第十一話:ヨルコと悪役令嬢
時は深夜、一人の生徒が魔導学園の寮自室から出てきた。
夜に溶け込むくすんだ赤色の髪に、小さな灯りに照らされて浮かび上がるそばかすだらけの素朴な顔立ち。
魔導学園一年生、ヨルコ=ルロワは自室の扉を閉めると忍び足で歩み出した。
今のヨルコは学園指定の高価な靴ではなく、歩きやすさを優先した自作の革張りの靴を履いている。摩擦の少ないその靴は、石の廊下、木の回廊を越えても足音を一つ漏らさない。
貴族の子女らも暮らす寮の建物は、有事のために夜も蝋燭の灯りは絶やされない。ゆらゆら揺れる明りで足元を確認しながら、ヨルコは星明りの差し込む窓をいくつもいくつも通り過ぎていく。
守衛の出歩く学院の庭からは体が見えないよう欄干を避け、口元を布で覆いながらゆっくり歩くことで蝋燭の灯りを派手に揺らめかせないよう気を遣う。
いつも背負っている巨大な鞄は今、両手でお腹に抱えこんでおり、その重さがヨルコの足取りを不要に急かさないことに一役買っていた。
息を詰まらせるような緊張の中歩き続けて数分。
階段を降り、寮の扉をゆっくり押し開けると、ヨルコの視界に目的の場所が見えた。
月明りの代わりに煌々と煌めく星空が照らす、学園の巨大な時計塔が寮の隣に立っている。
出てきた寮の裏口を閉め、芝の上を進んでいくと、やがて赤黒い土魔法造りの表面を持った、時計塔の真下にたどり着く。
ヨルコは一見壁にしか見えないその場所に、右手を載せた。
――合言葉を告げよ。
ヨルコの頭に、とても存在感の薄い声での問いの言葉が響いた。
事前にその問いがあることを聞いていなければ、気のせいとして聞き流していただろう言葉。
ここでするべき、言うべき言葉をヨルコは告げる。
「重ね合わせるものは揃った。王の勤めにに敬愛を」
――受諾した。
瞬間、ヨルコの右手がずぶり、と壁に沈み込んだ。
「ひゃっ!? 真昼ちゃん、こういう風になるのは聞いてないよもー、って、声っ!?」
声を上げてから、慌ててヨルコは背後を見渡す。
今、自分がしようとしていること、行こうとしている場所を誰かに見られていたらとてもまずい。
「いない……よね?」
ヨルコの目に映るのは、夜の闇に沈んだ魔導学園の威容と、真上に見える星空のみ。
誰かに視線を向けられているようには感じない。
「よし、セーフ。きっとセーフ」
小さく呟いて、ヨルコは時計塔の壁に体ごと突っ込む。
ぱちぱちと、火花のはぜるような音を聞きながらヨルコは全身で壁の中に飛び込んだ。
一瞬の静寂。一瞬の暗転。そして、どこかに沈んでいくような感覚。
何とも言えない奇妙な感覚が過ぎ去ると、ヨルコはどこか見覚えのない建物の中に立っていた。
石造りの地下室。
左右に続く永遠に続きそうな長い廊下の他には、ヨルコの目の前に一つだけ扉が用意されている。
木製の美しい扉だ。
蔓性植物をモチーフにしたと思しき色とりどりの彫刻が打ち付けられ、彫刻の中に混じる花の中からは灯りとなる魔法の光が漏れていた。
「ここ……だよね?」
ヨルコが恐る恐る扉のノッカーを叩くと、扉がひとりでに開いた。
扉の中には、とても落ち着いた調度の部屋が設えられていた。
日本基準で十畳と少しといった具合の広くもないが狭くもない広さ。
けれど、寒々しい廊下と対照的な暖色系の内装と、扉と似た意匠の植物モチーフで飾られた家具たち、そして自分を迎えるように立ち上がった小さな人影を見て、ヨルコは安堵の息を吐いた。
「いらっしゃい。夜子さん。入学式ぶりですね」
ヨルコより先に部屋についていた薄い青髪の少女が、日本語で語り掛けながら、笑顔でヨルコのところにやってくる。
「真昼ちゃん! あー良かった。この部屋で間違ってなかった」
「入り口はいくつかありますけど、間違いでたどり着けたら逆に凄いですよ。さあ、どうぞ。その大きな鞄はそちらの上に、机と椅子も広げてありますから座ってください」
「あ、ごめんね。やらせちゃって」
「いえいえ。ふふ、普段の立場だとこういう自分が動いての気遣いとかなかなかできませんからね。昔を思い出して、とても懐かしくなりました」
「伯爵令嬢様だもんねー」
見知った顔と出会い、緊張感から解放されたヨルコは二重の意味で肩の荷を下ろした。
今日はヨルコが魔導学園に入学してから初めての悪役令嬢会議の日だった。
入学式前、朝子と夜子がゴルドランス家の邸宅の一つで行った会議以来、おおよそ一か月ぶり会議である。
会議場については真昼が良い会議場所があるとこの地下の秘密の部屋を提案し、二人はそれを了承した。
結果として全総代として多忙の朝子は欠席となったが、それでも三人の二人が顔を合わせられれば、一月に一度程度、板一枚分の情報しか共有できない魔導板でのやり取りとは比べ物にならないほどの情報のやり取りができる。
簡単な近況のやり取りをしながら席の準備を終えると、二人は並んだ紅茶に手を付けるより早く、会議の議題に移った。
「それにしても朝子ちゃんだよ! もう! 悪役令嬢みたいなことしちゃ駄目だってずっと言ってたのに! ゲームのメイン攻略キャラとの婚約なんて最悪の破滅フラグだよ!」
「ええと、夜子さんはご婚約のこと、知らなかったんですか? この国の誰でも知っていることかと思ってましたけど」
「……そうなの?」
「うーん。夜子さんの出身領の領主は朝子さんのところとも私のところとも縁が薄かったですからね。もしかすると他の婚約者候補を立てていて、諦めきれていなかったんでしょうか」
今日の会議のメイン議題はヨルコの提示した「悪役令嬢破滅ルート回避についての再検討」だった。
今から一年ほど前、ヨルコが二人に語ったはずの「悪役令嬢=主人公と敵対=破滅」の図式だが、実はヨルコの拙い表現力では伝えきれていないのではないかという疑惑が朝子と王子の婚約の件で持ち上がったためである。
学園の授業では頭の良い弟分にフォローをされ、秀才の友人に教えを請いながらなんとかしているが、この前世に関する話は二人を頼れない。
前世でのゲーム経験ゼロの朝子と、乙女ゲームを良く知らないという真昼。
この二人に改めて悪役令嬢の危うさを教える役目は自分にしかできないのだ。
この世界にwikiがあれば、と嘆いたヨルコではあるが、そうもいっていられない。
「うーん。まあとにかく、一回婚約しちゃったら破棄するとそれはそれで危なそうだし、どこかにいるはずの主人公ちゃんが何とか金王子様ルートに入らないようにするしかないかな」
「となると、確かもう一方の、銀の騎士ルートに誘導するわけですね」
「うん。そのためにも早く主人公ちゃんが誰かを知らなくちゃいけないんだけど」
この世界の原型となると思しき「金の王子と銀の騎士」というゲーム本来の主人公捜索は行き詰っていた。
ヨルコは元より、全総代としてすべての生徒の情報を閲覧できる朝子も、独自のコネクションの多い真昼にもそれらしき女生徒は見つけられていない。
「客観的に見て一番怪しいとなると、ヨルコさんなんですが」
「そーなるよねー。一年生首席のヴィルとも仲良いし、色々目立つゼオンくんとも最近一緒にいるし。……あと、いかにも平民主人公っぽいイベントで、貴族のランポッサさんにも嫌われもしたし。でも」
”ヨルコ=ルロワ”はゲーム「金の王子都銀の騎士」の主人公キャラではない。
ヨルコはそれを絶対だと言い切ることができた。
「そう。製作者の名前がキャラにいたら興醒めする人がいるかもしれないから、わたしたちは絶対そんなことはしない。うん。わたしが抜けてたからって、チームがその不文律を破るなんてことはしない。irodoriさんが絶対に止めるし、あの人が嫌がったら絵はどうしようもなくなってゲームは完成しない。もしあるとすればそれは――」
「あ、ヨルコさん、ヨルコさん」
言い切れる理由について饒舌に語り出したヨルコ。
それを見て、真昼はヨルコの肩を叩き、言葉を切らせた。
「――ん、なあに? 真昼ちゃん」
「いえ、前に言いましたよね。前世でゲーム開発していたことは秘密にしておいた方が良いって」
「え? それって真昼ちゃん以外――要するに朝子ちゃんに言うなってことでしょ? その、”エイナ=ゴルドランス”というキャラクターを佐藤夜子が考えたという事実は朝子ちゃんのアイデンティティ? を歪めかねないとかなんとか。良く分かんなかったけど」
「そうですよ。今の自分っていうのはとっても大切なものなんですから。だから、私ともう一度約束です。今の貴女はゲームの製作陣yoruでも佐藤夜子でもありません。ヨルコ=ルロワ、良いですね?」
「え、わたし? うん、大丈夫。分かってるよ」
「なら大丈夫です」
にこにこ笑う真昼の良く分からない注意にヨルコは首をひねる。
けれど、分からないものを仕方ないとあきらめることについては、ヨルコはかなり慣れている方だった。
「まあ、いいか。あとは、わたしたちが悪役令嬢ムーブしてないかの確認だよね。この前朝子ちゃんにちゃんと聞けなかったんだけど、真昼ちゃんが取りまとめてきてくれてるんだよね?」
「はい。書類はこれです。ただその、ヨルコさん」
「なに?」
「気を確かにしてから読んでくださいね」
「え」
ヨルコは手のひらに収まる、数十枚ほどの紙束を手に凍り付いた。
「これ、なに? 真昼ちゃん」
「んー、私の方で調べた朝子さん、つまりエイナ=ゴルドランスの悪役令嬢ムーブの資料でしょうか」
「ええ!? いやでも、前に真昼ちゃんに会ったときにこんなもの渡さなかったよね!?」
「最後に会ったとき。つまり、火と土の国が滅亡してから色々情勢が変わったんですよ。有り体に言えば今の私はかなり色々な情報にアクセスできる立場にあるんですが」
「どんな内容なの! ええと、『退学となった生徒の魔法杖を目の前で足蹴にし、へし折って脅す』『学園入り口に現れた学園生徒の妹を名乗る人物にこの学園にあなたはふさわしくないと告げ、排除する』『一部生徒グループの学内権勢的失脚を目論む計画の首謀者』『平民出身新入生通称”印無し”を排斥する機運の向上および一年生間の敵対状態を作り出すための扇動工作』――ちょっと待って待って! これ本当に朝子ちゃんの資料!? 他の人と間違えてない!?」
ヨルコは混乱の極致にあった。
ヨルコの知る朝子は、たしかに手厳しいし毒舌なところもあるが、喜んで人を貶めるようなタイプには思えなかった。
しかも、まさに今自分が苦しんでいる一年生間の緊張――平民と貴族子弟間の不和の元凶が彼女であるなど、到底受け入れられるような情報ではない。
「落ち着いてください、ヨルコさん。見出しの方は悪役令嬢っぽさを分かりやすくするための表現にしてますが、中にちゃんと色々書いていますから。朝子さんは嫌われ者役も喜んで引き受けるタイプでかつ、騒乱の種をコントロールできるようにするためなら敢えて自分が騒乱の引き金を引いて強引に操れるようにするようなトップダウン志向が強い方というだけです」
「えと、つまり――どういうこと?」
「朝子さんは自分なりの正義を貫く、貴女が知っている優しい女の子だということです」
諭すように告げられた真昼の言葉に、ヨルコは安堵の息を漏らした。
「な、なあんだ。ならだいじょう――」
「いえ、だいじょばないのがとても不味いところなんですよ。朝子さんの内心や行動原理はどうあれ、その資料に書かれたことは全て事実なんですから」
その言葉に、再度ヨルコは資料を見る。
そこにはとてもとてもわかりやすい、悪役令嬢はこの子だよ! と訴えかけてくるような内容がつらつらと並んでいる。
「だから朝子ちゃん! それはだめな"フラグ"なんだって―――――――――――!」
いつだったか、朝子に招待された庭園で叫んだのと同じセリフを。
ヨルコは魂の底から叫んでいた。