第二百六十三話 新学期
「うー、朝からしんどいよぉ……」
愚痴を溢しているのは隣に立っているアオイだった。弥勒はそれを聞いて頷きながら返事をする。
「確かに思ってたより混んでるな……」
弥勒たちが今いるのは学校へと向かうバスの中だった。今日から新学期という事で二人は久しぶりに学校へと登校しているのだ。
蟲型の大天使との戦いの影響で大町田駅が壊滅状態となってしまった。そのため学校の最寄駅が使えなくなり、途中の駅からバスが出ることになったのだ。彼らの最寄駅である鴇川駅からもバスが出ており、二人は初めはラッキーだと思っていた。しかし実際はかなり混み合っており、電車通学の方が遥かにマシであった。
鴇川駅のバスを使用しているのは主に都心方面からやってくる生徒たちだ。そのため人数も多く、バスは満員となっている。普段、弥勒たちが乗っている電車は各駅停車のため、人はそれほど多く無い。そのため電車通学よりも大変に感じてしまっているのだ。
「あうっ……!」
「大丈夫か?」
バスの揺れによろめいたアオイを弥勒が受け止める。意図せずして彼女を抱きしめる様な形となってしまう。
「弥勒くん……」
「いやそれはくっつき過ぎだから……」
弥勒から抱きしめて貰ったアオイは嬉しくなって自分もガシッと彼へと抱きつく。顔を弥勒の胸の辺りへと埋めている。それを見て彼もさすがにツッコミを入れる。
「やだ。バスが狭いからこうしないと危ないもん」
しかしアオイは離れずに弥勒にくっついたままでいる。周りからの視線が強くなった様な気がした彼は若干、居心地が悪くなる。
バスに乗っている時間は凡そ30分程度である。電車の場合は乗っている時間が10分程度であるが、学校まで歩いたりする時間を考えるとそこまで大きくは変わらないだろう。
「バス通学って最高だね!」
「おい、さっきと意見が大分変わってるぞ」
弥勒にくっつけて幸せ状態のアオイは満員状態のバス通学は最高だと思い始めていた。顔がニヤニヤとだらしない状態となっている。
「ただ場合によっては本数が増えたりはするかもな」
「えー、今は丁度良いくらいの人数だから増やさなくて大丈夫だと思うけどなぁ」
バスは市からのサポートである。学生たちが不便な思いをしなくても良い様にという援助である。そのためこの状態があまりにも不便だと言う場合には追加で何かしらの支援を受けられる可能性もある。尤もその可能性はそれ程高くはないだろうが。
「何分か早く来れば座れると思うか?」
「タイミング次第じゃないかなぁ。ただそうすると朝のランニングの時間も早めないとだし……」
「確かにそれはキツいか」
30分の間、満員状態のバスで揺られているというのはそれなりに体力と精神力を消費する。弥勒も肉体的にしんどい訳では無かったが、電車が快適だっただけにバスでの通学は非常に面倒くさく感じてしまっていた。
それを解消するには座席に座れる様になるのが一番だ。そのためにバス乗り場へと行く時間を早くする必要があるが、そうなると自然と日課のランニングの時間も早くなる。
その考えを聞いてアオイは本気で反対する。弥勒とくっつけなくなるから反対しているのでは無い。これ以上、朝に早起きするのは彼女にとってはかなりの負担になるためであった。
そこからしばらく雑談をしながらバスに揺られていると学校へと到着する。弥勒たちはようやくスシ詰め状態から解放される。
「ふぅー……」
「ちょっと暑かったね」
バスの中では冷房が付いていたものの、乗っていた人数が多かったため暑苦しかった。特にアオイは弥勒にくっついていたから尚更だろう。校門のところには同じ様にバスから降りてきた生徒たちが大勢いる。
そこから二人は自らの教室へと向かう。そしてお互いのクラスの前で別れる。弥勒としては何だかいつもの日常が戻ってきたかの様な気分になった。まだ高校に入学して半年程度だが、すっかり馴染んだという事だろう。
「おはよう」
「ええ、おはよう……」
教室に入り麗奈へと挨拶する。彼女は何やら疲れた様な表情をしている。それを見て弥勒も理由を察する。
「バスやばかったな」
「ええ。これからしばらくバス通学が続くと思うとしんどいわね」
「だよなぁ。早く駅が復旧してくれるとありがたいんだが……」
「国としても線路と道路の復旧は最優先にしてるみたいだけど、早くても年内いっぱいは掛かりそうよね」
大町田駅周辺を復旧するにはまずインフラを整える必要がある。そのため駅舎や線路、道路などは最優先で整備されていっている。しかし復旧する規模が大きいため時間は掛かってしまうだろう。
「朝だけで疲れたけど、これからが本番なのよね」
「そうだな。と言っても今日は始業式がメインだから授業はそれほど無いだろ」
「それもそうね」
何となく話が途切れて弥勒は視線を動かす。すると麗奈の持っている学生鞄が目に入った。相変わらずガチャガチャとセイバー人形がぶら下がっている。それを見て等身大セイバーの話を思い出す弥勒。
するとそのタイミングで教室の扉が開く。担任が入ってきてホームルームが始まる。出欠を取った後に体育館へと移動して始業式となる。校長の話は退屈だが、校庭でやられるよりはマシなので大人しく着いていく。
そして全校生徒が揃ったところで始業式が始まる。初めはバス通学なども含めた連絡事項などが中心だった。本来なら校長の話が最初なのだが、この辺りは仕方ないだろう。駅が壊滅など前例のない事態である。それからようやく校長が壇上へと上がって喋り始める。
「————であるからして、本校の生徒として————」
案の定、退屈な話に弥勒は欠伸を噛み殺す。周りに目を向けてみると他の生徒たちもほとんど同じ様なリアクションをしている。たまたま弥勒の目に入ってきたエリスは真面目そうに話を聞いていた。
そして長かった校長の話が終わり、弥勒たちは教室へと戻る。そこで夏休みの宿題を回収される。弥勒はきちんと計画性を持って終わらせていたため何の問題も無かったが、クラスメイトの何人かは慌てている。恐らく宿題を終わらせていなかったのだろう。
「とりあえず宿題の回収はこれで良いですかね。最後に大事な連絡があります」
担任はそう言ってから席に座っている生徒たちを見渡す。全員の視線が集まっているのを確認してから話し始める。
「うちの学校では今、転校が相次いでいます。このクラスでも夏休み中に転校した生徒が何人かいます。それは大町田市で頻発している事件の影響です。残念ながら生徒やそのご家族でこの前のテロリストの事件に巻き込まれた方もいます」
担任のその話を聞いて全員が真剣な表情になる。それは弥勒や麗奈も同様だった。むしろ他の生徒たちよりも真剣に聞いているかもしれない。
「皆さんの中にもそういった辛い経験をしている人もいるかもしれません。学校というのも最早安全な場所ではありません。だからこそ、今ここで過ごしていける事を皆さんには大切にしていただきたいです」
生徒の何人かがその話を聞いて涙ぐむ。クラスメイトが転校するというのは他人事では無い。そう言った意味でこのクラスにいる全員も天使騒動の被害者と言える。
「それじゃあ今日のホームルームはこれで終わりにします。皆さん、久しぶりの学校を楽しんで下さいね」
「起立、礼」
担任の話の終わりと同時に日直が挨拶を掛ける。全員が席から立って挨拶をする。それを見てから担任が教師から出ていく。すると生徒たちは荷物をまとめ始める。
学校としてはリモートで授業をしていくという選択肢もあった。それでもわざわざバス通学という手段を用意してまで学校を再開させた理由は担任の言葉に込められていた。
生徒たちにきちんとした青春を過ごして欲しい。今、大町田市では天使騒動で転校や怪我人、死者などが出て暗い状況となっている。そんな中、学校がリモートになってしまったら生徒たちは人と触れ合う機会が減ってしまう。それを危惧した学校側が何とか市などと掛け合って再開に漕ぎつけたのだ。生徒側はその背景を知らないのだが。
弥勒たちも担任の言葉を胸に刻んで、その日は帰宅するのだった。




