そうして魔女は死んだ
森の深くのある場所で、いままさに力ある魔女の命が尽きようとしていた。
「師匠。どうして、延命を拒むのですか……!」
森の中にある丸太づくりの家の中。
寝台の上で穏やかに命を終わらせていようとしているのは、年老いた魔女だ。彼女の死を悟ってか、それともただ彼女が寝ている寝台が日当たりのいい場所だからか。家で飼っている猫たちが集まり、老魔女に寄りそっていた。
そんな老魔女の死に際。悔しそうに顔を歪めているのは、まだ幼いと言っていいほど若い少女だった。
「師匠ほどの力がある魔女だったら、生命操作くらい簡単なはずです。今からだって、かつての若さを得るくらいなんてことないはずです!」
「いいえ、弟子よ。私はもう、満足したのです」
悲痛な声で訴える少女に対し、老熟した魔女は穏やかに微笑んで首を横に振った。
「私は十分に生きました。いままで数多くの猫を育て、同じほどに看取ってきて、少し、疲れたのです。あなたのような弟子を残し、いまも多くの猫に囲まれています。思い残すことは、この猫たちの世話くらいなものですが……それは、あなたが面倒を見てくれるでしょう?」
「それは、もちろん!」
その昔、外で猫がにゃーにゃー鳴いてると思ったら赤ん坊が捨てられていたという面白エピソードで老魔女に拾われ、弟子になった少女である。
もちろんここにいるすべての猫を引き取って全力でかわいがるが、それとこれとは話が別だった。
「師匠が満足でも、わたしは師匠に死んでほしくありませんッ。それに師匠ほど力のある魔女がいなくなってしまったら、いまの魔女界隈で引き起こされている争いが――『わんにゃん戦争』に歯止めが利かなくなりますよ!」
「そうですね……」
弟子の言葉を憂いに、老魔女はそっと瞼をおろした。
わんにゃん戦争。それは動物を使い魔とする魔女の間で勃発した大いなる戦争だった。
犬派か、猫派か。
使い魔としての優秀さと、何よりペットとしてのかわいさを争い、魔女界隈で未曽有の争いが起こり、世界は真っ二つに割れていた。
その愚かさを、老魔女は憂いていた。
「いいですか、弟子よ。わんことにゃんこに貴賤などありません。あるのは、その人間がどちらをより好きか。つまり、人の愛情の差異にほかなりません。わんこはわんこでよいものであり、にゃんこはすべてが素晴らしい存在です。好き嫌いは、優劣ではないのです。そこを履き違えてはなりません」
「でも、でも……!」
穏やかに言い聞かせる老魔女に、まだ若い弟子は納得できなかった。
「わたしは認められないんです! 犬の方が頭がいいだの従順だからかわいいだの名前を呼べば傍によってくれるんだぞへへーんとか自慢げにして来る奴らが許せないんです! 猫の魅力を理解しようともしない愚昧な奴らがっ、猫のかわいらしさをないがしろにする犬派の奴らが、憎いんです! 滅ぼしてやりたいんです!」
「落ち着きなさい、弟子よ。犬がかわいい。それはそれでいいではありませんか……。実際、犬はかわいいのですから」
猫への愛をあふれさせるばかりに犬派を憎むようになってしまった弟子の頭を、老魔女はゆっくりと撫でる。
「いいですか。生きとし生けるものは、だいたい人間よりかわいいのです。人を見るのではありません。人以外を見なさい。人以外の生物は、あまりにもかわいらしく、言葉では言い表せぬほどかっこよく、息を飲むほど素敵であり、ありとあらゆる魅力に満ち溢れています。その魅力の前に、人の愚かさなど些細なものです」
たまに勘違いしている人間もいるが、猫好きの多くは犬も好きだ。ちょこまかした小型犬をわふわふ感も好きならば、大型犬のもふもふ具合だって大好きだ。ぴょんぴょんするウサギも好きだ。ちまっとしたハムスターも好きだ。哺乳類の小動物はだいたい好きだ。鳥類も好きだ。小鳥の愛らしさには頬が緩むし、猛禽類とかすごくカッコよくてドキドキする。猫好きと動物好きはイコールに結ばれることが多いし、爬虫類や魚類も魅力的だ。彼らのひんやりしたすべすべ感とか、ぺたっとした感じが大好きだ。手足のない系統も一本筋が通ったうねうね感がたまらないし、大型爬虫類特有のクールな顔つきとか素敵だ。ごつごつした鱗をもつ種類に至っては、幻想的な魅力にあふれて憧れる。
何をどうしたところで猫が一番好きなので、すべてのかわいさとカッコよさの頂点に猫がいると断じてはばからないのが猫好きではあるが、それでも他の生き物の魅力を否定するわけではないのだ。
「よくわからないのは、虫派だけです。あれは、よくわかりません。謎です。虫派だけは彼らの世界に生きていますが……それでも、争うのは愚かです」
虫好きは虫には虫にしかない機能美、社会性、フォルム、生体が美しいと言うが、老魔女をしてさっぱりわからない領分である。彼らは彼らで、虫なんて餌じゃんという爬虫類派と時々抗争をしている。
「だから、愚かな争いは止めなさい。私は、争いは嫌いです」
「でも、師匠……。犬派の奴らは、いつだって猫派を貶めます。『猫派ってあれでしょ? 潜在的にマゾなんでしょ? ペットのパシリになりたいんだったらさぁ、ついでにあたしのパン買ってきてよぉ』とか言ってくるんです! 向こうから見くだして来る奴と分かり合うなんて、無理です!」
「それは一部の心卑しい犬派だけです。犬派を嫌うあまり、犬のかわいらしさを認めないのは、あまりにももったいないことです」
老魔女は、自分に残った少ない生命力を振り絞って、憎しみに囚われている弟子に言い聞かせる。
「いいですか。犬派と猫派は、手を取り合わなければなりません。犬と猫は、争ってはいけないのです」
「なぜ、なぜですか……。あんな奴らとは、未来永劫わかり合える気がしません! いくら師匠の遺言でも聞けません……!」
「なぜ、ですか」
老魔女はカッと目を見開いた。
「だって猫と犬がわんにゃんしている光景は尊いではないですか!」
自分の残り少ない生命力を燃やし、老魔女は体を起き上がらせる。
命が急速に燃え尽きていくが、構わなかった。いまから演説する内容は、それほどに力強く語らねばならなかった。
「大型犬が子猫とおっかなびっくり接する様子や、体格が似ている猫と小型犬の仲睦まじい様子がどれだけ世界の平和に貢献していることか……! いいえ、わんにゃんだけではありませんッ。動物たちの異種族交流はいつだって心温まる感動的なものなのです! それを、人間の争いで引き裂くなどぐふう」
「師匠? 師匠……! ししょー! うわーん! ししょうがしんだー!」
力説する途中で、残り少なかった生命力を使い果たした老魔女は天寿を全うした。
死はいつだって唐突なものである。びーびーと泣く弟子と、にゃーにゃーと鳴く猫に囲まれ、偉大な力を持った老魔女は死んだ。
享年八十八歳。寿命をいじらなかったにしては長生きであり、大往生だった。