湖上の楼閣
潺の工房:ワタツミ。陰陽道の始祖である『潺の魔女』が設立した工房で、工房内では剣を振るう手腕と水を操る魔術の質がその魔術師の格を確立する条件となる。
りんと鳴る鈴の音。さらさらと流れゆく清流の水。檜の板材を敷き詰めた回廊の上で、幼女は自らが統治する水の都が迎える旭日を見つめていた。水面に反射する陽光が、彼女の面立ちを陰影から曝け出す。
「……なんぞ、面倒な一日になりそうじゃな。」
古風な口調を一言、幼女は再び目的地へと歩みだしていく。
「潺の工房。」
「そ、最初の目的地ね。」
魔術で浮遊する支柱のない高架の上を滑るように移動する列車の中で、アマネはカナタに一枚のホログラム画面を見せていた。
「前にも言ったけど、お嬢様は魔術の世界について知らなさすぎる。だからとにかくいろんな工房領域を旅して、魔術の何たるかを学んでほしいんだ。」
「アマネがそう言うのなら、門外漢のわたくしに口出しできる事は何もありませんけれど……。いいんですの? その……わたくしの、家宝について。」
――ルーインの怪物の皮膚を構成していた神秘性不特定非現実物質。ただの人間に過ぎないカナタの首に掛かっていた琥珀の宝珠は、かつて世界の歴史を転覆させてみせたその脅威の牢獄と化していた。そのようなものをぶら下げたまま安穏と旅をするのは、とカナタは危惧していたのだ。
「……私がいれば、何とでもなるから。」
「凄いを通り越してひどい自信ですわね。国家機能を消滅させた存在の残りかすなのでしょう?」
「いいから。この画像見て。」
カナタの眼前数センチの距離にまでホログラム画面を接近させ、話題を無理矢理に戻すアマネ。そんな黒ずくめの傭兵の態度にむっとしながらも、カナタは画面に目を通す。
「まるで、京都の碁盤状都市ですわね。」
「……潺の工房の工房領域、翠桜宮は、湖上に浮かぶ古都とそれを守護する『八流派』の牙城が古都を囲むように水面に聳える領域さ。主に翠桜宮と呼ばれるのは古都だけだけどね。」
「待ってくださいまし、初耳の単語だらけで脳が。」
「だろうね。まぁ、そこは追々話すさ。というか、あの婆さんに事情を話せば教えてくれそうだけどね。あの人、根っこは世話好きだから。」
「お婆様?」
「ん。」
カナタの疑問に明確な答えは口にせず、アマネは再び画像に指をさす。碁盤状に通された大小の水路で区切られた京風の古都を高所から俯瞰して撮影したと思しきその写真をトントンと指でノックしながら、アマネは潺の工房に関する基礎知識をカナタに授けた。
「潺の工房は……ま、その呼び名からもわかると思うけど、日本が発祥の工房でね。主に陰陽道とか、古神道呪術とかを研究してたんだ。」
「お、陰陽道……。」
「……陰陽道、知らない? 五芒星とか八卦ってやつ。」
「それくらい知ってますわよっ! 安倍晴明とか――。」
「やめて、その名前嫌い。」
「え。」
「……。」
いつも通りの無表情のまま、突拍子もない事を口走るアマネの顔を凝視するも、当のアマネは何事も無かったかのように、再度解説を始める。
「創設者は潺の魔女、ワダツミ。古くは海神・スサノオノミコトが黄泉の国から帰還して後に行った禊の儀において生まれた三神が一柱、ウワツワタツミノカミであったとされ……。」
「待ってくださいまし! ということは、神様というのは実在しておられますの!?」
「ばか言わないでよ。神なんて人間が勝手にそう思い込んだだけ。実際は超強力な自然エネルギーの具現として霊脈から暴走排出された、精霊の上位種だよ。魔法使いや魔女だってそういうのの一種に過ぎない。」
「魔法使いや魔女……というのは、魔術師とは違いますの?」
「……。」
ハァ、と大きな溜息を吐き、アマネは懇切丁寧に説明する。
「魔術の正式名称は『魔法模倣術式』。かつて存在していた魔法使いたちが操っていた神の御業……『魔法』を何とかして再現、使役しようと研究を試みた大馬鹿たちが、自分たちの区分を定義づけたのが『魔術師』。魔法使いは言わばあんたの言う『神様』だよ。」
「な、なるほど……? ……待ってくださいまし、それでは魔法使いが魔術の研究の為に工房を設立する意味がございませんわ!」
「……そんなの知らないよ。連中、とにかく人の範疇でモノ測っちゃいけないヤツらだから。」
「魔法使いのお知り合いが?」
「今から会う奴がそうだよ。」
「はい?」
列車はやがて、衡の工房が誇る近未来都市、天秤港の外れの外れ、幾分か建造物の高度も控えめになったエリアに唐突に出現した、風景に矛盾を感じるほどに巨大な大瀑布の前に設けられた空中ステーションに到着した。
「ここで降りるよ。」
「なんですの!? 滝の音でほとんど聞こえませんわ!」
「だろうね。」
「はい!?」
そこからは最早言葉も発しず、アマネはカナタの手を取り、エレベーターに彼女を引き込むと、その個室の中で先程の発言について補足した。
「衡の工房長は衡の魔女の末裔でね。」
「ヴェルメイン様のことですわね?」
「ん。だけど今から会おうとしてるマセガキ……潺の工房の工房長は、今なお生き続けてる『初代工房長』……つまり、潺の魔女そのひと。」
「……はい?」
ナイアガラの滝を髣髴とさせるまでに超巨大な滝の隙間を縫うように設けられた、滑る岩場の登崖道を、腰にハーネスを巻いた黒ずくめの少女がずんずんと踏み越えていく。
「げっ、おえっ、ぐは!」
そのハーネスの先に括りつけられた哀れな令嬢は、淑女たらんと育てられた身において発してはいけないような悲鳴をあげながら、ほぼ直角の岩肌を引きずられていく。
「あっ、あの! ぐえ! ……本当にっ! ここにしか、工房領域に入る手段は無いんですの!?」
「あるよ。潺は衡と同じくらい商業が盛んな工房だし。よりオープンな関門はある。」
「そっちは使いませんの!?」
「私、お尋ね者だから。」
「だ、からって、ぇー!! ぎゃっ、ぐぎゅ!」
カナタがアマネに投げ渡された体調改善の薬品をペットボトル水と共に勢いよく喉の奥へ押し流し、およそその生まれとは程遠い声をあげて息を整えていると、アマネが目の前を指差しながら短く伝えて来た。
「着いたよ。」
「え……?」
滝の上、土と岩が入り混じるその場からアマネの指の先に目線を移すと、カナタの視界にその全容が否が応でも飛び込んでくる。
「なっ――!」
それは、今まで見て来た光景とは正反対の風景。
「これが潺の工房の工房領域。翠桜宮と、八大牙城だよ。」
さながらに、張力が働くまで水で満たした器の上に浮かぶ都。滝の上に存在していたこれもまた巨大な湖に浮かんでいたのは、中世日本の行政都市を模した京洛だった。その周囲八方には、それぞれ造形や趣向の違う和風の城塞がひとつずつ配置されている。
「これが……潺の工房。」
「そうだ。」
その偉容に呆然としていたカナタの左方向から唐突に、低い男の声がする。吃驚の面持ちで咄嗟にそちらを振り向けば、そこには藍色のスーツに身を包んだ細身の男性が立っていた。年齢は三十代ほどだろうか。無造作に固められたオールバックの黒髪と眠たげに半ば閉じられた瞼が、どこか哀愁を放っていた。
「い、いつの間に。」
「最初からいたよ。」
「ほう、流石は『影法師』だ。魔力の察知は野犬並みに鋭いな。」
目線は潺の工房の工房領域、翠桜宮に向けたまま、ロングコートのポケットに手を突っ込みながら、アマネがスーツの男を牽制する。
「『護朝三瀑』の一振りをわざわざ寄越すなんて、婆さん余程ヒマなんだね。」
「弘原海様は貴様の宮入りを快く思っていない。今すぐに引き返すならば抜刀は免じてやろう。」
「おお怖い。ところでここには一般人もいるんだけど。」
「無論、そちらの女性に危害は与えん。彼女も『影法師』だと言うのならば、話は別だがな。」
「……彼女、『も』?」
二人の問答は凪ぐ水面のように、風と激流の音だけが響く沈黙。その場に座り込んだまま動けずにいるカナタを挟んで、左にスーツ姿の男。右にはアマネ。スーツ姿の男が口にした最後の発言に対するカナタの疑問も泡と消え、両者の緊張状態が続いていた。
しかしそれも、そう長くは保たない。
「戻らないんだな。」
「私とお嬢様は婆ガキに用事があって来たんだ。用事を済ますまでは帰らないさ。」
「残念だ。たとえ貴様が最強の魔術師であろうと、我々と同じ土俵で戦う限り貴様に勝ち目が無いのは貴様が一番よく分かっているだろう?」
「『神速剣』が笑わせるね。抜刀してなけりゃただの人間のくせに。」
直後、カナタの頭上で、金属と金属が衝突するガツンという破砕音が鳴り響いた。
「……四番瀑布の上で誰ぞ剣を抜いたな。あれは……延僧か。おい祖慶、どうなっている? 何故、護朝三瀑が宮廷を離れている?」
「ご安心ください、弘原海様。延僧ケンサクは現在、翠桜宮に不法侵入した指名手配犯を鎮圧に向かっているだけです。」
「祖慶、秦、延僧……おぬしら、妾を謀ろうとしてはおらんか?」
「……何を申されるか。我ら護朝三瀑並びに八大流派、あなた様――潺の工房の長、弘原海シオミ様の忠実な家臣ではありませんか。」
「……。」
青い香りが漂う畳敷きの広間で、御簾の向こう側に腰かける幼い少女に対して頭を垂れる白髪の少女がひとり。
「この祖慶ハルカ、潺の工房の安寧を守護せしめんがために剣士を志しましたゆえ。……潺の工房の敵は、我らの敵にございます……。」
黒塗りの眼帯で左目を覆うその少女は、そう言って不敵に笑って見せた。