『影法師』
衡の工房:シグ・リーブラ。錬金術の始祖である『衡の魔女』が設立した工房であり、所属する魔術師も大多数は錬金術師が占めている。現在、各工房の中で最も経済的に発展した工房である。
『認証コードを受理しました。認証コード検索中――。検索終了。「影法師」様、お待ちしておりました。貴方様にはセントラルタワー地下第1フロアから第5、第10フロア、及び地上第1フロアから第50フロア、第180フロアへのアクセスが許可されています。ご用命の際は所有しているリブラ・ネットワークサービスを利用可能な端末にて、当システムを起動してください。』
エレベーターホールに設置された、入場者を選別するコンソール装置から流れる機械的な女声のアナウンスがぷつりと途切れるのを確認し、竜の尾のように長くしなる灰黒色のポニーテールを揺らす少女は、エレベーターの呼び出しスイッチに触れる。
『フロア180、工房長執務室です。認証コード受理、クリアランスレベル・クリア。工房長は在勤中です。どうぞ、お入りください。』
厳重なセキュリティをクリアし、少女はエレベーターのドアから足を踏み出す。
「――やぁ、『影法師』。待っていたよ。」
そこは、四方の壁のうち、エレベーターホールを含む一面を除いた三面が透き通ったガラス張りで構成された、広大な執務室だった。ガラスの向こうには、雲の下に近未来都市が広がっているのが見渡せる。
室内にはあちらこちらで枠や出力機を用いないモニターが浮かんでおり、下界の各地を定点撮影した映像がひたすら流されていた。
「いつもすまないね、僕らの雑用に付き合わせちゃって。」
そして、エレベーターホールの向かい側、ガラスに背を向けるように設置された執務机と革張りの椅子には、白色基調の礼服に身を包んだ金髪の青年が、にこやかな表情を浮かべながら座していた。
「今回も他工房勢力の動向調査を依頼したいんだ。一応『落錘部隊』に監視はさせてるけど、最近ちょっと看過できない動きをしてる所があってね。天秤軍を動かして鎮圧しても良いんだけど、外交問題に発展して変に作業が増えても面倒でさ……。」
「あんた、いつもそう言ってない?」
「そう? そうかも。ハハハ!」
少女は「はぁ」と、聞こえよがしに溜息を吐く。そのまま少女は金髪の青年が腰かける執務机の前まで歩み寄っていくと、自然と遮るものの存在しない最上階であるこの執務室に差し込む自然光によって、少女の姿が露になる。
踝まで届く、細く艶やかなポニーテール。脚部のほとんどを隠す、髪色と同色の革製ロングコート。その下に着ているのは、簡素なチューブトップとハーフパンツのみ。やや長い前髪に隠された瞳は、アジア系の顔立ちには似つかわしくない金色に輝いていた。
「――いいよ、どうせ最近はヒマだったんだ。」
「いやぁ助かるよ、報酬はどれくらいいる?」
「……ま、今まで通りでいいよ。この衡の工房内における最高セキュリティクリアランスに接触できるだけの幹部レベルさえあれば。その方が、私の稼業的にも助かるしね。」
「もしかしてキミ、お金の使い道に困ってる?」
「……ばか言わないで。殺し屋っていうのはそんな余裕無いんだよ。普段からスクロールだの霊薬だの魔術式だの購入するのにブラックマーケットに幾ら吸われてると思って。」
「僕としてはキミにブラックマーケットを使われちゃうと、連中を検挙しようにもできないんだけどねぇ……。」
「私を使わずとも天秤港の治安を維持できるようにすればいいんじゃない。」
「ひえ、耳が痛い。」
そんなことを嘯きながらも、表情は始終にこやかなまま、青年は一枚の用紙を少女に手渡す。そこには、青年が少女に調査を依頼したいグループのメンバーリストが記載されていた。
「……時計塔の工房? なんで鎖国状態の連中がわざわざ天秤港に来てんの?」
「どうにも、とある人物を追いかけているみたいでね。」
「工房内の災厄を処理するだけで手一杯の利権主義者たちが手に入れようとするナニカを持ってるって……こと?」
「さぁ? 『落錘部隊』からの報告では、『少女を追跡している』としか。」
「……『落錘部隊』の再編成を提案しておくよ。」
そう言い残し、少女は踵を返す。両手をロングコートのポケットに突っこんだまま、エレベーターホールへと歩き去っていく少女の背中に、青年は再び穏やかな口調で語り掛けた。
「キミがうちの工房に来てくれれば、本当に助かるんだけどねぇ。……アマネちゃん。」
少女はちらと青年の方に視線だけ向け、一言だけを残して、エレベーターに乗り込んでしまった。
「――ボクに、そんな資格はないよ。」
――災いは、地殻を突き破って訪れた。闇と泥と肉で覆われたその巨大な怪物は、腕の一振りで日本国の行政機能を停止させた。一声の咆哮で、首都圏の人口を激減させた。一睨みで、広大な平野に広がっていた文明を消し炭にした。
――そして救済は、ソラより降臨した。真白き光を放つ両翼を天空狭しと拡げ、怪物に襲い掛かった。救世の白竜が開門した、異次元への扉へと叩き堕とされた怪物が、二度と地上へ溢れ出さぬよう、それまで世界中に散らばり隠遁していた者たちが、極東の島国へと集結した。
「ま、待とう! な! 俺ら人間だぜ!? ま、魔術師が魔術を用いて人間を襲うのは、天秤港の法律で禁じられているじゃないか!」
「……礼讃武装を埋め込んでおいて、人間を名乗ってんじゃないよ。あんた、どこの所属? 『聖歌隊』? 『懺悔室』? それとも『教皇庁』?」
「チッ……お前、どこの誰かは知らねぇが、鐘楼機関の派閥を知っているヤツにロクな輩はいねぇ! 前言撤回だ、くたばりやがれ! 『主よ、憐れみ給え』――!」
ガンッ、と一撃の鈍い音。オレンジ色の燐光を銃口から揺らすハンドガンを手にした、竜尾のようなポニーテールの少女の足下に、男の死体がドサリと音を立てて崩れ落ちる。少女は何事もなかったかのような無表情でハンドガンのグリップに取り付けられた小型のダイヤルを弄ると、ハンドガンを身に纏うロングコートの内側へとしまい、物陰に向かって声をかける。
「いいよ、出てきても。」
天を衝く摩天楼の路地裏、人通りも少なく、薄暗いその細い裏道の曲がり角から、よく手入れされた鳶色の長髪を揺らす、ワンピースドレスのような服装の少女がゆっくりと顔を覗かせた。だが、その場に広がる惨状――複数人の男の死体が散乱する現場――を目にして、真っ青な面持ちで数歩後退してしまった。
「……せめて、感謝の言葉くらいは欲しかったな。」
「あ、貴方は……いえ、その……助けて戴き、厚く感謝致しますわ。わたくし、その……ええと……。」
「人の死体見るの、初めて?」
「初めてですわよっ!! いえ、そうではなく……ああもう、一体何がどうなっていますの!?」
「うわ、露骨なお嬢様口調。数百年前から来た?」
「そもそも――わたくしは何故この方々に追われていたのか、そして貴方が何者なのか、――増して。」
そこでいったんワンピースの少女は呼吸を整える。胸に手を当て、飛び跳ねる心臓が落ち着いたことを確認すると、ほとんど八つ当たりのような大声でポニーテールの少女に自らが置かれた現状をぶつけた。
「――ここがどこなのかすらも知りませんわ!!」
ロングコートの少女はそこからしばらく無言で周囲の様子を警戒していたが、数秒経過した後に、唐突に右手の指をパチンと鳴らしてみせた。すると、まるで流砂のように、その場に転がっていた男たちの死体が、塵となって消滅してしまった。
「じゃ、最初の疑問。君がどうしてこいつらに追われていたか。」
その言葉の直後、ポニーテールの少女は歩幅も大きく、ワンピースの少女の元へと迫り寄る。びくりと身体を震わせるワンピースの少女の事は一切気にも留めず、ポニーテールの少女はその襟元に手を突っ込み、彼女が身に着けていたペンダントを引き抜いて見せた。
「これ。」
「……それは亡き母の形見のペンダントです。それがいかがなさいました?」
「これ、外付けの魔力貯蔵庫。ただの人間が一流魔術師に匹敵する魔力を有することができるようになる、古代のアーティファクト。連中……時計塔の工房には、今や生きる魔術師はほとんどいないのに、魔力が無きゃ殺せない災厄が工房領域の中に蔓延してるから、こういう代物は喉から手が出るほど欲しいの。」
「――は?」
中心に瞳孔のような文様が浮かんでいる琥珀石を用いたペンダントを凝視し、ワンピースの少女は呆然とした表情を見せる。そんな少女の事などお構いなしに、「じゃ、次」と、ポニーテールの少女は次の疑問について回答した。
「――私は『影法師』。魔術師で殺し屋。」
ポニーテールの少女――『影法師』は、素っ気なく自己紹介を済ませると、ワンピースの少女が口にした最後の疑問について答えた。
「ここは衡の工房の工房領域、天秤港のサファイアリージョン12番ブロック。なに、記憶喪失にでもなったの?」
はぁ、と溜息交じりに尋ねる『影法師』に、ぽかんとした顔のまま棒立ちしていたワンピースの少女は、ハッと我に返ってその理由を説明した。
「わ、わたくしは『百々カナタ』と言いますわ! 改めて助けて戴きありがとうございます。わたくしは遠く長崎の地からこの『ルーインシティ』に来て……。その、申し上げにくいのですが……。わたくし、生まれてこの方、魔術についても、魔術師についても、ルーインシティについても何も教わらずに十七年間を歩んできましたの。」
「ああ、なるほど。田舎の成金娘ってこと。」
「言いがかりはやめてくださいまし! 百々の家は明治時代から続く海運貿易の家名でしてよ!」
「はいはい。明治なんてつい最近じゃないか。」
「魔術師は寿命が長いのかもしれませんけれど、明治時代はもう千年は昔ですわ!」
「え。」
「え?」
「――……いや、何でもない。確かに昔だった。あと、最近の魔術師は普通の人間と大して寿命は変わらないから。」
ワンピースの少女、カナタは『影法師』の発言に引っかかるような視線を向けたが、すぐにその状況は一変する。
「――伏せて。」
「えっ?」
唐突な命令口調に戸惑うカナタの頭を乱暴に握り掴むと、『影法師』は自身と共にカナタの体勢を低く押し込んで地に伏せさせた。
「きゃあ!」
甲高いカナタの悲鳴の直後、二人の背後の金属壁に亀裂が走り、まるで数トンもの鉄球が叩きつけられたかのように大きく陥没する。
「なっ、な、ななっ――!」
「いい、絶対にその状態のままじっとしてて。そうすれば君の命は絶対に私が守る。それが私の仕事だから。全部片付けてここから逃げたら、君に色々教えてあげるよ。」
ロングコートの内ポケットから二挺のハンドガンを取り出し、グリップのダイヤルを親指で軽く操作すると、路地裏の前後から接近してくる、濃紺の修道服を身に纏う男女の集団へと、それぞれ両手に握るハンドガンの銃口を向けた。
「……来なよ。ルーインシティ最強の魔術師が、ホンモノの魔術をお前らに見せてやる。」