狂狼怒涛の如く
大胡イソロク:毎週買った漫画雑誌はひとつ残らず保管しているため、十数年分の漫画雑誌でそろそろ書庫が埋まりそうになっている。
まず、拘束しようと瞬時に距離を詰めた、右隣の大胡イソロクの両腕が吹き飛んだ。
「がッ――!」
急転直下の出来事に、その場にいた他の全員が動けぬまま、大胡イソロクの肘から肩が上半身から切除される。その間、アサヒの瞳孔は焦点も定まらず、虚空を見つめていた。
「や――、」
止めろ、と制止の声を振り絞ろうとするも。
「――だめ。」
声を出すな、と。まるで咎めるようなアサヒの短い言葉と共に、大胡イソロクの喉仏から上が宙を舞う。魔力の水流が湛えられた池の中へ、大胡イソロクの頭部が消えてから、ようやく『桜花歌祭』の議場にいた剣士たちは各々の得物を抜き放つ。
「だめ!」
まるで、駄々を捏ねる子供のように。襲い来る『敵』を、アサヒは次々に撥ね退けていく。かつて、潺の工房に存在していた八大流派のひとつ、『神剣奉納術・秦式』の牙城が、一晩で生者の存在しない廃墟へと変貌した事件の再現のように、たった十六歳の少女が、自身の何倍もの経験を積んだ剣士たちを相手に、一歩も引けを取らずに渡り合っていた。
「だめ、だめ、だめ、いや! いや、いや、いや! いやだッ!!」
そう、悲鳴をあげながら。
――そんな血生臭い民主制代表議会場の凄惨たる光景を、祖慶ハルカは満足そうな微笑みを浮かべて見守っていた。彼女にはこの事態が想定内だったかのように、その混沌の大乱闘を制止する事もせず、ただほくそ笑みながら見物している。
そんな彼女の元へと近付く少女がひとり。
「――祖慶殿、宮廷内に侵入者が。」
「やはり、ですか。遠かれ早かれ、秦さんが『影法師』の協力者だというのは露呈して然るべきでした。ならば、混乱に乗じて作戦を遂行する事に長けている『影法師』ならば、このような波乱は願ったり叶ったりだったでしょう。……ですが、悲しいかな……この宮廷に私めがいる限り――貴方の思い通りにはさせませんよ。」
斎賀ユラメの報告を受け、祖慶はようやく腰を上げる。その場から去ろうとする祖慶には目もくれず、多対一の中でも一歩も退かずに、むしろ優勢な程に健闘するアサヒを再度一瞥して、議場を後にする。
そこは、水場自体が淡く発光する、神秘的な空間だった。周囲には翡翠色の桜が満開に咲き誇り、中央に存在しているそれに向かって、花弁を散らし続けている。中央部に設けられた円形の水場の外縁には、五振りの刀剣が地に突き立てられており、五芒星を描くように魔力で編まれた可視光線帯が交わり合っている。
「……ふむ、結界にも問題はありませんね。」
五芒星のさらに中央の空中に浮かぶ、ダンプカー程もある水泡の中には、幼い体躯に青系統の色彩が見る度に変化する髪を有した小さな魔女が蹲るように沈んで眠っていた。水泡の周辺を取り巻くように飛び交う翡翠色の花弁が、時折同じ色の火花を散らして爆ぜている。
「いかな『影法師』とて、この檻の位置までは割り出せませんでしたかね? ……いいえ、あの『影法師』の事です。私より早くこの場に到着していて何らおかしくありません。もしやもすれば……。」
ちらり、と。祖慶は光源の水面に照らされて産み出された、自身の影に視線を向ける。
「……ふふ、それはそれで面白い。それに、たとえこの場所が露見したとて、『影法師』には対処もできないでしょう。それはそれとして――警戒を強めるに越した事は無いですね。……さて、アサヒさんは頑張ってくれていますでしょうかね?」
そう呟く祖慶の頭上、岩盤の天井の向こうから、地鳴りのような重苦しい衝撃音と激しい振動が伝わってくる。その反応に、祖慶は再びニヤリと笑うのだった。
「落ち着けアサヒ、己を見失うな!」
碓氷ユウ子の言葉も届かず、アサヒは尚も狂乱し続ける。
「無駄だ碓氷! 秦の血が流れている者が発狂して、制止の声が届いた試しが過去数十年で一度でもあったか!?」
藤原デンスケの言葉に、碓氷は年甲斐もなくぐっと歯噛みする。
「……あんまりじゃないか、そんな話が。」
腰から下げた小さな瓶から溢れ出す水流が、碓氷の手の中で刀の形状を取っていく。
「……はたの、ちは。きょうらんどとう、いっきとうせんの、みなごろしのけもの。」
「学に疎い某でも聞いたことくらいはある。……古式魔術。魔法を人類技術へと貶めた原初の『魔術師』が操っていた、最古の魔術……。そのひとつ、『瑠璃の魔術』こそが、秦一族の剣技そのものだと。」
「――総員へ護朝三瀑として勅令を出します。彼女を鎮圧しましょう。秦アサヒの命脈を断つことで抑止を試みます。」
それまで手も出せず、傍観に徹していた当主たちへ、延僧ケンサクはアサヒの狂剣を弾きながら指示を出す。
「ころす……って、こと。」
「そんな、アサヒちゃんはいい子だったじゃん!」
「然様な日和った妄言が抜かせる状況か! 貴様の何十倍も実力差のある武士が我を忘れ、貴様を滅さんと襲い来ておるのだぞ!」
「……殺すまではせずとも、腕の一本脚の二本は持っていくつもりで止めないと、あのコは止まらないわ。」
「……決断の時だ、お歴々。新しい時代を、新しい旭日を迎えようと一世一代の大転換を決意した貴殿らならば、此度のこれもまた、冷徹に下すことのできる判断の筈だ。」
碓氷の、冬の朝の湖水のように深く冷たい声に、その場にいた若い当主たちは唾を飲み、手に握った得物に籠める力を強めた。
「――あ、相手は。」
最初に足を踏み出したのは、沖田ソーヤだった。
「たった十六歳の、女の子なんだ。殺すなんてできない。けど、このまんまにもしておけない! 手伝って、カイちゃん!」
「当たり前だ。ソーヤがそうするなら、某に異論はない。イソロクの無念と併せて、彼女には生きて償ってもらわなくてはな。」
南郷カイデンもそれに続き、涎を振り撒きながら暴れ回るアサヒの胸倉を掴み、その巨体から生み出される満身の膂力を以て、彼女の身体を議場の壁へと叩きつける。まるで鳶口で引き裂いたように打ち壊される壁を突き抜けて、アサヒは紙風船の如き豪速で外界へと投げ飛ばされていった。
「アサヒちゃんには悪いけれど、アタシも最近運動不足だったのよ! ちょっとエクササイズに付き合って貰っちゃおっかしら?」
宮廷を突き抜け、市街地にまで貫通したトンネルの向こうへと、次に飛び出していったのは、霧雨ユキノジョウだった。
「……ぼ、く。」
「小僧、戦わざるもお主の英断に変わりは無い。牙城へ帰り、門下生たちへ翠桜宮へ接近する事を禁ずる事もできよう。」
藤原はそう滸我マサムネへと伝えて、霧雨の後を追って歩み去っていく。
「ぼくは、ひとをきずつける、なんて……できない。ぼくは、アルビオン・ゲームが……すきだから。ひとをきずつけない、やいばが、すきだから。だから、ぼくはいかない。」
「よく言った、滸我の一人息子。さあ、ちゃっちゃと帰りなさい。じきに翠桜宮は戦乱の渦中に陥るぞ。」
こくりと頷いて、宮廷を貫くトンネルとは逆方向、議場の出口へと消えていく滸我の背中を見送り、碓氷は満足そうに微笑む。
「そういう考え方が、増えていくと良いんだがね。」
ところは変わり、潺の工房の工房領域、翠桜宮の外れ。かつて、潺の魔女そのひとを祀っていたとされた廃れた神社の鳥居の前に、カナタは立っていた。
「……本当に、ここで合っていますの?」
『なに、ビビってんの?』
「ばかなこと仰らないでくださいまし! ただ……。」
まだ昼過ぎだと言うのに、異常成長した雑木林に覆われた廃神社はまるで夜のように薄暗く――と言うよりも、何故かカナタの周囲は、先程まで天蓋の頂上に太陽が位置していたというのに、月の無い真夜中のような空模様に包まれていたのだ。
「この神社に、一体何があると言うのです?」
『さあ? ……私が最後に翠桜宮に来たときは盛況してた神社が、いつの間にかそんな有様になってたから。』
「わたくし、ただのパシリにされましたの!?」
『……端的に言えばね。』
「い、いくら貴方がお尋ね者だからって……! 第一、貴方ほどの魔術師なら、人目を避けてこの場に来る事も容易では無かったのではありませんこと!?」
『うるさいな。今私、手が離せないんだよ。』
携帯端末の向こうから、アマネの苛立たし気な声がする。カナタは最早何も言うまいと心に決め、意を決して鳥居の奥へと足を踏み入れる。
瞬間、まるでぬるま湯をそのまま気化したかのような、気味の悪い感触がカナタの頬を撫ぜ、カナタは咄嗟に甲高い悲鳴をあげて鳥居の外に逃げ出してしまう。
『おーい、その奥の本殿に取ってきて欲しいモノがあるんだけど。』
「そ、そそ! そんなことをっ、申されましてもですわね!?」
『……連中、あんたがオバケだと思うからオバケの姿でしか出られないんだよ。』
「やはりどなたかいますのね!」
『狐の耳した巫女さんとか思い浮かべとけば。』
「あら古典的。……わかりましたわ。キツネミミの巫女様……キツネミミの巫女様……。」
そうして、カナタはそのワードを何度も反芻しながら、再び鳥居を潜る。やがて、先程までと同じようにぬるい風が過ぎ去ったが、やがてそのぬるさは心地良い冷たさへと変わっていき、そしてついには、水の上を歩く足音のようなものへと変わっていった。
恐怖心にぎゅっと瞑っていた瞼を恐る恐る開ければ、そこには。
『ほら、かわいい。』
アマネの助言通り、狐の耳介と尾を有した、美しい巫女服姿の女性が、境内の中に何人も行き交っていた。
「彼女たちは、一体……?」
「それについては拙者から。」
刹那、カナタの右隣に人影が舞い降りる。音も無く着地し、膝の汚れを手で払い落すと、青髪に面頬と特徴的な見た目をしたくのいちは、カナタに驚かせてしまった非礼を詫びた。
「なんだ、ユラメさんではありませんの。」
「左様。斎賀ユラメ、アマネ殿の命により、カナタ殿の護衛を任ぜられました。」
――八大流派、『弘原海衆』頭目、斎賀ユラメ。工房長、弘原海シオミ直属の忍者集団の頭領である。
「彼女たちは水霊。精霊の一種と考えて間違いはござらん。」
そう言って、ユラメは境内の奥、倒壊した本殿を指差す。
「拙者らの目的地はあすこにござる。さ、迷わぬうちに。」
「迷うものですの? こんな……狭い境内で。」
「如何にも。ここはその影響が薄れてしまったと言えど、潺の魔女たる弘原海シオミ様の私邸でもあったのでござる。未だに水霊が活き活きとしている様を見るに、その防犯システムは恐らく顕在かと。」
ユラメの言葉に呼応するように、境内の面積が見る見る間に広がっていく。水が地面から噴き出し、森を造り、街を造り、道を造り、人々を造っていく。その光景は、まさに浮世離れと形容するのが最も相応しかった。
「ようこそ、翠桜宮深奥……『竜神宮城』へ。」