訪問、前編
「すいません、もうしませんので別居は許して下さい。」
土下座をして頭を床にこすり付けている男がいる。
坂下修平。40歳。流行のツーブロックヘアに細い眉毛、中年なのにどこか浮ついている。
浮気がばれたのは今回で3度目だ。
「そんな事しても駄目、約束は約束でしょ」
妻の洋子はもう怒り疲れて、感情をほとんど交えず言い放った。
「頼むよ洋子、一人なんて寂しいじゃん?」
いざり寄った修平はへらへらとしなを作って懇願する。
「は?ちょっとあんた本当に反省してるの?」
再び怒りに火が付く洋子を見て、修平はあきらめた。
3日後、修平は命の次に大事な洋服をまとめて、家を出て行った。
「ねえ、お父さんはどこ行っちゃったの? 」
6歳の安菜が洗い物をする洋子の袖を引っ張る。
「今お父さんは修行中なのよ、悪い事した罰ね罰」
手元を止めずに説明する洋子に、長男の圭太が叫んだ。
「え~父さんなんか反省してないんじゃない?パチンコで勝ったってライン来てたよ」
「は?」
手を止めて圭太のいるリビングまで走る洋子。
圭太のスマホを奪って画面をのぞくと、3枚の万札を手にする、満面の笑みの修平の写真が貼られていた。
「はあ、あの馬鹿もうどうしようもないわ」
あきれ果てた洋子は圭太に命じた。
「圭ちゃん、お父さんとの連絡はもう禁止。ラインもブロックしなさい。」
「え~」
口を尖らせる圭太だが、その不服の調子もどこか控えめだ。もう5年生にもなるので、今の状況を理解している。横で安菜は「なんでなんで~」とでんでん太鼓のように腕をぶらぶらさせているが、圭太は仕方なく母親の言う通りにした。
これで反省して元の家族に戻ってくれたら万歳だ。
父と連絡を止めて、更に3日が過ぎた。2月3日。節分の日だ。
夕食にスーパーで買って来た恵方巻を食べながら、母親が後で豆まきをしようと提案した。
丁度テレビでは、節分の由来について報じていた。豆撒きは1420年頃から続く邪気払いの儀式であり、葛飾北斎の浮世絵にもその様子が描かれていたと言う。長袴を着た武家の者らしき男が、爪の尖った鬼に豆をぶつけているその絵が画面に映る。
古い絵だった。
紙の日焼けととも言うべきか、経年のせいで薄茶色に変色している。その為か、まがまがしい姿をしたその鬼の姿も、圭太の目には余計に不気味に映った。
うずくまる鬼の目は、言いようがなく悲しみをたたえているようにも見えるが、この鬼が怒った時は、武家の者はどうなってしまうのだろう。
「ごちそうさま!」
安菜の無邪気な声で、圭太は現実に引き戻された。
「じゃ、豆撒きしましょっか」
母の洋子が音頭をとった。安菜が嬉しそうにはしゃいでいる。玄関まで行くと、扉を開けっぱなしにした。
「はいじゃあ豆を持って~、鬼は外~」
洋子が掛け声を上げて豆を外に放ると、安菜も続く。圭太の声はどこか遠慮気味だ。近頃この手の行事にはどこか気恥ずかしさがこもるようになってきた。これがテレビで言っていた思春期の前触れなんだろうか。
「はーい、じゃあ今度は外に行って家の中に投げるわよ」
「はーい、福は内~」
わざと棒読みのような調子で圭太は投げる。
と、安菜が黄色い声でこう続けた。
「鬼は内~」
放られた豆は家の中の土間を越して玄関ホールまで散らばった。
「あはは、安菜違うわよ、福は内ね、福よ福」
優しく教える母親をしり目に、圭太は先ほどの浮世絵の鬼が頭に浮かんでいた。
家に入った豆を、もう一度全て拾い外に放りたい気が、なぜかした。
それは突然にやってきた。
夕方、家の前で圭太と安菜が遊んでいると、厚い冊子を脇に抱えた色白の青年が声をかけてきた。
「こんにちわ、かわいいねお嬢ちゃん」
黒のズボンに黒のロングコートといういで立ちが余計に白い肌を強調させている。
「なんですか?」
圭太が疑問を口にすると、その白皙の青年は子供のような笑顔を見せた。
「ちょっとお話があってね。お父さんかお母さんはいる?」
圭太が答えを考えていると、安菜が開けっぴろげに答えた。
「えっとね~、お父さんは出て行ったよ、喧嘩して。お母さんはお買い物」
そうすると、青年は自分の体をどこか痛めたような顔をして、
「そうなんだ、それは悲しいねえ。お父さん帰ってくるといいねえ」
と安菜の頭を撫でた。
その時、向え隣りに住むおばさんが通りかかり、割って入ってきた。
「あら、坂下さんのお家になんか用ですか?」
警戒をあらわにした詰問に、青年は大げさにかぶりを振り、
「いえいえ、親御さんにちょっと生活のことでお伺いできたらと思いましてね。ではまたきます」
と、慇懃な一礼をして大通りの方面に去っていった。
「あら、何かしらねえ」
まだ訝し気な表情のおばさんに礼を言って、圭太は安菜を促して家で遊ぶことにした。
坂下家は次の日もその男を見ることになった。
昨日よりも少し遅く時間をずらして、今度はチャイムを鳴らしての訪問だった。今日は家に居た母親が玄関に向かう。
「どうも、こんにちわ、いやこんばんわですかね」
例の子供っぽい笑顔で青年が挨拶をする。後ろから覗く圭太が情報を与えた。
「お母さんこの人昨日も来てたよ」
圭太と青年の顔を見比べて母親が続ける。
「あら、それはどうも。なんのご用件でしょうか」
笑みを顔に張り付けた青年は、こう切り出した。
「奥さん、あなた方の人生は今本当の姿と言えますか?」
「はい?」
突拍子もない質問に洋子は思わず眉をしかめた。
「いえ、本当の姿と言ってもですね、いわゆるこの世の物がプラトンの唱える仮象であるとかそういうことではないんです。我々は本来もっと俗世の苦悩やくびきから解放された精神で一歩高いステージの生活ができるはずなんです。ではなぜそのような様態を手にできないのでしょうか。それは一つしかありません。我々のマスターの教義を知らないからですよ、奥さん。」
そうして青年は脇に抱えた冊子の表紙を見せるように持ち直した。金の箔押しで、「アーリャ真行教」と題されているのが見えた。
洋子は全てを察して、慌てて遮断に移った。
「あはは、あのすいません、もうすぐ主人が帰ってくるので夕食の支度で追われてますの」
そう言って退去を促すと、青年はわざとらしく首を傾けた。
「あれ、おかしいですね。今ご主人は別居中と聞いておりますが? 」
洋子が思わず後ろにいた圭太の顔を見る。圭太は首を振ってリビングの安菜を指刺した。言ったのは僕じゃないよと。
「あの、とにかく時間がありませんのでお帰り下さい。」毅然とした態度になるようにはっきり言うと、青年は、
「なるほど、わかりました。今日は失礼します」と笑顔のまま引き下がった。
すぐに扉を閉めて、洋子は安堵の溜息をついた。時刻は午後6時を回ったところだった。