訪問、後編
しかし相手はしつこかった。またぞろ次の日の夕方にやってきたのだ。
玄関の扉を開けて、洋子は顔色が変わった。
「あなた一体なんですか、私どもは興味ありませんから」
扉を閉めようとすると、男は身を乗り出して遮った。
「奥さん昨日はすみませんでした。説明だけでもさせて下さい。」
そう言うと、大きく頭を下げる。一瞬ひるんだ洋子に、男は二の句を続けた。
「申し遅れました。私は笹野幸司と申します。突然のことでやはり最初は戸惑うと思います。無理もありません。」
そういうとまた純真そうな笑顔になる。
「もうお察しかと思いますが、私はアーリャ真行教と言う新興宗教団体のものです。まだ設立して間もないですが、法人化も予定しております。ただ宗教法人法13条が定めるところのものとしては、審査基準というものがありましてね。なにせ三年分の収支報告書も必要なため、まだ法人格が取得できない状態なんです。」
なにやら難しい用語を使われて、洋子は反論できずにいる。すると笹野の目の色が妖しくなってきた。
「しかしですね奥さん、我々のマスターの教義は実に素晴らしいんです。マスターの教えに触れる前と後で、我々は受幸前と受幸後と言う風に区別をしています。代表であるマスターはわずか16歳の頃に神の啓示を受けました。啓示を受けたものはアーリャと呼ばれる霊能力を賜ります。マスターがアーリャを用いて空中に浮かぶ姿を見たくありませんか?奥さん」
常軌を逸している。洋子は思わずにじり寄る笹野を押し返した。
「帰って下さい!そんな胡散臭い話を信じるわけないでしょうが」
外に押し出された笹野は、ねじが切れたように動きを止めた。
「胡散臭い?」
笑顔は消えて、悲しみとも怒りともつかない輝きを目に宿している。
気味の悪さを感じながら、洋子は素早く施錠をした。
圭太が来て、心配そうにしばらく母親を見つめ、自室に戻っていった。
次の日の午後5時、洋子は近くのスーパー日村で、食材を袋に詰めていた。
「あら、今日は少し早いのね」ママ友の一人に声を掛けられて、苦笑いを返した。
「なんか昨日一昨日と変な宗教の勧誘が来てね。気味が悪いからさっさと家にこもろうと思って」
「やだなにそれ、気を付けないとね」
二三世間話を適当にして、店を出る。辺りは暗くなり寒さも際立ってきた。
薄暗くなった公園の角を曲がると家が見える。近くまで来ると、圭太と安菜の笑い声が漏れ聞こえる。
その時背後に人影を感じた。
「それはないでしょう奥さん」
はっとして振り返った。笹野が立っていた。
驚きで声が出ない。
「それはないですよ、私はあなたを救済しに来たんですよ?」
笹野は冷たく笑っている。
背筋が寒くなるのを感じた。
背を向け、玄関まで走ろうとしたが、腕を掴まれた。
「胡散臭いだと?」
眼が怒りで吊り上がっている。
鬼のようだと思った。
「放して!」
火事場の力で腕を振り払った。反動で笹野がしりもちをつく。
玄関口まで駆け込み、後ろを振り返ると、笹野が起き上がり、大ぶりのカッターナイフを取り出していた。
冗談じゃない。
扉を引っ張る。開かない。そうだ、鍵をかけていたんだ。
レジ袋は地に落ち、食材が転がる。
ポーチから鍵を探る。
あった、手に取ろうとした時、鍵が無情にも手を離れた。
後ろを見ると笹野が覆いかぶさろうとして来た。
もう駄目だ。目をつぶって頭を抱えたその時、鈍い音がした。
目の前で笹野が崩れ落ちる。
ひらけた視界に髪を染めた中年の男が映った。
夫の修平だ。
見たこともない怖い真剣な顔をして、木製のバットを手に肩で息をしている。
「大丈夫か洋子?」
地べたにへなっている洋子を抱き起そうと修平はしゃがみこんだ。
洋子は何か月かぶりに、夫の暖かいふところに抱き寄せられた。
笹野は病院に搬送され、治療後は警察の取り調べを受けることになった。
坂下家も被害者として事情聴取が待っている。
事件の夜、洋子は修平に聞いた。
「でもどうしてあなたは家の前に居たの?」
どうやら夫は圭太と秘密裏に連絡を取っていたらしい。事件前日の笹野の様子を怖がった圭太が「不審な人物が最近夕方に来てる」との主旨のメールを送ったのだ。
心配した修平は、仕事を早引きし、家の死角がらずっと様子を見ていたということだ。
洋子はなぜか修平をまともに見れなかった。普段の馬鹿夫とはかけ離れた雄姿に、年甲斐にもなくドキドキしてしまっている。
「お、もしかして惚れ直したか?」
茶化す夫に「馬鹿、調子に乗ってんじゃないわよ」とエルボーを食らわした。
おかげでいつもの空気に戻った。
そういうことで、次の日の土曜日の昼、早速夫は帰宅することになった。
荷物を持って玄関をくぐった修平を、洋子、圭太、安菜は並んでお迎えをする。
「なんだよ気持ち悪いなあ、照れるじゃねーか」
「おかえりー」
大声で修平にまとわりつく安菜が一番喜びを素直に表現している。
靴を脱ごうとした修平が、自分の置いていった革靴の中に、異物を見つけた。肌色の皮が少し欠けた豆だった。
「あ、あの不吉な豆だ。」
圭太がつぶやく。
「よし、じゃあ今度こそ残った邪気を追い払いましょう」
洋子が玄関の扉を開けて、安菜に豆を渡して耳打ちをした。
安菜は元気いっぱいの声で、こう叫びながら豆を外に放り投げた。
「鬼は外ー!」
豆の転がった外の光は、どこまでも明るく坂下家を照らしていた。