覚醒、瑠璃の魔術
弘原海シオミ:壊れかけのテレビは殴って壊す派。
口腔の奥の奥から、己への嫌悪感と、逃げ続けて来た事に対する後悔と、それなのに他者には多くを求めて来た罪悪感とが、粘性の液体となって水中へと流れ出て広がる。
「オエッ――。」
胸に押し付けられた刃が生み出した腐食傷は、未だに肉と骨を蝕んでじゅくじゅくと痛むが、そんなことはもうどうでも良かった。
「わたし、は。わたしは……!」
手元に転がった自らの愛刀を再び手繰り寄せ、握り締め、膝と足首と爪先に力を込める。
――思えば、どこまでも都合の良い夢。許されたい、愛されたいと切望した自分自身の傲慢が生み出した幻影だと一蹴されてしまうような、全部全部が自分の為に繰り広げられた夢空だった。
それでも、
「それ、でも……!」
それでも、行けと。
「進めって、護れって、言われた……!」
幻覚でも、幻影でも、夢でも妄想でも。
「その言葉に――わたしは報いたい! 寝てる場合じゃない、わたしを想ってくれていたたくさんの人の手を、一度は振り払って、斬り落としてしまったその手を!」
顔を上げれば、そこにまだいる。気を失う自分を守ろうと刀を手にする、満身創痍、死に掛けの侍が二人と、不得手だろう正面からの斬り合いで敵を牽制する、大切な『姉』の姿が、水面の下からその眼に映る。
「傲慢でも、自分勝手でも、手遅れでも! その手を――握りたいんだッ――!!」
――ユラメが取り出したペンダントから噴き出した数滴の黒い液体は、祖慶に斬りつけられても尚、地に伏したまま藻掻き起き上がろうとしていたアサヒを完全に沈黙させこそすれど、現状が大きく変わるような事は無かった。
「フフ、『影法師』の助力も無為に終わりましたね、斎賀さん?」
「……っ、いいや!」
祖慶が振るう剣は、ひとたび触れれば懐剣ごと腕が腐食してしまうのは、先程のアサヒを見ればわかりきっていた。だからこそ、ユラメは応戦する事はせず、祖慶の周囲を旋回しながら何度も斬りかかり、迎撃される直前で水中に消える戦法を繰り返していた。
「ユラメちゃん、どういうこと……?」
「……そうか、斎賀のヤツ、最初から二重に間者を演じていたのか……。」
「祖慶の味方のフリをして、アサヒちゃんを裏切る真似をしたって事!? で、でもそのせいでアサヒちゃんは……!」
唯一の家族に裏切られた絶望感。それをきっかけに、アサヒは暴走を始めてしまったのだ。無論、ひた隠しにしていた『影法師』との関係性を暴露されたこともまた、ストレス源のひとつではあっただろうが。
「……然様。素破はいついかなる時も、完全に誰かの味方にはならないもの。それは我が主、秦アサヒ様も変わりはござらん。それが、こうして工房の危機を招いていることもまた、重々承知。……なればこそ、こうして我が主が力の儘に暴れてくれたからこそ……!」
「『瑠璃の魔術』の存在を否定する証明が不完全になり、魔女を封じる五芒の結界が弱まると。そうでしょう?」
ユラメの目論見を看破して見せ、祖慶は愉悦の微笑を浮かべる。しかし、当のユラメもまた、してやったりと目を細めていた。
「……否。肝要なのは『瑠璃の魔術』の存在などではござらん。」
「あら。」
その瞬間、遂に祖慶の刃がユラメの右腕を捉えた。ジュウと肉が焦げる音と共に、その腕手は容易く切断され、弧を描きながら宙を舞う。
「――……ッ!!」
激痛に顔を歪ませながら、ユラメは不覚にも潜行していた水中から飛び出し、ソーヤとカイデンの元に転がり込む。だが、その表情の中には、苦痛と共に、勝利を確信しているかのような、情熱にも似た煌めきが宿っていた。
「ハ――これしきの痛み、我が右腕など、我が主が陥った絶望の淵に比べれば……何と温く、廉いものか! だがまだ終わりではない。拙者がここで斃れようと……必ず主は立ち上がる! 拙者は、私はそれを信じている!」
吼える負け犬を前に、祖慶は水面の上を一歩、また一歩と彼女へ歩み寄っていく。
「そうですか。では、そんな夢物語を信じたまま、地獄にいる秦一家に挨拶回りでもして来てください。『あなた方のご息女を守れませんでした』とね!」
そして、振り上げられた汚濁の激流が、ユラメの脳天を捕捉した。ユラメはその刃が自身に迫る一瞬まで、祖慶を睨み続けていた。
「――違いますよ。」
突然、祖慶の周囲に鬼火が舞う。俗説にて語られる妖狐が操るような青色の炎は、やがて祖慶へと迫り、やがて破裂する。
間一髪、高く跳躍することでその攻撃から逃れた祖慶は、咄嗟に声がした方向、自身が今まで背を向けていた方をすかさず振り向いた。
「ユラメちゃんは、地獄になんか行きません。」
そこには、祖慶も良く知る人物が、祖慶には見覚えのない姿で立っていた。
「祖慶ハルカ……護朝三瀑として、潺の工房の平穏を脅かさんとしたその過ちを……当方が、断罪します!」
「秦さん……何故!?」
秦アサヒ――護朝三瀑が一振りにして、十二年前に没落した流派、『神剣奉納術・秦式』総本家の最後の生き残り。そして――。
「その……髪は、まるで……っ!」
潺の魔女、ワタツミが人間へと手渡した、最初で最後の魔力で編み上げられた、不完全で未完成の魔術、『瑠璃の魔術』――その、正当な継承者。その証として、アサヒの髪は今、普段の桜色からは打って変わって、潺の魔女を髣髴とさせる、見る都度に色彩が変化する、青系統色へと変貌していた。
「――……いいや、いいやッ! その力を手に入れるのは、私だ! 私なんだ! こんな古臭くて、カビが生えそうな思想や伝統が蔓延するこの工房を根本から変えられるのは、その力なんだ! 寄越せ――寄越せェ!!」
想定外の事象に、祖慶の表情が豹変し、怒りと憎悪に満ちた獣のようなそれとなる。
得物を両手に握り締め、超高速で迫ってくる祖慶に対し、アサヒは再び、懐の内から陰陽術によって作られた霊符を取り出し、それを祖慶へと投げつけた。符は迎撃しようとする祖慶の目前で起動し、また複数の青い鬼火が発生する。しかし、その熱波は祖慶の衰退の刃によって容易く払われてしまった。
「な――!?」
鬼火を搔い潜った先で祖慶が見た物は、さながら蜘蛛の巣のようであった。空間を斬り付けたかのような残痕。それらが純水によって再現され、空間上に無数に展開されていたのだ。即ち、別次元斬撃痕多重再現魔術――『瑠璃の魔術』、その完全なる形だった。
暴走していた際に見せていた、目に映るものを須らく抹殺しようという殺意によって生み出されたものではない。祖慶には理解できた。どう動いても、必ずその先で、確実に祖慶の首を斬り落とせる位置に斬撃が存在している。
「ハハ――流石は引き籠りの魔女、生ずる魔術もセキュリティ特化と来ましたか!」
「いいえ、これは我ら秦一族が編み出した、『大切なひとを護る魔術』。最初は魔女を、そして血が引き継がれればそれはやがて、我が子を、家族を護る剣へと遷移しました。その魔術に感謝していたからこそ、秦は神たる魔女へ奉納する剣として、『瑠璃の魔術』を剣術へと昇華させたのです。」
すべてを理解したような口ぶりで、アサヒは滔々と語る。
「しかし、それを鏖殺したのは他でもない、貴方ではありませんか!」
「ええ。当方は当方の激情が誘うままに、本来護るための剣を、殺めるために使ってしまった。それも、二度も。――許されざる行いです。ですが、それは貴様とて同じでしょう、祖慶ハルカ!」
「一緒にしないで頂きたいですねェ! 私めは、工房の事を思って――!」
「魔術師が創り上げる未来。」
「!」
「……それもまた、工房のひとつのカタチでしょう。理解できない事ではありません。――ですが。」
親から子へ、代々受け継がれてきた秦の名刀。本来ならば長兄の秦テイゴが握る筈だった、魔女が生成したと伝わるその刀をぎゅっと握り締め、アサヒは澄んだ眼差しで祖慶を睨み据える。
「これまでの工房を支えてきた魔法使いを、魔女を蔑ろにし、共に歩んで来た同胞たちをも邪魔者と侮蔑するのは、魔術師が創り上げる未来などではない……愚者が創り上げる、破滅に他ありません!」
「この……っ、魔女の信奉者というのはいつの時代も、口ばかり達者なものだ!」
祖慶はそう言って、懐の内から何かを取り出す。
「虚の工房の技術なんぞに頼りたくは無かったが……やむを得まい!」
医療用のシリンジにも似た、小型の器具。それの蓋を外し、微小なサイズの何かを自身が立つ水中へと投げ入れると、器具の先端に取り付けられた鋭利な部品を自身の肩口へと打ち込んだ。
「ッ、ぐぅ、ううぅ……――!」
直後、祖慶が投げ入れた何かを起点として、光の柱が天へと飛び出す。光が曇天を貫いて中天と接続すると、途端に祖慶の身体に変化が現れた。器具を打ち込んだ肩部を中心に、青く発光する魔術紋様が右半身全体に駆け巡り、祖慶の髪もアサヒ同様に青系統の色へと染まっていく。
「魔女の力!? どうやって――!」
驚愕するアサヒの前で、祖慶は自身の中へ広がっていく圧倒的な魔力に狂喜の声をあげていた。
「ハ、ハハハッ――! すごい、すごいですよ、これは! なるほど虚の工房が全工房へ影響を及ぼそうとするわけだ! アサヒさんにもわかるでしょう、今まで封じていた潺の魔女の力が、私へと集約していくのが!」
翠桜宮全土まで響くような轟音と共に、どんどんと魔術紋様が祖慶を覆いつくしていく。やがて、魔術紋様は祖慶の全身に行き渡ろうとしていた。
「……楽しそう、じゃな。祖慶。」
ふと、声がした。祖慶がそちらを振り向けば、そこには魔女がいた。潺の魔女・ワタツミ――即ち、潺の工房の工房長、『弘原海シオミ』が、息も絶え絶えに立っていたのだ。
「嗚呼……弘原海様。随分と遅かったですね? いくら魔法を封じられていようと、貴方様は立って歩いて喋ることくらいはできたはずでしょう?」
「まぁな。ちと、旧友と歓談しておった。のう――ユラメ?」
ぬるりと。シオミの背後から、ひとりの少女が出現する。青い髪に面頬が特徴的なその少女こそは、アサヒの忠実な家臣にしてたった一人の家族、斎賀ユラメそのひとだった。しかし。
「おや、斎賀さん……腕を落とし損ねていますよ?」
その右腕は、何事も無かったかのようにその右肘と接続されていた。
「……バカじゃないの。ここまで来てそっくりそのままユラメの恰好する意味が無いでしょ。」
ずるりと。まるで頭から被った毛布が剥がれ落ちるように、変身の魔術が解除される。
そこに立っていたのは、竜の尾のように細長く結わえた黒髪を揺らし、漆黒のロングコートに身を包んだ少女だった。
「初めまして、祖慶ハルカ。私が……あんたが会いたくて会いたくてソワソワしてた、『影法師』ってやつだよ。」