ペスは賢くかわゆくカッコいい
人間、誰しも幼い頃は前世の記憶があるという。
幼い頃は大人に見えないものが見えて、誰も知らないはずのことを知っていて、それらのものを成長と共に置き去りにしていってしまうのだという。
それは前世が偉大な力を持つ魔女であり、今世は孤児院育ちとなった少女も変わらなかったのだと思う。
その少女には生まれてきてから、ずっと何か違和感があった。
もちろん彼女には、前世の記憶などなかった。前世で培った大いなる知識などきれいさっぱり忘れたまっさらな赤子として生まれ、割と普通の子供として育った。
それでも、少女はいつだって何かを探していた。自意識も曖昧な子供の思考能力ではそれがなにかわからなかった。ただ、自分が仕えるべき存在がある気がした。
だから、探していた。
少女の魂には、輪廻転生を経ても洗い流されることない愛がこびりついていたのだ。
自分が奉仕しなければいけない存在がいるような気がした。一生を費やして、無償の愛でもってこの身をささげなければいけない何かがいるはずだった。
なのに、生まれた時からそれが欠けていた。
それがなんだかわからなくて、生まれて幾ばくも経っていない彼女はあちこち自分の弱弱しい体にも構わずハイハイをして這いずり回り、歩けるようになっては何かを探して歩き回り、走れるようになってからはとにかくあちこち駆けまわった。
そして少女はある日、その名称を思い出したのだ。
猫。
猫がいないのだ。
生まれてこの方いままで一度だって見たことがないのに、それが何なのか、少女はなぜか理解していた。
猫とはすなわち、世界で一番かわいい動物だ。
ふにゅふにゅして柔らかく、それでいてふかふかしていて温かく、自由気ままでにゃーんと鳴く。ふわっふわでぐにゃぐにゃでぽかぽかもふもふする、世界で一番愛らしい生物を少女は生まれながらに愛し、探し求めていたのだ。
だが、少女が生まれたそこに『猫』はいなかった。
猫がいない。
この世とは思えなかった。
少女は絶望した。
なんで猫がいないのだろうか。わからないから、幼い頃の少女は泣いていた。びーびー泣き叫んでは施設の大人たちに構われていた。
生まれ変わった彼女の精神と魂には猫への愛が詰まっていた。
だというのに、どの大人に猫の所在を聞いても困ったような顔で首をひねるばかりなのだ。猫なんて生物はいないと、不思議そうに戸惑うのだ。
猫とは、家族だ。
孤児院で育った少女には家族なんているはずもなかった。つまり少女にとってはおぼろげながら魂に残った猫の記憶こそが家族の記憶だった。少女にとって、家族とは猫だった。
なのに、猫がいないのだ。
なぁーん、なぁーんと泣く声にすわ子猫の鳴き声かと思って近づけば、それは新入りの赤ん坊の泣き声だった。それでも求める猫の鳴き声とよく似ていたのでせっせと世話をしていたら、施設の大人にはよく褒められ、施設のちびたちにも好かれた。
そんなこんなして孤児院で育ちながら、少女が十歳になった頃だった。
猫みたいに鳴く赤子の世話をし過ぎて、もはやこの少女は放っておいても問題なし、むしろ施設の戦力の一人と判断された少女は、とある面接現場を発見した。
それは、孤児を引きたりたいと申し出る人物に対する聞き取り調査だった。
「あ、私のこと、ご存じなんですか」
「もちろんです! 『飢狼の魔女』と言えば、とても有名じゃないですか!」
「えへへ、照れます」
少しだけ空いた扉からのぞき見すると、この施設の中でも生真面目と評判の若手職員と若い女性が面談をしていた。
「なるほど。施設の子供を弟子にとりたい、ということなのですね」
「はい。お金もたまりましたし、少し腰を据えて魔法の研究をしようと思っていまして。そのついで、と言ってはなんですけれども、弟子を取ろうと思ったんです」
「そういう事情でしたら、ある程度、歳のいったこの方がよろしいでしょうか」
「そうですね。十歳前後の子で希望者がいれば――」
「――はい!」
聞き耳を立てていた少女は割って入った。
突然の入室に施設のお姉さんと魔女さんは驚いていた。
少女は構わずに魔女さんに詰め寄って尋ねた。
「あなた、魔女ですか?」
「うん、そうだよ」
「わたし、魔女に、なります」
少女が自称魔女さんにそう申し出た理由は簡単だった。
魔女の弟子になったら魔法が使えるようになる。
というのはどうでもよかった。心の底からどうでもよかった。
魔女と言えば猫だ。魔女と名乗るくらいなんだから猫を使い魔にしているに決まっている。
そうに違いないと少女は思い込んだ。少女は魔法について何にも知らなかったが、猫に関する知識だけは豊富だった。前世の自分のことはさっぱりだったが、猫に関連する知識だけは魂にこびりついていたのだ。
でも念のため、しっかり確認しておくことにした。
「師匠のおうちに、猫は、いますか?」
「ねこ? ねこってなぁに?」
「こんなん、です!」
さりげなく師匠呼びをしたちゃっかりしている少女は猫の絵を描いた渾身の一作を取り出す。
それを見て魔女さんは、おおっと手を打った。
「おお、なるほど」
少女が書いた子供らしいへたくそな絵を見た魔女さんは、やさしく微笑んだ。
「わたしの家にもいるよ。魔女は、動物を使い魔にすることもあるからね。うちの子はとっても賢いから、きっと君とも仲良くなれるよ!」
魔女さんが安請いした時の少女の喜びは表現できない。
とても、とても嬉しかったのだ。自分が生まれてきたのはその日のためだったと、たった十年の人生でそこまで断じるほどに有頂天になった。
だから少女は、二人のやり取りをあまりにも不安そうな顔で見つめる若手職員さんの心配も気にしていなかった。究極、猫さえいれば三食宿なしでも構わないとすら思っていた。猫という湯たんぽさえあれば、冬の野ざらしでも心は温かいと確信していた。
だからこそ、裏切りは絶大だった。
「さあ、この子が君のお待ちかねの子だよ」
手続きを済ませて引き取られたその日、師匠が紹介した生き物は、初めて出会う少女に対してちぎれんばかりにしっぽを振っていた。人懐っこくじゃれついて、ぺろぺろと頬をなめてきた。肩に前足を乗せて伸びあがった体は、十歳児の少女よりおっきかった。
「あはは。さっそく歓迎してくれたね。この子の名前はぺスだよ」
「ぺス……」
呆然自失な少女がおうむがえしに名前を呼ぶと、ぺスは行儀良くもお座りをした。そしてわんっ、と鳴いてきらっきらのつぶらな瞳を少女に向けた。
そんな少女の様子を、魔女さんはにこにこしながら見つめていた。
「けど『ねこ』なんて、どこで名称を間違って覚えたのかな? この子みたいな生き物は『いぬ』って言って――」
魔女さんが何かを言い切る前に、少女は全身のバネを使って跳ね上がり、怒りパワーを上乗せした昇竜の拳を魔女さんのあごに向かって振り上げた。
「にゃんこじゃなくてわんこじゃーねえですかぁ!! よくもだましたなぁあああああああああああ!」
「うぼぅ!?」
猫に会えると思って犬を紹介されたことでぶっちぎれた少女は、迷いなく自分の師匠兼保護者になる魔女さんを一撃で昏倒させた。
倒れた魔女さんに向かってしばらく「ふしゅるるるぅ!」と人間にあるまじき怒りの威嚇音を吐いていたが、やがて悲しみに囚われた。
猫が、いないのだ。
猫と会えると思って魔女に弟子入りしたら、まさかの大型犬である。こんなひどい詐欺に騙されたのは初めてで、少女の心は傷ついた。
その場にうずくまってしくしくと泣いていると、大型犬が傍によって来た。
「ぺス……?」
ペスはぐりぐりと顔を寄せ、うずくまって泣いている少女の頬に流れる涙をぺろりとなめとった。
温かい舌の感触に、少女は心を打たれた。
ペスは猫ではない。だがいい犬だ。いい犬は、いいものなのだ。
少女はペスのもふもふした首筋に、ぎゅっと腕を回して顔をうずくめる。長毛種のペスの毛皮はよくブラッシングしてあり、もふもふの極みだった。
「ペス。お前は、いい子だね。この、クソ詐欺師みたいな飼い主のもとにいるとは思えないほど、いい子だね」
後ろでぴくぴく痙攣している魔女さんが聞いたら、いろいろ言いたいことはあっただろう。
だが不幸なことに、名乗ることすらできなかった魔女さんは完全に意識を失っていた。
「ペス。わたし、旅に、出るよ」
若干十歳の少女は、涙をぬぐって決意する。
これから旅に出るのだ。
猫のいない町は、もう耐えられなかった。
だから猫を探す旅を始めるのだ。
きっと、この世界のどこかにいるはずの猫を探すために。
「ペス。この町でお前と会えたことだけは、素敵な思い出だったよ。ありがとう」
くぅんと鳴いたペスが、犬用の扉を通って魔女さんの家に一旦入る。そして、すぐに少女のもとに戻って来た。
その口には、リードとお散歩セットの入ったポーチがくわえられていた。
「一緒に、来てくれるの?」
「わんっ!」
はっはっと口を開けて息を吐きながら、ペスはパタパタとしっぽを振っていた。
心強い旅の連れができた。少女はいそいそとペスの首輪にリードを装着。お散歩セットの入ったポーチをたすき掛けに装備する。
「私の名前は、ニーナだよ」
「わんっ!」
賢い大型犬のぺスは尻尾を振って吠えた。
散歩に連れて行ってもらえると思っているぺスのテンションは高かった。
「一緒に行こう、ペス。わんにゃんは、尊いんだよ。わたしは、お前と猫がわんにゃんする様子を、見たい」
「わん!」
ニーナはしっかりとリードを握り、一歩前へ。大いなる旅を始めた。
どこからどう見ても、幼い少女による微笑ましい犬の散歩風景だった。
罪を憎んで犬を憎まず