたん、激しい吐き気を感じた。苦味と酸味で舌が痺れるような吐しゃ物をアスファルトの上に吐き出した。涙が頬をつたって胃液の溜まりの中にこぼれ落ちた。
気が狂いそうなほど唯に会いたいと思った。ただ、教室やグランドで一緒の時間を過ごせるだけでいい。そう思った。
未だ誰もいない早朝のグラウンド脇の坂道でダッシュを繰り返す僕にカミソリのように冷たい北風が容赦なく吹きつける。耳がちぎれそうに痛んで、もうやめてしまおうかと思うが、歯を食いしばり走り続けるうち、身体の奥底から湧き上がる熱気が少しずつ全身を包み込んでいった。
最後の一本を走り切り、坂の上で大の字に寝そべっているときには、額から流れ落ちた冷たい汗が火照った頬を伝い地面に落ちていくのを心地よく感じられるほどになっていた。半年後の高校生活最後の夏に、ただ野球の試合で勝つためだけにこうして毎朝坂道を走り続けている。視界いっぱいに広がる冬の青空を眺めながら、もしかしたら、自分は、今、人生で一番幸せな時間を生きているのかもしれないと思った。
「おはよう。いい天気ね。」
青空の真ん中に、もう一つの幸福が現れた。
「毎朝大変ね。」
「大変だよ。今日も走り始めるまで自分との闘いだった。」
起き上がり、背伸びをしながら唯に答えた。
「偉いね、今日も自分に勝ったんだ。」
「かなり頑張ってようやく並みの選手だから。」
剣と違ってね、という言葉は飲み込んだ。剣が野球部を去ってから一年と四か月が過ぎていた。唯と並んで坂道を下り始めたとき、朝一番の北風が二人に吹き付けた。唯は小さな声をあげて僕の左肘につかまった。この風が一日中吹き続けてくれたらいいのにと思った。
「先、教室行ってるね。風邪ひかないでね。」
唯はグラウンド脇の道を通り、校舎へと歩いていった。
唯と一緒に甲子園に行きたいと心から願った。冷たい風が頬を冷ましても、唯も同じ気持ちでいてくれるはずだと信じて疑わなかった。
最後の夏の神奈川県大会、清風学園はベスト8入りをかけた5回戦で横浜学院と対戦することになった。夏の大会で横浜学院と当たるのは二年前の決勝戦以来だった。その年の春から、僕は、その二年前の夏まで剣が着けていたエースナンバーの背番号1番を着けるようになっていた。
一回の裏、僕は、横浜学院の攻撃を三者三振で切ってとった。これまでで一番と思うほど調子がよかった。
二回の表、先頭の原が最初の打席に入った。外角のストレートとカーブでノーボール2ストライクに追い込んだ後、内角高めの球で一球間を取り、四球目は外角低めのストレートで勝負にいった。追い込まれていたにもかかわらず、原は、マウンドまでスイングの音が聞こえるくらいのフルスイングをしてきた。一瞬、恐怖を感じたが、僕の投げたボールは原のスイングの軌道をすり抜けてキャッチャーのミットに納まった。
「ストライク、バッターアウト。」
一塁側の応援席から大歓声が上がり、背筋を熱い電流が走り抜けた。ベンチでスコアをつけている唯のことも、その時は意識から消えていた。
試合は九回まで0対0で進んだ。九回表、清風学園は、二死二塁のチャンスをつくった。続く三番打者の放った打球はライナーで三塁線を襲った。味方のメンバー全員がベンチから身を乗りだすようにして立ち上がった。しかし、次の瞬間、その打球は、信じられないほどのスピードで横っ飛びした三塁手の原のグラブに納まっていた。原は、起き上がると、ボールを両手で軽くこすってからピッチャーにトスし、何事もなかったかのように三塁側のベンチに戻っていった。
九回裏、横浜学院の攻撃も二死走者無しまで進んだ。三人目のバッターは原だった。2ストライク2ボールからの五球目だった。外角低めへのストレート。剣と違って球速は140キロそこそこだったけど、コースに決まれば打たれない自信はあった。投球モーションに入る時、ここで原を打ち取れれば、剣に勝てるという思いが一瞬脳裏を過った。リリースの直前、少し余計な力が入って、一瞬身体が早く開き、投球はシュート回転して狙ったコーナーよりもボール二つ分くらい甘く高く入った。原のフルスイングにとらえられた打球は横浜スタジアムの右中間の一番深いところのフェンスを悠々と越えて行った。
シャワーを浴び、荷物をまとめて廊下に出ると、唯と剣が並んで立っていた。
「お疲れ。」
剣が言った。肩にかかる髪が唯と同じくらいの長さになっていた。
唯は剣に礼を言い、僕には「先にバスに行ってるね」と声をかけて、駐車場へ向かっていった。その背中を無意識に目で追っていると、剣が肘で脇腹をつついた。
「今度俺もコンテストに出るんだ。ロックンローラーの地区予選だけど。よかったら二人で観に来いよ。」
「誘ってみる。」
応援に来てくれたことの礼を言い、僕は唯の後を追った。
市民会館の大ホールは、髪を金色や紫色やオレンジ色に染めた女性たち、身体中に派手なアクセサリーをぶら下げた男たちが幅を利かせていて、場違いなところに紛れ込んでしまった居心地の悪さを強烈に感じていた。唯が一緒でなければ、その場にとどまることは難しかったと思う。隣りの席に座っている唯は、それなりに、次々に舞台に登場するバンドの曲を楽しんでいる様子だった。僕には、正直、どれも似たり寄ったりのレベルで、それぞれの纏う奇抜な衣装だけが、それぞれのバンドのそれほどの深みもない個性を区別しているようにしか感じられなかった。
「次、鷹野君」
入り口で手渡されたプログラムを見ながら唯が言った。
「シリウス」は、男四人のシンプルな編成で衣装は特に奇抜なものではなかったけど、その演奏のレベルが他のバンドを圧倒していることは、音楽には疎い僕にも感じとることができた。観客の拍手に包まれてギターを鳴らし、力強く叫ぶように歌う剣は、マウンドにいた時と同じように自信に満ち溢れていた。間奏の部分で剣がステージの前の方まで来て軽やかなステップを踏むと、客席のいたるところから歓声が上がった。観客は次々に席を立ち、会場はやがて総立ちになった。唯が立ち上がったので、僕も座っているわけにいかず、おずおずと腰を上げた。横目で覗き見た唯は、剣の奏でる音楽に陶酔しきっていた。
その後、又、数組の演奏があり、二十分程の休憩の後に審査結果の発表があった。会場が暗転してスポットライトが場内を走り回った。
「グランプリは、エントリーナンバー11番、シリウス!」
割れるような歓声の中、剣たちが再びステージに上がった。会場は再び総立ちになった。
舞台裏の楽屋の前のスペースは、それぞれのバンドの友人、知人、関係者が入り乱れて、立錐の余地もないほどに混み合っていた。背伸びをして一通り周囲を見廻したが、剣の姿は見つけられなかった。
「すごいね。これじゃ、無理かもね。また今度にしようか。」
唯にそう言った時、背中から、剣の声がした。
「航!」
唯と二人で人並みをかき分けて剣の方に進んだ。
剣もこちらに向かってきた。両手に花束を抱えていた。
「おめでとう」
唯が言った。
僕も、「おめでとう」を重ねて、剣に右手を差し出した。剣は花束を側にあった小さな丸テーブルの上にそっと置いてから、僕の手を握り返し、そこに、唯が柔らかな手をそっと重ねた。
それから剣は、脇においた花束の一つを取り上げて、それを唯に差し出した。
「もらいものだけど、よかったら持ってけよ。」
唯は嬉しそうに微笑み、その真っ赤な薔薇の花束を胸に抱いた。
カメラを手にしたバンドメンバーらしき男が剣に何か耳打ちしていた。
「OK。すぐ行く。でも、ちょっと待って、俺たち三人撮ってくれよ。」
と剣が言った。
唯を間に挟んで僕たちはカメラの前に立った。唯は胸に抱いた花束の中から薔薇の花を二本抜いて、剣と僕に一本ずつ手渡した。剣はカメラを持った男に軽口をたたき続けていた。僕はシャッターが切られている間もすぐ隣の唯の肘と自分の肘が微かに触れ合っていることにどきどきしながら、ぎこちない作り笑いをカメラのレンズに向け続けていた。
夏の終わりの昼下がりの鎌倉行きの江ノ電は、ちょうど座席が埋まるくらいの混みようだった。僕と唯は、扉の近くに二人で並んで立った。
「剣、凄いな。」
一輪の薔薇の花と窓の外に見える湘南の海を交互に眺めながら独り言のようにつぶやいた。
「全然かなわないんだ。子供の頃から。」
冗談めかして言ったけど本音だった。唯は、静かに海を眺め続けていた。やがて電車は短いトンネルに入った。窓には、剣に対するコンプレックスを唯に否定してもらいたがっているちっぽけな自分が映っていた。
「中里君は、最後まで野球頑張ったじゃない。」
トンネルを出たところで唯がこちらを振り向いて言った。鼻の奥がつんと熱くなった。隣を見ると、唯はすでに遠くの海に視線を戻していた。
「唯。」
「何?」
「いや、薔薇の花、好き?」
僕がとりあえずボール球で相手の様子をうかがうときのようにたずねると、唯は先生に褒められた小さな子供のように素直に頷いた。
「よかったな。」
「でも、ほんとは一番好きなのは他にあるんだ。」
「何の花?」
「私の一番好きなのは、この薔薇ほど高級ではないけど、誰も見てなくても、その辺に自分で勝手に咲いていそうな花。」
「なんだろ。たんぽぽ・・・じゃないよね。」
「マーガレット。」
唯は自分自身にも確かめるようにして言った。
「マーガレットってあの白いやつ?」
「そう、白いやつ。うちのグランドの脇の花壇にも咲いてるやつ。中里君は何か好きな花ってある?」
必死で答えを考えた。
「いいよ。無理に考えてくれなくても。」
唯が優しい口調で言った。
「梨の花。」
とっさに思い浮かんだ花の名を答えていた。
「梨ってあの果物の梨?」
「グランドの横にある丘の上に登りきると、グランドと反対側、学校の裏手に広がる梨園が見えるんだ。」
僕は一年前の夏に一度きり見たままの、おぼろげなイメージとして記憶に残っていた景色を思い浮かべながら唯に言った。
「去年の夏の大会で、めった打ちにされたあとね、丘の上から見たんだ。一面に広がる白い梨の花がさわさわと風にゆれていた。白い海みたいに、波みたいに、風にゆれてるんだ。」
「知らなかったな。見てみたいな。」
今度いっしょに見にいこうよという言葉が喉元までせりあがってきたとき、社内アナウンスが唯の降りる駅を告げた。唯は小さく手を振りながら電車を降りて行った。
出発を告げるメロディが鳴り始めた時、僕は、閉まり始めた扉の隙間からホームへ飛び降りていた。ホームの少し先を改札口の方に歩いていた唯の背中を追って歩を進めた。唯に近づくに連れて波打つ心臓の輪郭がはっきりと分かるくらい胸の鼓動が高まっていた。
駅前の大通りから、脇に抜けるなだらかな上り坂を十分ほど歩いて登りきったところにある高台に小さな公園があった。
「ここでいい?小さい頃、いつもここで遊んでたんだけど。」
園内には子供用の小さなブランコと滑り台が設けられていた。少女時代の唯を想像しながら唯の背中の後について公園に足を踏み入れ、そのまま、二人で公園の隅にあるブランコに並んで座った。
「原、プロに行くみたいだね。」
「そう。」
「剣もプロになるんだろうな。」
「そうね。」
話しが途切れないようにと、予め用意してあった話題は直ぐに尽きてしまい、二人きりの夕方の公園で沈黙が続いた。
「帰るね。」
しばらくして唯が少し遠慮がちに言ったとき、僕には、彼女を引き留める言葉は残っていなかった。唯がブランコから静かに立ち上がった。後を追い、僕もブランコから飛び降りた。
「唯。」
振り向いた彼女に次の言葉を告げるまでの間、僕が飛び降りた方のブランコが背後で子猫の鳴き声のような音を立て続けていた。ブランコの音が少しずつ小さくなり、やがて、最後に微かな金属音を立てて静止した。
「好きだ。」
唯に対する想いの全てを身体中から掻き集めて絞り出した。空っぽになった身体が震えだした。
「ごめんなさい。私、好きな人がいるの。」
震え続けている僕に、唯は言った。
十八歳のクリスマスイブ、今にも雪の降りだしそうな寒い夜だった。大学入試のための模擬試験からの帰り道、近所の商店街にもいつの間にか華やかなクリスマスのデコレーションが施されていた。家の近くの曲がり角のところまできたとき、見覚えのあるバイクが目に入った。
「どうした。ストーカーかよ。」
嫌な予感はしていた。その予感に目を背けるように軽口を叩いた。
「これから、唯と会う。」
剣の言っていることの意味が分からないふりをした。
「俺、唯とつきあってる。」
雷のような衝撃が身体を突き抜けた。いつか聞いたシリウスの話しを思い出していた。
「謝りに来たわけじゃないから。」
剣は、何の言い訳もしなかった。ただ黙って僕が何か言うのを待っていた。僕も黙っていたら朝まででも待っていそうだった。厚い雲に覆われて冬の夜空に星は一つも見えなかった。そのうちに、夜空から粉雪が落ち始めた。
「帰れよ。殴るぞ。」
“唯が待ってるんだろ”、という言葉は胸の内に呑み込んだ。その名を剣の前で口にしたくはなかった。バイクのエンジン音が聞こえなくなってから一人で泣いた。
「すみません。昨日電話した中里です。」
花屋の店先から声をかけると、白いトレーナーとオーバーオールのジーンズにアイポリーのエプロン纏った若い女性の店員が奥の方から現れた。自分より3つか4つくらい年上に見えた。
「中里さん。マーガレットのお客さんね。あなたの後ろにある、それになるけど、よかったかしら。」
振り返ると、教室の掃除道具入れの中のバケツくらいの大きさの透明な鉢の中に、ちょうどその鉢いっぱいに納まりきるくらいの無数の真っ白な花が生けられていた。
「これで、どれくらい買えますか。」
財布の中から千円札を三枚取り出してたずねた。
「卒業式だったのね。」
僕は制服姿で、小脇には卒業証書の入った黒いべっ甲柄の丸筒を抱えていた。
「はい。同級生に贈りたいんですけど。」
「彼女?」
「いえ、そうではないです。だけど、世界で一番好きな人です。こっちが勝手にそう思ってるだけですけど。」
「女性に花束を贈るのは初めて?」
「はい。いえ、小学生のとき、母の日にカーネーションを贈ったことが・・・。それ以来かと。」
「全部あげる。白いマーガレット。花言葉は、真実の愛。」
花屋のお姉さんは、嬉しそうに微笑みながら、マーガレットを両手で鉢ごと抱えて、店の奥の作業スペースに戻って行った。
改札口の外で唯を待った。唯の姿を見つけた僕に少し遅れて唯も僕に気がついた。両手でやっと抱え切れるほどの特大の真っ白な花束に目を向けた唯は、一瞬、驚いた様子を見せた。僕は花束を胸に抱えたまま唯に向かって小さくお辞儀をした。唯は、教室で同級生としてたわいない話しをするときの柔らかな表情を取り戻しながら歩み寄ってきた。
「これ、三年間分の気持ち。」
真っ直ぐに花束を差し出した。
唯は受け取ろうとしなかった。
「剣から聞いてる。」
「だから、私、中里君の気持ちには応えられない。」
「何も応えてくれなくていい。それでも、今、世界で一番唯が好きだ。」
もう一度、気持ちを込めて花束を差し出した。
少しの間、それでも唯は躊躇していたけど、やがて、柔らかな眼差しを真っ白な花束に注ぎながら、僕の思いを、静かに受け取ってくれた。
「さよなら。」
最後にそれだけ言ってその場を離れた。改札口を通り抜け、階段を駆け上り駆け下りた。ちょうどホームに入って来た電車に行き先も確かめずに飛び乗った。電車がホームから離れたとき、唯の前では堪えていた涙が瞳から溢れて頬を伝った。
昼過ぎ、出発の準備を終えて自席で待っていた瑞希に声をかけ、二人で、プレゼン先の映画会社にタクシーで向かった。別件で先乗りしていた上司の大村さんとは現地で落ち合うことになっていた。
「しまった。瑞希、赤ペンある?」
「ほい。」
瑞希は鞄の中から手早くペンを探し出して僕の掌の中に置いた。最後に気が付いたプレゼン資料中の小さな誤記に、瑞希に渡された赤いボールペンで赤を入れた。
「本番で話すときに訂正入れれば大丈夫かな。」
「大丈夫でしょ。」
瑞希に大丈夫と言われると大丈夫な気がした。
瑞希に安心させてもらった僕は、その後、タクシーの中でずっと唯のことを考えていた。
「どうしたの?」
目的地まであと四、五分というところまでタクシーが進んできたとき、僕の心がここにないことに気がついた様子の瑞希が、僕の顔を覗き込むようにして言った。
「いや、なんでもない。ちょっと色々、余計な事思い出してた。」
「余計な事なら今は考えない方がいいね。」
「ごめん。ここから気合入れていきます。」
「あのね、こっちも余計なことだけどね。大村さん、私たちのことちょっと疑ってる気がする。」
「そうなの?あの人、そういうとこだけ、妙に鋭いとこあるからなあ。」
「ばれたら責任とってくれる?」
瑞希は、手元のプレゼン資料に視線を戻しながらぽつりとこぼした。
もし瑞希が望んでいるのなら、それはそれでもいいとは思った。拒む理由はどこにもなかった。“とるよ。”と、ぽろっと、言いかけた時、瑞希がそれよりも早く前言を撤回した。
「うそうそ。だって責任感とかで私と暮らしているわけじゃないよね。」
「まあ、それはそうかな。だからってそんなにいい加減な気持ちではないけど。」
「うん。結婚に責任なんてものが伴うとするならね、私にも航君を幸せにする責任があるはずでしょ。そこはフィフティフィフティだと思うの。どっちかがどっちかにしてもらうもの?そう言うふうには私は思ってはいないから。」
瑞稀は唐突にめちゃくちゃ深い話しをすらすらとまくしたてた。僕はそれに見合う深さのきちんとした答えを即答で返すことができなかった。
「いやいや、今は、それより、ここここ。」
瑞希は、プレゼンテーション資料の中のキービジュアルの説明ページを開いて、僕の方に向けて、明るくて人当たりは良いのだけど、かといって浮ついたところのない、いつもの仕事中の口ぶりに戻って仕事の話しをし始めた。
「このキービジュアルとメインコピーとプロモーションの全体コンセプトの関係、上手く手短にアピールしてね。このストーリー、ひらめいた時、ほんとにガッツポーズだったんだから。」
僕は、一生懸命に仕事をしている時の瑞希の顔も好きだった。
プレゼンテーションを終えて映画会社のビルディングの正面に出ると、ここに着いた時には降り続けていた雪は止んでいて、そこかしこの雲の切れ目から、柔らかな夕陽が差し込んでいた。
「なかなか厳しかったですね。」
映画会社の宣伝部長の辛辣な反応を思い出しながら大村さんに言った。
「いや、でも、全然脈がなかったら、あそこまでつっこんでもこんやろ。まあ、連絡待とうや。」
大村さんは僕と瑞希に代わる代わる目を向けながら言った。
「西麻布まで車で行くけど、どっかまで乗ってくか?」
「僕は用事があるので、ここで失礼します。」
「藤嶋は?」
「私は、地下鉄で直帰します。」
「そうか。本日はこれにて解散やな。」
大村さんが向かいのホテルの車止めで客待ちをしていたタクシーに乗り込むのを見送ってから、瑞希と二人で肩を並べて地下鉄の駅に向けて歩き始めた。
「じゃあ、行ってくる。」
瑞希は歩き続けながら黙って頷いた。
「ごめんな。大村さんまいて、二人で打ち上げしようって言ってたんだよな。」
瑞希のご機嫌を伺いながら言ってみた。瑞希はしばらく無言のまま歩き続けた後、思い出したように言葉を返してきた。
「今日はいいよ。疲れたから、とっとと寝てる。酔っぱらって帰ってきて起こしたりしないでね。」
「わかった。週末にゆっくり何か美味いもの食べにいこう。」
「うん。いつでもいいよ。」
瑞希は穏やかに言った。それからまた、少し歩いた先の最初の信号待ちの時、周りには誰もいないのに、瑞希が耳元で囁くようにして言った。
「電話、唯さんからだったでしょ。」
不意を突かれた。ノーガードで顎に綺麗にカウンターパンチを決められたボクサーのように言葉を失った。
アパートの部屋で朝ご飯を二人で食べていた時も、昼過ぎにプレゼン先の会社に向かうタクシーの中で二人きりだった時も、心の中に潜んでいた唯の存在を見透かされていることはないと思っていた。瑞希は、付き合い初めてからずっと、こちらが拍子抜けするくらい、僕の過去の恋愛遍歴には興味を示さない人だったので。
「そうだよ。いつもOB会の事務的なこととかも色々やってくれてるし。別に隠してたわけじゃないけど。なんか言いそびれてしまって。」
しどろもどろな返事だったけど、そのお粗末さには見向きもせず、瑞希は真っ直ぐに核心に触れてきた。
「朝からずっと、唯さんのこと考えてたでしょ。」
「ごめん。」
「とりあえずあやまっとくか、みたいな謝り方しないで。」
「いや、そういうつもりじゃないけど。実際に瑞希に不愉快な思いをさせたのなら、それについては謝るしかないから。」
「へたくそな嘘つかれるよりはいいけど。」
「亡くなったのは剣なんだ。つきあい始めた頃、一度、三人で会ったことがあったよね。」
一瞬、瑞希は、驚きと不安が入り混じったような複雑な表情を浮かべた。
「まだ正式に発表はされていないんだ。明日の葬儀まで近親者で終えてからニュースになるらしいんだけどね。」
だから、詳しいことは言えなかったのだと匂わせるように、少し言い訳がましく言った。
瑞希は、僕の方を見ようともせず、口を真一文字に結んだまま僕の半歩先に出て歩く速度を速めた。
「剣と唯とは、十八歳の時から付き合っていて、来年の春、二人は結婚するはずだったんだ。」
僕が瑞希に追い付きながら言うと、瑞希は、少し怒ったような顔で歩き続けた。余計なことは言うまいとしているかのように唇を噛んだまま、僕の歩調には合わせようとせず勝手に歩く速度を速めていった。
「今日は朝から唯の事ばかり考えてたよ。」
瑞希の背中に言った。
「正直なら何でも許してもらえると思ってるでしょ。」
瑞希は、歩きながら、僕の方を振り返り、少し強い調子で言葉を返してきた。僕には返す言葉はなかった。
そのまま、二人は、またしばらく、無言で歩き続けた。次の信号待ちで立ち止まったとき、二人そろって溜息をついた。しばらく歩くと、地下鉄のホームへの入り口の手前にたどり着いた。
「航君は、あっちだよね。」
道路の向こう側に見えていた反対方面行きの地下鉄入り口を指して瑞希が言った。
僕は黙って頷いた。
「優しくしてあげなよ。航君、女の子の扱いへたくそだから。」
別れ際に瑞希が言った。
「いや、ご存じの通り、そんなに上手ではないかもしれないけど、でもね、」
「今晩、航君がもう一度完璧にふられますように。」
瑞希は、僕の言葉を遮り、雲の切れ目から差し込む陽の光に向けて、遠足の前の日に翌日の晴天を願う子供のように言った。
多摩川を超える前に雪が再び激しく降り始めた。その影響で架線が接触不良を起こす事故が起きたらしく、京浜東北線は蒲田でいったん停車した。回復の見込みが分かり次第アナウンスがあるとのことだった。僕は、財布の中身を確かめて、電車を降り、改札口を出て駅前のタクシー乗り場に並んだ。
首都高速の横羽線は断続的な渋滞が続いていた。下の国道も同じようなものだと言うタクシーの運転手の言葉を信じて、何度も腕時計に目をやりながら窓の外の雪景色を眺めていた。
鶴見のつばさ橋を渡るあたりで、不意に、ラジオから「冬の流星」が流れ出した。
「お客さん、知ってます?シリウス。」
若いタクシーの運転手が問いかけてきた。
「僕ね、シリウスのKENに憧れて東京にでてきたんですよ。」
少し時間を気にしていらだっていたので、「そう?」とだけそっけない返事を返した。
「KENって高校の途中まで、野球やってて、今、巨人で四番打ってる原とかとも対戦してるらしいんですよ。怪我さえしなければプロにいくくらいのピッチャーだったらしいんですよね。」
若いタクシーの運転手は剣について身内の自慢話でもするかのように熱っぽく語り続けた。
「僕も野球やってたんですよ。同じ頃に。」
剣の歌声に耳を傾けながら、話しをつないだ。
「甲子園めざしてたとか?」
「行けなかったけどね。」
「そりゃ、なかなか簡単にはいけないんでしょ。野球のことはよくわからないけど。」
「僕もね、これでも原から三振を取ったことがあるんですよ。一度きりだけど。」
彼は、ほんとに驚いた様子で、それは凄いとしきりに感心していた。
タクシーはやがて横浜の市街地にさしかかり、窓の外に横浜スタジアムの照明塔が見え始めた。
あの日、二人で見た流星を忘れない。その記憶は、光になって、永遠より永く宇宙を駆け続ける。
(「冬の流星」(作詞・作曲:KEN))
献花台には、遺影とともに「冬の流星」の歌碑が飾られていた。その前に立ったとき、僕は、剣に語りかけるべき言葉を見つけられなかった。どんな言葉も、ほんとうの気持ちを伝えるには足りないか、そうでなければ余計なことの言い過ぎになる気がした。仕方なく、周囲の流れに合わせた型通りの所作で献花台に花を添えた。
教会は、思っていたより大勢の弔問客で溢れていて、唯の姿を見つけることはできなかった。残念ではあったけど、少しほっとするような気持ちもあった。それ以上、唯を探し回ることはせずに教会の外に出た。
教会を出たところに喫煙スペースがあった。胸ポケットから紺色の煙草の箱を取り出し両手で風をよけながら静かに火をつけた。白い煙が静かに天に昇っていった。
教会の建物の脇には小さな庭園があった。ここに来たことだけは伝えてから帰ろうと、庭園の入口にあった街灯の下で唯にメッセージを入れた。スマートフォンの画面から顔を上げたとき、少し離れたところに人の気配を感じた。庭園の中程にあった小さな噴水の横に、黒い喪服姿の女性が佇んでいた。
驚かせないように、慎重に様子を伺いながら近づいた。そのうち、唯も僕に気づいた。側まで歩み寄って深く頭を下げた。唯も、きちんと身体の前に両手をそろえて、僕に向かって丁寧に頭を下げた。
この十年、密やかに心の奥底に存在し続けた蒼野唯が、確かに目の前にいた。
僕が勝手にノスタルジックな気持ちに浸っていると、突然、唯の頬を涙が流れ落ちた。唯は、俯いて両手で顔を覆い小さな肩を震わせていた。
気が付いたら、僕は唯を抱きしめていた。
唯は全てを僕に預けたまま、僕の腕の中で泣き続けた。僕は、何を犠牲にしてでも、唯を悲しませているものから、唯を守りたいと思っていた。
「ごめんなさい。」
少しして、腕の中の唯が小さな声で言った。
両腕の力を緩めて、唯との間に少しの距離をとった。
「ほんとうにごめんなさい。中里君に甘えるなんて駄目だね。私。」
顔を上げた唯の頬は、高校生の時よりは、幾分やつれているようにも見えた。それでも、その内側から光を放っている美しさは、僕にとっては他の誰とも比べようのない唯一無二の美しさのままだった。
「全然駄目じゃないよ。」
そう言って、思わず、唯の肩に両手を置こうとしたとき、唯は、静かに優しく、だけど、それをはっきりと拒むように僕の手首の当たりをつかんで僕の腕を僕の体の横に降ろさせた。
「ごめん。」
僕はうなだれて、力のない声で唯に謝った。心の中では剣にも謝っていた。
「私には謝らなくてもいいよ。」
唯が優しい声で言った。
「でもね、中里君、大切な人がいるんでしょ。」
少しの間、僕と唯は黙ったままその場に二人でいた。直ぐ近くにいたし、気持ちは離れてはいなかったけど、多分、それぞれ別のことを考えていたと思う。五分か或いは十分か、それくらいのそこそこ長い時間、僕と唯はそれぞれの沈黙の中にいた。他人であれば気まずくなる長さだ。でも、その気まずさはお互いの間にないことは、互いに感じられていたと思う。
「お前はひどいやつだな。」
幾分長めの沈黙の後、僕は、少し唐突ではあったと思うけど、夜空に向けて話し始めた。
「そんなだったら、俺の方がよかったじゃんかよ。野球もお前にはかなわなかったし、ギターも弾けないけど、俺は、お前と違ってこうやって生きてる。めっちゃ無様な生き様晒しながらだけどな。」
誰だかよく知らない大勢の人たちでごった返していた献花台の前では言葉にできなかった気持ちを、唯だけがそれを一緒に聞いてくれている冬の夜空の下で話し続けた。
「今も、かっこ悪いところ見られたよな。余裕かまして笑ってるかもしれないけど、俺は、勝手にかっこよく死んだお前を許さないからな。それから、唯を悲しませたことも・・・、」
そこまで言ったとき、どこかで迷子になっていた悲しみが津波のように押し寄せて涙が溢れて止まらなくなった。
「大丈夫?」
星空を見上げたまま震えていたら、唯が、もうこれ以上は世界にないくらいの優しい声で言った。
「ごめん。大丈夫。」
肘で乱暴に涙を拭いながら返事をした。
その後、しばらくの間、唯とたわいない昔話をした。数学の先生の意味不明の口癖やアイドルのおっかけだった食堂のおばちゃんの話しとか、当たり障りのない共通の昔話を重ねて、その場の空気が柔らかく落ち着いた中で、唯が言った。
「来てもらえないかもしれないと思ってた。」
「そんなことはない。だけど、あの時は世界が終わるかと思った。十八歳なりに全力で好きだったから。」
「だから十八歳の私には、受け止められなかった。」
「もう少し、いいかげんで、てきとうな十八歳だったら、よかったのかな。」
唯は首を振った。そして、それから僕の目をまっすぐに見つめて静かに言った。
「好きになってくれたこと、ずっと忘れないと思う。」
初めて会った時と同じように黒い瞳に吸いこまれてしまいそうだった。
「唯と出会えてよかったよ。」
僕がそう言うと、唯は僕に向けて静かに微笑みながら頷き、それから、ゆっくりと空を見上げた。唯は、何か大切なことを伝えるように静かに唇を動かした。その横顔は星のように美しかった。
その夜のうちに京浜東北線の運行は復旧しないとのことだったので、横浜駅まで雪道を一時間近く一人で歩いた。横浜の街の雪景色を観るのは初めてだったけど、大事な考え事をしながらで、足元を取られて転ばないことにも気をつけなくてはならず、景色を味わう余裕はなかった。横浜駅からの迂回経路に選んだ東急線も運転本数を間引きしながらの徐行運転で、上り電車に乗れるまで随分長い間待たされた上に、乗車してからも、普段は三十分ほどでたどり着くはずの渋谷まで一時間以上かかり、そこから、乗り換えた井の頭線も同じような運転状況で、二人のアパートの最寄駅に辿り着くまで更に小一時間かかった。瑞希が起きているうちに帰りたくて、駅からタクシーを使おうとも思ったけど、乗り場の長蛇の列を見て諦めた。
ようやくのこと、アパートに辿り着くと、部屋には、まだ明かりがついていた。
「ただいま。」
「おかえり。」
瑞希は、台所に立ち、包丁で勢いよく野菜を切り刻みながら、僕に背中を向けたまま返事をした。
「とっとと寝てるんじゃなかったの。」
「眠れないんで、包丁研ぎながら待ってた。」
「唯と会ったよ。二人でゆっくり話もできた。残念ながら、その包丁で刺されるようなことは何もなかったけど。」
唯は返事をせずに野菜を刻み続けていた。
「指一本触れてない。」
そこだけは嘘をついた。
「心には触れたけどね。」
少し思わせぶりに言葉を足してみた。瑞希は、それでも僕の方を振り返りはしなかった。
「お願いがあるんだけど。」
無言で野菜を刻み続ける瑞希の背中に向けて言った。
「ご飯なら、もう、ひとりで食べちゃったよ。これは明日の朝ごはんのサラダ。」
瑞希は相変わらず僕の方に背中を向けたまま言葉を返してきた。
「眠れなくても飯は食えるんだ。」
「もてなかったでしょ。高校生のとき。」
「否定できない。でも、仕方ないんだよ。自分は、自分としてしか生きられなかったわけだし、そんな自分がやらかしたことはもう取返しはつかないわけだし、それでも、まだ何かを少しずつ変えることができるかもしれないこれからを、とにかく生きてみるしかないわけじゃん。だから、大切なのは・・・」
「前置き長すぎ。今日のへたくそなプレゼンみたい。」
瑞希が包丁をまな板に置き、こちらを振り向いた。
「じゃあ、宇宙が始まってから終わるまでの間に一度だけ、手短かに言う。」
やれやれと言う風に、瑞希は小さく息を吐いた。その刹那、僕は、有無を言わせない強さで彼女を抱き寄せた。
「結婚しよう。」
腕の中の瑞希に告げたけど、返事がなかった。
瑞希の返事を待っている少しの間、それは一瞬のことだったのかもしれないけど、宇宙が始まってから今までと同じくらいの時間にも感じられた。その不思議な時間の中で、僕は、この部屋で、初めて瑞希と二人で朝まで過ごした日のことを思いだしていた。
付き合い始めてから二か月程が過ぎていた二年前の夏の終わりのことだった。その日、午後の遅い時間に、業務関連の試写を観た僕は、開映のときに切ってあったスマートフォンの電源を、終映後に入れ直すのを忘れていた。その夜の飲み会の途中でトイレに行ったときにそのことに気づいて電源を入れると、瑞希からの不在着信が画面を埋め尽くした。
飲み会を中座して地下鉄の駅まで走り、乗り換え駅の階段も最寄駅から警察署までの道も、全部、全速力で走り続けて来て、肩で息をしていた僕のことを、警察署内の廊下のベンチで、一人ぽつんと座っていた瑞希は、唇をへの字に捻じ曲げて鬼のような顔で睨みつけた。頬には涙の跡が残っていた。
「ごめん。」
言い訳はせずに謝った。
その男は、最初のうちは気配を潜めて少しずつ距離を詰めながら、駅からアパートまでの道を一人で歩いていた瑞希の背後に近寄ってきたらしい。不審な気配に気が付いた瑞希は、アパートに続く人通りの少ない小路に入る角をやり過して、そのまま駅前から続く大通りを真っ直ぐに進み続けた。歩きながら、何度も僕に電話をしたのに、何度電話してもつながらなかったことについても酷く怒られた。リダイアルを繰り返しながら歩き続け、ようやく大通り沿いの警察署のビルまで、あと一ブロック、五十メートルくらいのところまでたどり着いたとき、意味不明のうなり声が背後から聞こえ、瑞希は、たまらず、スマートフォンを握りしめたまま走りだした。必死で走り続け倒れこむようにして警察署に駆け込んだ。呂律の回らない口調で何か意味不明なことを喚き続けていたその男は、入り口の警備をしていた屈強な署員にその場で取り押さえられたらしい。
取り押さえられた男は、覚せい剤所持の前科があり、その時も簡易検査で違法薬物について陽性であることが判明し、その場で現行犯逮捕されたとのことだった。
「これ以上の心配はないと思いますが、かなりショックを受けられているようですし、念のためですから。」
そう言って、制服姿の年配の警官が、アパートの前まで着いてきてくれた。警察を出てから家に着くまでの間、瑞希は僕の肘を掴んで離さなかった。
部屋に入って、少し前に一緒にディズニーランドに行った時に僕が買ってあげた熊のプーさんの絵柄があしらわれたクッションの上に腰を降ろしても、瑞希は、まだ微かに震え続けていた。
「ほんとに遅くなってごめんね。」
震える背中を摩りながら、あらためて謝った。瑞希は唇を固く結んだまま、僕の胸に額を押しつけてきた。
「エクソシストより怖かったみたいだね。」
腕の中の瑞希に言うと、僕の胸に顔を埋めたまま、瑞希は僕の頭をコツンと叩いた。それから、瑞希は声を上げて泣き始めた。僕は、瑞希が泣きやむか、泣き疲れて眠りにつくまで、このまま彼女のことを朝まででも抱いていようと思った。
ふと気が付くと、僕は一人で床の上に眠っていた。いつの間にか布団代わりにピンク色のタオルケットが身体に被せられていた。台所では瑞希が朝食の支度にとりかかっていた。
「おはよう。目玉焼きの固さのお好みは?」
僕が起きたことに気が付いた瑞希がフライパン片手に振り返った。涙はすっかり乾いていた。
手短かにまとめないと駄目だしされるかと思って、“瑞希の寝顔とサニーサイドアップの目玉焼きが大好きだから”という前置きは端折ったけど、ちゃんと言った方がよかったのかなと少し後悔していた。まさかの自爆かと不安が胸に湧いて瑞希を抱きしめていた腕の力を少し緩めたとき、僕の胸に額を押し付けたまま、瑞希が小さく声をあげた。
「OKだよ。だけど、痛い。息できない。へたくそ!もう少し優しく抱いて!」
シャツの胸の辺りが自分のものではない涙でぐしゃぐしゃに濡れていることに気づきながら、厳粛な気持ちで瑞希の返事を受け止めた。そして、今度は彼女の呼吸を止めてしまうほどの余計な力を入れすぎないように十分に気をつけながら、もう一度、世界で一番大切なその人を、そっと胸に抱きよせた。
横浜の教会で唯に最後に会った冬の日から一年後に僕は瑞希と結婚し、それからまた二年の月日が流れていた。
今年も例年通りに新緑の眩しい季節が二人の住む街に訪れて、五月晴れの空から降り注ぐ朝の光が、カーテンの隙間を通り抜けて、2LDKの賃貸マンションの寝室のそこかしこに差し込んでいた。前の年の秋にクライアントから招待券をもらって訪れたヨーロッバの家具の見本市で、二人で一目惚れして、その年の冬のボーナスを出し合って新調し、狭い寝室にギリギリで運び込んだイタリア製のダブルベッドの上で寝返りをうつと、目の前に瑞希の寝顔があった。警戒心のスイッチを完全にオフにした表情で穏やかな笑みを浮かべながらすやすやと寝息を立てていた。今年の暮れには母親になる彼女の寝顔をしばらく眺めてから額にそっとキスをした。
「どうしたの。」
寝ぼけ眼で頭を振りながら瑞希が目を覚ました。何をされたのか、ほんとにわかっていなさそうだった。
「何でもないよ。おはよう。」
「おはよう。」
瑞希の瞳に灯りが灯った。新しい一日が始まる。