第十話:ヨルコと魔法の授業
今日はヨルコにとって待ちに待った、魔法術実践の初日である。
魔法。
それはヨルコにとって二つの意味で憧れの技術だった。
ヨルコ=ルロワにとっての魔法は、恐ろしくも輝かしい、身近でありながらとても遠いものだった。
古の時代、魔物と呼ばれる異形の種たちが扱っていた邪悪な術。
それを人類が神の英知を借り、研究と実践を経て編みこんだ法則で管理するようになったものが魔法である。
土魔法を操る建築術師達が作成した大屋根の下の一角を住み家として暮らし、火魔法を操る薬術師の作る薬を口にし、光魔法で照らされた祭祀場で7歳を迎えた祝詞を賜る。
そんな、この世界ではごくごくありふれた経験がヨルコの魔法経験のほとんどであったが、かつて大魔法と呼ばれるものを見たこともあった。
それは、ヨルコの故郷で前代未聞の大雨の知らせが領主へ飛び、水魔法を操る水術師たちが、竜籠に乗って派遣されてきた時のこと。
彼らが到着したとき、住民たちのほとんどは家財全てを抱えた大鞄を抱えて高台に退避していた。
しかし、遂にはその高台にすら水が届かんとし、神への祈りむなしく大水に攫われる未来が目前に迫っていた。
ヨルコはその時、幼いヴィルヘルムを抱きしめ、涙ながらに声にならない叫びを上げていた。
そして、飛竜の力強い羽ばたきの音を聞き、見上げた先に彼等の乗った竜籠があったのだ。
顔を叩きつける大雨の中、吹きすさぶ風を切り裂いて彼らが唱和する水魔法の詠唱は高台の住民達の耳に届き、体を震わせ、心に火を灯した。
そして一流の水術師達の魔法は、そのまま一匹の巨大な水龍として顕現した。
家よりも太い胴体を渦巻かせて飛びたち、水龍はまず氾濫する川の濁流を飲み干しにかかった。
畑や家々を押しつぶしそうになっていた雨水も、天を流れる河となって空を進む水龍の頭上に集まっていく。
地を覆う水害は天に上り、凶悪な雨粒は水竜の口に吸い込まれていった。
そこに生み出された、何千本もの空中運河。
生まれて初めて見る魔法の水龍の威容。
そして、大水という大災をすら支配して見せるローブ姿の魔法使いたちの姿にヨルコはただただ圧倒された。
それは学のない、そしてそれが当たり前だと思っていた自分に、「魔法使いになりたい」と思わせるくらいの大きな経験だった。
ヨルコ=ルロワの前世、佐藤夜子にとっての魔法は、純粋な未知の奇跡にして、存在しないが故に夢と浪漫と、そして邪悪さや崇高さといったエッセンスを妄想してしまうものだった。
それは例えば、どのような不可能も可能にできる万能の術法であったり。
強大な敵を打ち砕く、現代兵器すら凌駕する破壊力の技であったり。
怪しげな悪魔等との契約で得られる、この世ならざる御業であったり。
系統だった術式があり、初級、中級、上級といった風に難易度が分かれ、すべてを身に着けるには膨大な勉強が必要だけれど才能如何でとんでもないものが最初から使えるような浪漫のある技術としてだったり。
佐藤夜子のイメージしていた魔法とこの世界の魔法とでは完全にイメージが一致するようなものではなかったが、多くの人間が習得可能な、特定の術理体系に沿って作られた不可能を可能にするための術法という認識は合致していた。
「そして今日私は初めてトライした魔法で盛大に失敗したのであった!」
「まあまあ、ヨルコ。本当の意味で初心者なのは貴族としての紋章無しの僕らだけなんだから……。次に頑張ろうよ」
自分はきっちり成功しておきながら気まずそうな表情をせずにこりと励ましてくる弟分に、ヨルコはため息をついて机に突っ伏した。
ちょうど授業終了を告げる神殿の鐘の音が響き、ただ一人今日の授業課題を達成できなかったヨルコをよそに、一年生たちが教室を出ていくところだった。
今日の授業終了を受け、先輩方との付き合いのある貴族子女たちはサロンへ、またある遊び好きのグループは入学式の祭りの熱気がまだ残る街へ、連れ立って演習場に向かう男達もいれば、大図書室へ向かう者もいる。
こうして、魔導学園の広い教室にヨルコとヴィルヘルムの二人が残された。
今日の授業の課題は、魔法用の杖を用いて何かしらの魔法現象を発現させること、ただそれだけ。
火魔法、水魔法、風魔法、土魔法といった基本元素魔法を使えるならそれで良し。
魔法剣魔法、魔法鎧魔法といった騎士用魔法を使えるならそれでも良し。
そういったものが使えない生徒たちは、”基本魔法”とひとくくりにされる、魔法を使う人間が最初に覚える「自分の魔力を自分の一番しっくりくる形に固めるだけの魔法」を使うように言われていた。
とはいえ、魔導学園に通う多くの貴族子女たちにとって魔法は、学校では習わずとも実家で家庭教師からであったり派閥の先輩であったりに稽古をつけてもらっているのが普通だ。
”基本魔法”だけしか使用しないことなど恥とばかりに、小さな火花がはじけ、氷が呼び出され、羽毛の竜巻が一瞬だけ舞い上がりと、様々な魔法がそこかしこで発動していた。
先ほどの授業自体、級友たちと自身の魔法学習歴や師事した家庭教師の格などを話のネタに雑談を繰り広げるただのコミュニケーションの場であり、同時に新たな友人を探す場としての雰囲気が強い。
逆に、先の授業で集中力を発揮し、何とか本日中に自身の手で初めての魔法を成功させようとしていたのは平民出身の者達だ。
しかし、今年度初入学の彼らのほとんどが高倍率の試験を突破した才児か金銭的なバックアップを多く受けられる立場にある者達である。
高性能な魔法発動補助具である杖すら使わずの魔法の発動が既に行え、普通ならば二年生以降で習うはずの火の小精霊を召喚して空を泳がせている者がいた。
高価な魔法の杖こそ生まれて初めて握ったが、それでも授業時間中に発動に成功させることに成功した者もいた。
明らかに使い込まれた自分用の杖を振るい、自身の魔力色で輝く”基本魔法”を確かめるように出したり消したりしている者もいた。
それらを横目に見ながらヨルコは杖を振り、呼吸を整えながら試行錯誤を重ねたのだが、どうもうまくいかなかったのだ。
「うぐ……もうちょっと頑張る。ヴィル、そのお手本良く見せて」
「良いよ、どうぞ」
授業開始後、教師の説明を黙って聞いたのち、初めて握った杖を使って瞬く間に基本魔法の発動に成功したヴィルヘルム=ルロワの正面には、月をかたどったと思われる真球が、彼の魔力色に染まって浮かんでいる。
実はヨルコの正面にも、似たように彼女の魔力で形成された手のひら大の小さなパネルが浮かんでいるのだが、残念なことにこのパネル、隣のヴィルヘルムを含め、他の生徒先生達の誰にも見えていなかったのである。
「おい、ヴィルヘルム。今日の授業で魔法が成功しなかったのはお前の姉だけだぞ」
二人だけしかいないかと思われた教室だったが、まだ残っている者がいたらしい。
ヨルコの背中から、最近聞きなれた声が聞こえてきた。
ヨルコとヴィルヘルムが振り返るとそこには、髪色と同じ灰のような金色の大きな馬が立っていた。
その馬形の基本魔法の上には、入学試験第二位の秀才、ゼオン=ルーダーが胡乱げな表情を浮かべて足を組んでいる。
基本魔法は術者以外には触れることはできず、地面から離すこともできないため応用性に乏しいが、ゼオンの馬のように、人が騎乗できるものとなると一気に実用性が増す。
ゼオンが首を叩くと、本物の馬のように鼻を鳴らした灰色の馬が消え、二人の真後ろの席に長身のゼオンが降り立った。
高い位置から見下ろされ、たじろぐヨルコの代わりにヴィルヘルムが応じる。
「あ、ゼオン。まあ大丈夫、ヨルコならそのうちできるから」
「そのうちで承知できるか。そこを代われ、ヴィルヘルム。俺が教える。お前は自分の能力は高いが、人に教えるということが下手なようだからな」
このゼオン、入学試験首席だったヴィルヘルムに事あるたびに絡みに来る。
制服に貴族としての”紋章無し”の平民上がりたちは貴族出身が大半を占める魔導学園では浮いた存在である。
魔導学園への平民入学自体を良く思わない生徒もいるからというのはあるが、それ以上に厄介なのは、彼ら紋章無したちが幼い頃から貴族社会を通じての派閥振り分けが一切行われていない闖入者であるという点である。
浮いた存在故、逆に自身の派閥に加えようとする動きは見られなくはないが、扱いに困る彼らと常に行動を共にするには面倒事も多いと思われたか、特に一年生においては貴族出身と紋章無しの境目は大きい。
ゼオンもそれを理解するが故、無駄に貴族の子女達に絡みにはいかず、繋がって価値のある繋がれる人間であるヴィルヘルムに絡みに行くわけだが、その結果としてこのように要領の悪いヨルコを要領の良いヴィルとゼオンが教えるという構図が入学以来早くも幾度か生じていた。
「いいか、どんな小さな虫頭でも分かるように言ってやる。最初の内は魔力を無駄に意識するな。自分は管だ。杖は出口だ。授業では全身に魔力を、とか頭を通すときは後頭部を、とか言っていたが全部無視しろ。あれは既に基本の魔力通しができている奴向けの解説だ。何をせずとも息をして心臓が動けば魔力は巡る」
「そうそう。お腹からすうっと一直線にいくようにこう、肩のところぐにゃっと流す感じというか。ぐっと力入れるんじゃなくてこう、中からふうっと」
「おい、ヴィルヘルム。神学の授業の時からうすうす思っていたが、この女の失敗は間違いなくお前も原因だ。……ええい、どうせなら寝転がってしまえ。背中を地面に付ければいやでも地面の魔力の流れに乗るし、無駄な意識は抜ける。ここは三階だが、”地面”という人間の意識があれば魔力は通っている。……この鞄はどけて構わないな?」
早くも一年の劣等生の分身と呼ばれ始めた巨大鞄は、魔導学園に持込鞄の規定がないことから誰に指摘されることもなく見逃されていたが、貴族の子女たちは勿論、ゼオンなどの紋章無し達にも煩わしく思われていたようだ。
「あ、ごめんねー、大丈夫。じゃあ、今日もお願い、ゼオンくん」
「ふん。まあ、素直なのはお前の美点だな。今日の対価は?」
「まひ……アヴィ先輩の好物の紅茶の銘柄でどう?」
「おそらく知っている情報だが……まあ情報の確度が上がるに越したことはない、良いだろう」
「あー、wikiとか無いもんねー、こっち。大変だ。じゃあサービスでゼオン君が子供の頃道場で憧れていたお姉さんの苗字でも」
「いや待て! なんでお前が知っている!? アヴィ様や全総代……エイナ=ゴルドランス様と謎の繋がりがあるとは聞いていたが、その情報源はどこだ!?」
「ヨルコは謎が多いんだよ、ゼオン」
「お前はそれでいいのか!? ヴィルヘルム!」
「そういえば、ゼオンくん。入学式の次の日、アヴィ先輩と会ったんだよね? どんな話したの?」
「いや待て! 今はお前の勉強の時間だ! 余計な口を開くな!」
「「えー」」
「お前らっ……!」
青筋立てて机をたたくゼオンと、笑い転げるルロワ姉弟。
それにめげず生真面目にヨルコの指導を始めるゼオンは、複雑な心境ながらも、決して悪い心地ではなかった。
だからだろうか。
「違う。まだ魔力の流れがまっすぐじゃない。左手の握りを解いてみろ。それと、お前たち」
「んー、何? ゼオンくん」「何だい、ゼオン?」
「……この一年、気をつけろよ」
思わずこぼれた一言は、ただただ二人の安否を慮るものだった。
「えー、それって授業の進度に? それとも人間関係? たしかにまだランポッサさんと仲直りできてないもんね……どうしたもんか」
「ん? あれ、ヨルコ。杖の先、光ってきたよ。静かで綺麗な色……」
「え? ヴィル本当? おーーーー、きたーーーー―――! 私の基本魔法、おいでませーっ!」
その後、一瞬だけ顕現したヨルコの基本魔術は、興奮したヨルコの魔力の過剰供給で破裂し、それを見たゼオンが再び頭を抱えることになるのだが。
それもまた、魔法を学ぶ学舎での平和な光景の一つだった。