第二十九話 森下緑子
森下緑子がまだ三宅緑子という名前だった時、彼女の世界は小さく完結していた。毎日、自分で選んだ本を少しずつ読み進めていく。それが彼女の日課で、最大の楽しみだった。
ランドセルの中には必ず何かしらの本が入っていた。それはファンタジー小説であったり、恋愛小説であったり、ミステリー小説であったりと様々だ。
緑子は本を読むことで主人公たちの人生を体験していた。時には胸踊る冒険を、時には眠れないような恋を、時には熱い青春を。
それが緑子の幸せだった。けれど現実は本を読んでいるだけではやっていけない。
「三宅さんも、本ばかり読んでないでたまにはお友達と外で遊びなさい」
学校の先生は彼女にそう言った。高校生になった今では当時先生に言われたことは当たり前のことだったと彼女は理解している。しかし小学校低学年だった時の緑子にとって先生は嫌なことを強要する大人でしか無かった。
「緑子、水泳とピアノの体験レッスンに行ってきなさい」
教育熱心だった父親は緑子に様々なことに触れて欲しくてたくさんの習い事に行かせようとした。
「ちょっとあなた! 無理に習い事なんてさせる必要ないじゃない」
母親は緑子の読書好きを理解してくれていたが、それが原因で父親とよくケンカしていた。家では緑子の教育方針を巡ってよく衝突が起きていた。
その結果として緑子はますます本にのめり込んでいった。
けれど彼女だって本以外の全てを切り捨てたい訳ではなかった。普通に友達と仲良くお喋りしたり、家族で仲良く出掛けたりしたかった。
「何の本読んでるの?」
クラスメイトの何人かからは何度かそう聞かれた事があった。けれども緑子はその質問に答える事が出来なかった。
だってそれを説明しようとしたら一言では足りないから。「何の本を読んでいるか」という質問は緑子にとって「どんな人生だったか」と問われているのと同じなのだ。
会話が苦手な彼女にとってそれを説明するのは難しかった。
「一緒に外で遊ぼうよ!」
そう誘われたこともある。けれどクラスメイトたちがしている遊びが何か分からない。彼らが楽しそうに話している内容も分からない。
本を読むこと以外してこなかった緑子にとって、それ以外のことは難しかった。そしていつの間にか彼女に声を掛けるクラスメイトはいなくなった。
結局、彼女はいつも一人で本を読んでいた。そしてそのまま学年が一つ上がった。
「怪盗が主人公ってロマンあるよな」
その声に緑子は顔を上げた。目の前にいたのは短い髪をした少年。彼女よりも背が高く、ややぶっきらぼうな感じだった。
「…………」
とっさに口から言葉が出て来なかった。それでも少年は何をする訳でもなく彼女の言葉を静かに待っている。
「……読んだことあるの?」
蚊の鳴くような声で問いかける緑子。少年はそれを気にした様子もなく質問に答える。
「あるよ。この作者の他の作品もあるし」
緑子は口を開けたまま固まってしまう。少年はそれだけ言ってどこかへ行ってしまう。
それから数日経ってまた少年は話しかけて来た。
「それ読むと走りたくなる。走らないけど、疲れるから」
「ふふっ」
少年のひどい感想に思わず笑ってしまった緑子。そしてすぐに自分が笑った事に恥ずかしくなり顔が赤くなる。
「走る?」
「……走るのはちょっと」
少年は「だよね」とだけ言ってまたどこかへ行ってしまった。去っていく少年を見て緑子はもう少し話したいと思った。
次の日、緑子は前日読んでいた作品の作者が書いている別の小説を持って来ていた。これならもう一度、少年と話をできるかもと思ったからだ。
「文楽ってよく分からないからその本は読んだことないんだよね。面白い?」
「……面白い、よ?」
緑子も文楽についてはよく知らなかったので、辿々しい返事になってしまった。それでも少年とまた話せた事が嬉しかった。
「……本好きなの?」
「好きだよ」
その言葉にドキリとしてしまった緑子。本の事を好きと言っただけなのにまるで自分が好きと言われたかのような錯覚に陥る。
「……ど、どんなの読むの?」
そこからも会話はしばらく続いた。いつの間にか緑子にとって少年は初めての友人となっていた。
そんな友人、夜島弥勒は不思議な少年だった。まず授業中はだいたい寝てるのにテストはいつも満点を取っている。次にクラスメイトと毎日楽しそうにお喋りしてるのに、昼休みに外で遊んだりはしていなかった。
先生の手伝いを積極的にしているのに、掃除はサボりがちだった。自分の席の近くでケンカしているクラスメイトがいると仲裁するけど、遠くの席の時は誰かに頼まれないと仲裁しない。
いつの間にか読書の次に弥勒の観察が趣味になっていた緑子は授業中などもずっと彼を見ていた。
その結果分かったのは彼は自分のしたい事が最優先という事だった。
授業がどうしても退屈でいつも寝ている分、他の事でカバーしようとしていた。外で遊ぶのが嫌いだから、代わりに友達とのお喋りには積極的に参加していた。
全部、自分のしたい事を最優先にしてその帳尻を上手く他の事でカバーしている。非常に上手い立ち振る舞いだった。
だから緑子は嬉しくなった。
弥勒が緑子に声をかけて来たのは人助けのためではない。誰かに頼まれれば弥勒は緑子に声を掛けただろうが、それだけだ。
そこから会話を続ける義務は弥勒には無いだろうし、すぐに関係は終わっていたはずだ。
だとすれば弥勒が緑子に声を掛けたのは彼にとってそれを優先する必要があったからだ。その理由は彼女には分からなかったが、それで充分だった。
彼は人助けのためではなく、自分の意思で緑子に声をかけた。つまり彼は緑子を選んだのである。それが彼女には嬉しかった。
まるで物語のヒロインのようだと思ったから。彼の瞳に三宅緑子という少女が映ったのだ。もしこれが本の世界ならこれからどんな物語が始まるのだろうか。
「三宅、この本めっちゃ面白かったわ!」
「……でしょ? 無人島にハズレなし……」
そこからは毎日が楽しかった。お互いに色々な本を読み合って感想を言い合った。
けれどそんな日々は長く続かなかった。緑子の両親の離婚が決まったのだ。父親は別の県へと行く事となり、住んでいた家を売り払った。
親権を獲得した母親と一緒に暮らす事となり、緑子は小さなアパートへ引っ越す事となった。別れた父親から養育費が振り込まれるとしても今までみたいに一軒家に住み続ける事はできない。そのため引っ越しは仕方のない事だった。
家賃や母親の新たな仕事の事を考えると住める場所は限られており、そこは今通っている学区の外であった。そのためアパート近くの小学校に転校する事となった。
転校するという事は弥勒との別れを意味していた。初めて出来た友達との別れは悲しかった。しかし彼女の中には不思議とある確信があった。
彼ともう一度、必ず出会える。
そんな確信が。それは彼女が自分のことを小説の中のヒロインと同じように思ってたからか。あるいは原作という存在の見えざる手なのか。それは誰にも分からないが、彼女は信じていた。
転校する事が分かってから、緑子はますます弥勒の観察に時間を費やすようになった。本も大事だが、弥勒を見てられるのは今だけなのだ。
母親から持たされていたキッズ携帯でこっそり弥勒の声を録音したりもした。いけない事だと何となく分かっていたが、まるで自分がスパイになったみたいでドキドキした。
そうしている内に転校の日がやってきた。無難にクラスメイトの前で別れの挨拶をした。その後、弥勒に最後の話をしようと近付くと送別品らしきモノが入っている袋を手渡された。
「元気でな」
「……うん。みろくくん、今までありがとう」
そう言って緑子は今までで一番の笑顔で笑った。それを見て珍しく弥勒が照れていた。こうして二人はあっさりと別れるのだった。
そして、三宅緑子は森下緑子になった。
ちなみに送別品の袋に入っていたのは何故かニートな忍者が主人公の小説の上巻だった。だが下巻を急いで本屋に買いに行くくらいには面白かった。




