魔法使いの心
斎賀ユラメ:何故か野良猫と野良犬と野鳥と物乞いに懐かれやすい。斎賀家の屋敷は近隣住民に『猫屋敷』とあだ名されている。
土手の上に敷かれた道の向こうには、日本人の精神がノスタルジーを感じるような、入道雲と山並みが遠く眺められる。かと思えば、その山は真っ赤に紅葉しており、さらには麓に並んでいる疎らな民家の屋根は雪化粧で真白く染まっている。
四季がごちゃ混ぜになった川辺でのんびりと茶を乾す幼女の元に歩み寄ると、カナタは恐る恐る口を開いた。
「……あの。」
「知っているぞ小娘。お主の名は百々カナタ。百々家の長女じゃろ。」
「え……。」
「言っとるじゃろ、此処は妾の心の内じゃ。なれば其処に在る総ては妾の範疇じゃとは思わんのか?」
カナタはゆっくりと、潺の魔女と名乗るその幼女の隣に腰を下ろすと、何故彼女の心の中だと主張されているこの場所に自身がいるのかを問うた。
「わたくし……変な泥……闇? 暗闇に呑み込まれて……気付いたら、ここにおりまして……。」
「うむ、それは※※※じゃろうな。」
「はい?」
うまく聞き取れなかったのか、それともその言葉だけが風に掻き消されたのか。潺の魔女が発した誘拐犯の名は、カナタには認識できなかった。
「も、もう一度よろしくって?」
「郢ァ?郢晢スォ郢蜻ェ縺。またの名を謎謎謎謎。人の子にもわかりやすく言わば、亜ヰ胡ヱ呉じゃな。それが何かの拍子に起動して、お主の首飾りから飛び出したんじゃあないか?」
「――ッ!」
明確に悟る。カナタに、その言葉は言語として知覚する事はできない。たとえ潺の魔女が喋っているその語彙が日本語をベースとする発言であろうと、カナタにはそれを理解することができない。
「……難儀な業背負っとるのう、お主。」
真っ青になるカナタの表情を一瞥すると、潺の魔女はハァ、とこれ聞こえよがしな溜息を吐く。
「わ、わたくしは何故……というより、何故わたくしがお母様から託されたこのペンダントに、そんな物が封印されておりますの!」
「百々海運の長崎常磐百々家じゃろ? ……うーむ、妾にもとんと見当はつかんが。」
「魔女にも……わからないんですのね。」
「……カナタ、お主は魔女の事をどう思っておる?」
ある時は深海のような黒にも近い青色。ある時は純水が凍ったような白にも近い青色。視線を外す度にくるくると変移する青い髪の幼女のその質問に、カナタは少しの間回答に詰まってしまう。
「わっ……。わたくし、そもそも魔女とか魔法使いの存在をつい数日前まで知らなくて。」
それでも、前に立つ相手の態度を無碍にしてはならないという父親からの教えを無意識に反芻しながら、カナタは詰まり気味な言葉を必死に紡いでいく。
「でもっ……貴方がたの御陰で現代の地球が……人類社会が保持されているというのなら。」
アマネが教えてくれた。かつて人類の歴史をその時点からまったく別物に変えてしまった災いの悪魔を無力化し、封じることに成功したのは、ひとえに魔術師たちの尽力と、魔法使いや魔女たちの奮闘があったからだと。
魔法使いたちが魔術師たちの祖であるならば、その実力は魔術師百人力などでは収まらないだろう。ならば、そんな魔法使いたちが思想の差も二の次にして集結しなければいけなかったルーインの怪物の威容というのは、推察するに困難な代物だが。
「わたくしは……貴方が今こうして自らの心の中に塞ぎ込む事しかできなくなった潺の工房の現状を、……あまり、誇れるものとは思えませんわ。もし……もしも、アサヒ様がお教えくださった事情が事実なら。今のこの工房は、明らかに間違っていると……思いますわ。」
そうまでして人類を守護してくれた魔女を排斥しようだなんて、あまりにも傲慢で――あまりにも、思春期の子供みたいじゃないか。
「アサヒ……秦か。そうか……彼奴め、腹の中ではそんなことを。……佳かった。ならば、後は任せたぞ、小娘。」
「え?」
「何を呆けておるか。アマネもいるのだろう? 奴は妾の旧い同胞じゃからな。顔はこーんな、じゃろうが――。」
そう言って、潺の魔女はアマネの仏頂面を真似て見せ、ニシシと意地悪そうな笑顔をカナタに向ける。それはまるで、外見の歳相応な笑顔にも見えた。
「奴は必ず妾を助けてくれる! 生憎と今は未来予視の能力も水鏡の魔法も放棄してしまったが――妾は確信しておるとも。それまで、この心の中でお主を待っているぞ、百々カナタ! ――さぁ、迎えだ!」
潺の魔女がカナタの背後を指差し、カナタがその方向を振り向くと、そこにはいつのまにか、観音開きの窓枠が、何も無い空中に出現していた。
その窓が勢いよく開かれると、向こう側には意識を失う前にカナタが目にしたのと同じ、色も動きもない暗黒が広がっていた。その奥から唐突に、漆黒のレザー質の袖に包まれた細腕がぬるりと出現し、カナタの襟首をしかと掴み取る。
「またな、人の子よ!」
笑顔で手を振る潺の魔女に見送られながら、カナタの身体は抵抗する間もなく暗闇の中へと引きずり込まれるのだった。
カナタが目を醒ました時、傍らには少女が座っていた。
「あんたって奴は……ほんと、世話が焼けるね。」
漆黒のロングコートに身を包んだその少女――アマネは、溜息を吐きながらその腕を掴み、半ば無理矢理にカナタの上半身を起き上がらせる。その感覚は、先程闇の中へ引き込まれた際に感じた感触と同じだった。
「――ありがとうございます、アマネ。」
「なに、いきなりしおらしくなって。キモいよ。」
「ひ、人が素直に感謝しているというのに、その言い草はあんまりではありませんこと!?」
「ほら、そっちの方がお嬢様らしいって。」
まるで安心しているかのような、穏やかな笑顔を浮かべてカナタの肩を叩くアマネには、これといって目立つ外傷は無く、カナタを庇って致命傷を受けた事実が嘘の様だった。
「その……アマネ、喉は……?」
「……私はそこらの魔術師よりも再生能力が高いの。」
「いや、あからさまに貫通していましたわよね!?」
「あんまり詮索してると、余計な事に首突っ込むよ。」
そう言い残し、アマネはその場から立ち上がり、襖の向こうへと歩き去ってしまう。それと入れ違いになるように、カナタが眠っていた座敷に桜色の髪の少女――アサヒが入ってくる。
アサヒの背後には、最初にカナタが目を醒ました際に枕元に座っていた面頬を装着した少女が控えており、面頬の少女の手には一汁三菜が載せられた膳が抱えられている。
「二度目のおはようございます、ですね。」
にこりと微笑み、アサヒはカナタの隣に膝を落とす。面頬の少女もアサヒの前で片膝をつき、膳をカナタの目前に配置すると、再び襖の奥へと消えていった。
「食欲はありますか? 魔術師と違って人間は少しのエネルギーでも欠かせば動けなくなるのですから、お粥でもお腹に入れるべきですよ。」
「ええと……。」
目の前には、ほかほかと湯気を立てる真っ白な白米や少し濃い目の香りが匂う味噌汁、瑞々しい青菜の煮浸しや焼き魚が並ぶ。育まれた富裕層意識がそれを浅ましいと判断するが、カナタの脳はその五感に訴えかけてくる情報に抗えず、胃袋は唸り声をあげてしまう。
「おや、もしかして警戒しているのですか? 良ければ当方が毒見を致しましょうか?」
それでもなお手を付けようとしないカナタに、アサヒは首を傾げる。
「い、いえ! 結構ですわ!」
なんとか上品さだけは残しつつ、それでも凄まじい勢いで食事を平らげていくカナタを、アサヒは相変わらずの微笑で見つめていた。
「――事態は急を要します。」
そう、アサヒは真に迫る面持ちで告げる。
「弘原海様が投獄されている結界は、八大流派と護朝三瀑全員の同意符号によって構築された大規模な衰魔の陣。中にいるだけで、並の魔術師ならば魔力はおろか、生命力すら減衰して死に至る布陣です。」
格子状の木枠から漏れ込む陽射しが照らす机上には、魔術的な紋様が描かれた図面や、翠桜宮の詳細な地理が書き込まれた地図などが複数枚広げられている。その中の一枚、特に複雑な魔術模様が写された紙を手に取り、アサヒは説明を続ける。
「弘原海様はこの中に幽閉されてもなお、未だに強力な魔術……ないしは魔法の力を用いて、この術式に抵抗をされています。……勿論、大々的に八大流派や他の三瀑に啖呵を切って布陣の効力を弱体化させたいのは山々です。が、流石に八人の大剣豪を相手に当方とユラメちゃんだけで生き残るのは……。」
「無理難題にござる。」
「当方の剣は対軍勢戦において最も真価を発揮する剣術ではありますが。――こと各流派の長全員を相手取れと言われると……。ユラメちゃんの流派も暗殺には向いていますが、一対多の戦場には全くの不向き。となれば自ずと、表面上は他の七流派と二人に同調しながら、暗中模索を続けるしかない。現状はそんなところです。」
「多数の意見に反すれば即座に斬首だなんて、随分と野蛮ですわね?」
カナタの溜息交じりの皮肉に、アサヒの表情が陰る。
「水の工房を名乗ってはいるものの、実質的に他の工房より重要視されるのは、どこまで行こうと剣の腕、ですからね。刃の前に雑念を有しては邪道に堕ちる。命を絶つ道具を手に握りながらも、心は明鏡止水。ゆえに、日本剣道と水の魔術は相性が良かったのです。」
「なるほどね。刃を手にして護朝三瀑としての責務以上の何かを求めてしまったからこそ、あいつらは邪道に堕ちたって言いたいわけ。」
「……新しい時代の工房体制。それもまた、時代が遷移し……魔術師がその存在を隠さずに済む世となった今ならば、認められないものではありません。しかし、故きを温ねて新しきを知る心なくして、革新は有り得ない。そう、思いませんか?」
じっと、真摯な眼差しでアマネの眼を見つめるアサヒ。アマネは何を思っているのか、ただ押し黙ったまま、アサヒのその瞳を無表情のまま眺めていた。だがそんな時、カナタたちが集っていた部屋の前から、アサヒの使用人と思しき口調の男の声がした。
「御当主様、来客です。」
その言葉に、アサヒはその誰何を問うた。それに対し、使用人は来客の身分を告げる。
「――『桜花歌祭』の使者、と。」
カナタはその名前に聞き馴染みも聞き覚えも無かったが、隣に立つアサヒが唇を嚙み締める姿をちらと見るに、それは今こうして、国家転覆を阻止せんと暗躍するアサヒたちにとって都合の悪い報せであろうことは、容易に想像できた。
「……ご推察の通り、召集願いです。」
「願い、などと。拒否すればどうなることか。」
「あ、あの……アサヒ様、桜花歌祭とは……?」
「ああ、百々殿がご存知なくとも無理はありませんね。なぁに、簡単な事です。」
口調は軽妙だったが、その面持ちは重く、覚悟を決めたような表情だった。
「我々護朝三瀑と八大流派当主たちによる、定例会議ですよ。」