鏖殺と破滅
沖田ソーヤ:史実上の天才剣士に名前や使う剣技が酷似しているが、実はまったくの偶然であり、本人とかの有名な病弱剣士との間には何一つ接点は無い。
「精霊の最上位種たる魔法使いを封じるには、その本質の存在証明を否定する必要がある。」
仄明るく発光する水が湛えられた池の畔で、斎賀ユラメは誰に語るでもなく言葉を紡ぐ。
「該当する魔法使いが使役していた魔法が存在していなかったと証明に成功したからこそ、こうしてキミはいつ起きるかもわからない眠りに落ちてる。」
その口調は、ユラメのそれとは大きくかけ離れていた。
「……『瑠璃の魔術』、キミが気紛れに人間に分け与えた魔力が産み落とした原初の魔術。……ねえワダツミ、あの子が本当の意味で『瑠璃の』魔術師へ昇華できた時……。」
ずるりと、頭から被っていた毛布が床に落ちるように。ユラメの姿は溶けて消え、そこには漆黒のロングコートを羽織った少女が、宙に浮かぶ水泡の中で眠る幼女を見つめていた。
「……キミは、他のみんなみたいに幻想世界に帰っちゃうのかな。」
翠桜宮の交通網は、一部の限られた陸路を除いて、その大部分を大小様々な水路が占めている。そんな運河の水面を滑るように跳躍しながら、複数人の達人がたったひとりの少女を相手に大立ち回りを続けていた。何事もないいつも通りの日常を生きていた、工房領域に住まう人々は、その剣戟を目にし、何事かと次々に足を止めていく。
「僕の声っ! 聞こえてるでしょ! アサヒちゃん、止まって!」
捩じれ捻る水流を刀身に纏わせ、日本式の剣術と云うよりフェンシングに近い、刺突を中心とした戦法を用いて、アサヒの握る得物を弾き飛ばそうと奮戦するは、『沖田式無明秘剣術』女当主、沖田ソーヤ。
「アサヒ、お前の目に映る者は敵ではない。『秦の撫斬』事件でお前が何を見たのかは某も知らんが、少なくともお前がトラウマの中に焼き付けている仇敵の姿と某らの姿は食い違っている筈だ。目を醒ませ、アサヒ!」
アサヒが刀を振るわずに次々空間上へ召喚する、水分で構成された斬撃を、初撃必殺と名高い『南郷破砕流』の剣で断ち切っていくは、男性と見紛う筋骨の女性、南郷カイデン。
「八大流派の当主が四人がかりでふん縛ろうとして、おてんとさまが真上にいた頃から頑張ってるってのに、もうすぐ沈もうとしてるじゃないか。……まったく、たったの十六の子供が持つような遺伝性魔術か、これが?」
「なんなら、四人だとそろそろジリ貧ってとこじゃない? こっちの魔力ももう尽きかけよ! もう、藤原のおじ様は何をしてるのかしら!」
沖田ソーヤと南郷カイデンと入れ替わるようにアサヒへと斬りかかるのは、一定量の水を日本刀と同様の形状、性質へと変化させる魔剣術、『碓氷徒手剣』を束ねる老婆、碓氷ユウ子と、潺の工房において最も普遍的な一刀流剣術である『霧雨一刀流』の当主、霧雨ユキノジョウ。
「……なぁに、老害は老害だが、アレだってかつては潺の工房の生きる伝説とまで呼ばれた男だ。信じて待てばいいさ。――そら、来るぞ。」
碓氷ユウ子が、滑走する大通りの先を顎で示す。霧雨ユキノジョウがそちらを見れば、そこには水路や市街地を覆いつくすほどの人の壁と――その中心に立つ、一人の巨漢がいた。
「――約定通り、八大流派の門下生の八割を連れて来たぞ!」
「おお、老いぼれの割にはよくやったよ。褒めてやる、デンスケ。」
「碓氷! 貴様という奴は昔から一言……、否。然様な事を抜かしておる場合ではあるまいて! ここに集った数多の手練れ、数多の勇者よ! 狙うはただ一人、秦アサヒの五体満足での捕縛のみだ! だが努忘れるな、秦アサヒは貴様らを本気で殺しに掛かるであろう! 命を捨てる必要はない! 我ら当主も共に闘う! 故に、己に出来得る最善を尽くせ!」
実に、集まった剣士の数は万を超えていただろう。たった一人の狂戦士を止めるために、それだけの数をものの数時間で召集し、統率して見せたのは、『元』潺の工房最強の侍、『月影殺人術』当主の藤原デンスケであった。
そこに流派の垣根は無く。常日頃は派閥争いばかり起こしていたような険悪な雰囲気も、血気に溢れた反発心も無く、ただひとつの目的を果たそうと、『伝説』と呼ばれた男の頼みの下に集結していた。
「征くぞ万夫不当の武士たちよ、貴殿らの流派の底意地を、護朝三瀑に知らしめてやるのだ!」
藤原デンスケの鬨の声に、その場に集まった数万の大軍勢が、一斉に怒号を張り上げる。その衝撃は壁や屋根を震わせ、水面に大ぶりな波を立たせてみせた。
「マジで!? マジであの数でアサヒちゃんをブン殴るつもりなの!? バカなの!?」
「ソーヤ、口が悪いぞ。それに……。」
――言い淀む南郷カイデンの不安は、およそ一時間としないうちに的中する事になる。
もはや、沖田ソーヤとて立ってはいられなかった。体力も、魔力も底を尽こうとしていた。しかし、未だに目の前に立ちはだかる少女は正気を失っており。
「厭だ……厭だ……みんな、みんないなくなれ……だれも……信じたくない……だれも、誰も……!」
未だ、妄念に自我を奪われたまま、行く宛ての無い刃を虚空へ向かって振り続けていた。
「立てるか、ソーヤ?」
「カイちゃん……。うん、ごめんね。まだ……できるから。」
「無理はするな。碓氷殿と霧雨殿も牙城と城下町の保護に回った。翠桜宮に留まる方が今や危険な状態だ。……藤原殿には悪いが、某らも某らの故郷を守護する方針に転換した方が……。」
南郷カイデンの提案に、ソーヤはゆるゆると首を横に振る。視界の端には、無惨に斬り捨てられたどこかの流派の門下生たちの死体と、そして自らが手塩に掛けて指南してきた『沖田式無明秘剣術』の生徒たちの死体が、数多混ざり合って転がり落ちていた。
「だめだよ、そんなの。」
その中には、あの藤原デンスケの姿もあった。
「アサヒちゃんは、殺したくて殺してるんじゃないんだ。言っちゃえば、アサヒちゃんに罪は無いんだよ。……うーん、罪が無いわけじゃないかな。僕だって、かわいい門下生たちを野菜のヘタみたいにバッサリ殺されちゃってるしね。怒りたくはあるよ。なにやってんだこのやろ! ってね……。」
強がるように、ソーヤは笑って見せる。だがその声は、悲哀と絶望に枯れてしまっていた。
「でもさぁカイちゃん、こんなの悲しいじゃん。アサヒちゃん、きっと正気に戻った時に切腹しちゃうよ? ……だめだよ、そんなの。望んで得たわけでもない力に呑まれて、望んだわけでもない人殺しをして、その結果罪の意識に苛まれて生きる事から逃げちゃうなんて。」
「……ソーヤ。」
「何度も言ってるけどさ。あの子、まだ十六歳なんだよ? 僕らより前途洋々じゃん! いやぁ、まぁ、十歳しか違わないけどさ。でももし、僕らやアサヒちゃんがみんな寿命で死ぬとしてさ……。僕らが死んだ後の十年、まだあの子はこの世界を見ていられるはずなんだよ! この綺麗で、烏滸がましいけど守りたくなる世界をさぁ! ……それを、……止められないなんて、そんなの。……僕は僕を許せない!」
もう一度、ソーヤは剣を握る。
「あの子が間違えたように、僕らも間違っちゃいけない判断を間違えた。」
「……『神剣奉納術・秦式』は、一対多の戦闘において、最も真価を発揮する流派。」
「それが思い出せてれば、デンスケ爺さんも死なずに済んだろうにさ。結局、みんな間違えちゃったんだよ。だから……今なら。」
「某とソーヤの二人掛なら?」
「そうだよカイちゃん。手伝ってくれる?」
「無論だ、ソーヤ。いつだって某は、お前の一番の親友だからな。」
カイデンも再び、折れた愛用の刀の代わりに、藤原デンスケの手から零れ落ちた大振りの打刀を手にする。そうして、二人が揃ってアサヒの前に立ち塞がった、その時だった。
「――いいえ、その必要はありませんよ。」
唐突に、その女は現れた。
「本当に、よくやってくれました。――秦さん。」
心底から嬉しそうに――興奮を抑えきれないといった面持ちで、祖慶ハルカはその場に降り立った。
「いえ、いえ……。本当に。意外でしたよ、まさか当主を一人ならず二人も葬ってくれるとは!」
「……祖慶、ハルカ?」
カイデンの懐疑的な口調に、祖慶ハルカはにこやかに答える。
「ええ、貴方達も本当に奮闘してくれました。」
「どういうことさ、祖慶さん! まさか……アサヒちゃんに僕らを殺させようとしたの!?」
「はい、御名答です。」
けろりと、事も無げに祖慶ハルカは即答する。あまりのあっけなさに、思わずソーヤとカイデンは呆然としてしまった。
「理解する必要はありませんよ。所詮、剣の切っ先しか見ていないようなサル共に理解させるつもりはありませんしね。」
そう言って、祖慶は腰に佩いた打刀をゆるりと抜く。その刀身からは、まるで嵐の河川のような黒く濁った水流が絶え間なく螺旋を描いて巻き付いており、彼女の異名たる『退廃剣』を正しく体現していた。
「八人の当主のうち、二人が死亡。残る六人のうち、四人が翠桜宮を放棄。そして残る二人も……今ここで私めが消してしまえば……この翠桜宮、延いては潺の工房の実質的な支配権は真に私めの手中に収まる!」
「たったそれだけの……くだらない野望のために、アサヒちゃんは!」
「私めが二代目の潺の魔女となってしまえば、秦さんの行動だって理に適うでしょう? 『瑠璃の魔術』師として、その根源である潺の魔女の目的を達するための駒になった。何も問題はないじゃありませんか?」
「……それは、あまりにも横暴な結果論だ。」
「ふざけるのも大概にしろよ祖慶ッ! 魔術師が創り上げる新時代ってあんたの御託を信じたから、工房長を眠らせる儀式にも血印を刻んだんだ! お前なんかが工房長に成り代わって、八大流派も蔑ろにして、そんなの僕らが欲しかった新時代じゃない!」
「だから何でしょう? 十一人の魔術花押を燃やして完成させた秘術ですよ? 破却するにも十一人全員の承認が必要となります。貴方が嫌だ厭だと言えど、もうどうにもなりませんよ。残念でした!」
顔面の半分を覆い隠す眼帯が捲れ上がるほどに顔を歪ませ、心底から心地良さそうに、祖慶は高らかに笑って見せた。
その瞬間、祖慶の背後から白銀の閃光が迸る。新たに視界に飛び込んできた祖慶を敵と即断したアサヒが、斬撃の性質を付与した水流を自身の周囲空間上に無数に従えながら、その頸を叩き斬らんと飛び掛かってきたのだ。
「――ちょうど良かった。秦さんには、私めが何故『退廃剣』と呼ばれているかをお伝えしておりませんでしたね。」
まるで、アサヒが飛び掛かってくる角度と距離を事前に予知していたかのように、祖慶は刀身がアサヒの胴体に触れるよう、振る事無く、ずいと得物を背後に向かって伸ばす。結果として、設置された刀身がアサヒの胸に押し付けられ――まるで赤熱した焼き鏝が喰いついたように、アサヒの胴体から真白い煙が立ち昇った。
「――ッ、がアぁあ――っ!!?」
「涓滴岩を穿つ。私めの魔術は、水がもたらす『破滅作用』に着目したものです。鉄も水が触れ続ければいずれ錆びて朽ち果てる。清水すらも、汚水によって滅びゆく。自然界にあって、『水』に勝る破滅は存在しない! ――たとえ、別次元すらも無意識で操ってしまうような魔術が相手でも、ね。」
これまで、工房が誇る八人の剣士のうちの五人と、それに続いた数万の剣士たちを相手にしても勝者であり続けた最凶の少女武士が、たったひとりの、振ってもいない剣に当てられて、まるで面白くもない寸劇のように倒れ伏してしまう。
「――さて、これでもまだ刀を収めないバカもいたもので。」
祖慶が振り向く先には、未だ恐怖と憤怒が入り混じる眼差しで祖慶を睨み、それぞれの流派の構えを取る女流剣士が二人。
「構いませんよ。私めも元よりそのつもりでしたから。では、地獄でまたお逢いするとしましょう。」
そう言って、祖慶は音も無く、ソーヤの懐の内に滑り込む。
「――ッ!」
ソーヤが反応するより疾く、祖慶の凶刃がソーヤの首筋に肉薄する。
が、しかし。
「それを。」
不意に、三人が立っていた水路の水中から、声が響く。
「待って、ござった!」
盛大な水飛沫と共に、青い髪を揺らす少女忍者がソーヤの足下から飛び出し、その手に握ったペンダント――『影法師』の客人が後生大事に首から提げていた、琥珀を嵌め込んだペンダントを、祖慶の剣先に触れさせる。
刹那、琥珀に元からひとつ入っていた亀裂に破滅の水流が触れ、そこから数滴、漆黒の液体が漏れ出す。それは暗黒でありながら、視界の全てを奪うほどの閃光を放ち――。
「後の事はお任せ致す、我が主……アサヒ様! どうか、我らの想いを――弘原海シオミ様に届けてくだされッ――!」