権利
自分が生きていくために、自分を殺さなくてはならない。
俺に近づけるバケモノの腕は、ワームの口を連想させるように目の前でパカッと開いた。
バケモノの背後には、つい今しがたまで人間だったものたちが山積みになり、バケモノの背中から伸びるチューブ状の口にガツガツと喰われていく。
もう俺の頭は完全に感覚がマヒ……いや、ぶっ壊れているらしく、恐怖なんかは感じない。
ただ、俺も喰われるんだな……と、遠いところから考えているようだ。
バケモノの腕が閉じた途端、まっ暗な闇に落ちた。
……また、朝だ。
朝なんて来なくていいのに。
そう思っても、時間がくれば嫌でも朝は来る。
俺はベッドから起き出して顔を洗うため洗面台へと向かう。
冷たい水で眠気を落とし、少し汚れてきたタオルで顔をゴシゴシ拭うと、鏡の中に目つきの悪い、やつれ果てた男の顔がある。
俺はいつからこんな顔になったんだろう……。
朝食もそこそこに、ヨレたシャツと、履き古したジーンズに着替えて職場に向かうと、珍しく同僚のやつが先に来ていた。
そもそも俺はこいつの名前を覚えていないし、こいつも俺の名前を覚えようなどと思ったこともないだろう。
与えられた机の椅子に座っていると上司がやって来た。
上司といっても、俺より先にここにいただけのやつだ。
これで全員が揃った。
俺たちは机の引き出しから、目立つ蛍光オレンジに黒で“5/32”と書かれた腕章を取り出して腕に付け、思い思いにここから出て行き、明日のこの時間まで戻って来ることはない。
……俺たちはこれから人を殺しに行くんだ。
だが殺人ではない。
れっきとした法律で許されている合法的な殺人で、世界協定でちゃんと認められている。
これは世界に120人足らずに与えられた特権措置でもある。
俺たちがそうしなければ世界が滅ぶから……。
ターゲットは俺の1キロ以内に必ずいる。
俺は人込みの中をさまよい、目的の男を見つけた。
スタンガンを取り出して電圧を最強にセットし、気づかれないよう背後からスイッチを入れると、彼は地面に倒れ込んだ。
通行人がざわめいたが、俺の腕章に気づき見て見ぬ振りで通り過ぎる。
動けなくなった男に、クジラでさえ数秒で殺せる薬を注射器で打ち込んで、呼吸が止まったことを確認して連絡をとる。
数分で医師を同乗した車が到着し、死亡が確認されると、そのまま男を車に乗せて去って行った。
男は埋葬されることなく、医学の進歩のための重要な実験体として利用される。
これで俺の今日の仕事は終った。
このまま気晴らしにどこかへ行ってもかまわないが、そんな気分にはならず、家に帰ることにした。
途中で腕章を付けていない上司に会ったが、気にする必要もない。
ベッドに倒れ込んだ俺は、医師から処方されている睡眠薬を飲んで眠ることにした。
……全身が口ばかりのバケモノは、俺の目の前でバカでかい口を開けた。
バケモノの背後には、人間だったものたちが山積みになり、バケモノの仲間がガツガツとむさぼっている。
よく見ると、人間はすべて俺で、バケモノも俺自身だった。
……俺は俺自身に喰われて死ぬんだ。
また、朝が来た。
朝なんて来ないでほしい。
職場に着くと、上司が先に来ていた。
3人集まると腕章を付けて部屋から出て行く。
今日も俺自身を殺すために。
夜中のうちに、俺を中心に1キロ以内のどこかに現れている、俺のドッペルゲンガーとも言うべき存在。
だがこれは非現実な現象ではなく、れっきとした「進行性増殖症」と名付けられた原因不明の病気だ。
放っておけば1日に1人、ドッペルゲンガーも合わせ、ねずみ算式に増え続ける厄介な症状……。
増殖症が発見された初期の頃、14日間手が付けられないでいるうちに、1万6384人にまで増殖した患者のおかげで、世界中に危険性が知れ渡った。
その後、国によって増殖症にかかった者は問答無用で処刑されたこともあったが、何度も国際会議が開かれて現在のような形に落ち着いた。
すなわち、
増殖した者は自分で処分することの義務化。
処分された者は増殖症治療のための研究に使用される。
放置してもいい時間は5日間。
それ以上は義務放棄として処分……オリジナルもろとも処刑される。
増殖症にかかってからというもの、いったい何人の俺自身を手にかけたことだろうか……。
腕章の“5/32”
5日で32人まで増殖するのが、タイムリミットであることを忘れないようにするためのものだ。
そもそも俺はオリジナルなのか? それとも、オリジナルを返り討ちにした増殖した者なのか?
増殖症患者の発狂率と自殺率は極端に高い。俺も狂ってしまえば楽になれるのだろう。
そうなれば義務が果たせないことを理由に処分されてしまうのだから。
しかし、俺は狂わない。
こんな目にあっても俺は生きたい。
生きていたい。
生きていたいのだ。
悪夢から目覚めて職場に着くと、上司と同僚が先に来ていた。
昨日は2人とも返り討ちにあったらしい。
俺よりも早く来るのがその証拠だ。
もう何度入れ替わっているか覚えていない。
オリジナルなんてとっくにいなくなっているのに、彼らは今ここにいるというだけでオリジナルとして生き、増殖した者を殺す権利が与えられている。
俺たちは言葉を交わすことなく、腕章を付けて、今日も思い思いに街の中へと出て行く。
「ショートショート オオカミの森」に入れようかと思いましたが、少し異質なので独立して掲載します。
ショートショート集「オオカミの森」もぜひご覧ください。
https://ncode.syosetu.com/n0505ib/