私筆將星列傳 武興伝
この伝記はフィクションです。
信用できない文献は引用しないようにしましょう。
武興は豫州穎川の人であり、字を安国という。
若い頃に父が孔氏に乞われ臣として仕えることになると、家族と共に武興もこれに付き従った。
それからほどなくして父が没した際、葬儀の後に孔氏が、
「あなたの父には大変世話になった。礼に則って喪に服すのであれば、その間の面倒は全て任せてもらいたい」
と言うと、武興は、
「父の功への報いはその言葉だけで充分です。我が家の面倒は、私が父に代わって片づけなければなりませんから」
と答えた。
いたく感心した孔氏は、まだ若い武興を下の息子の側仕えとして任ずることにした。
孔氏が死ぬと、武興が仕えていた孔融は喪に服し、ひっそりと暮らすようになった。
そのため暇を取らされた武興であったが、事あるごとに孔融の家を訪れては弱り切った孔融の身の回りの世話を買って出たという。
ある時、同郷の士が武興に訊ねた。
「安国は父の遺志を継いで孔氏に仕えているが、より良い君子を求めて身を立てようとは思わないのか」
すると武興は、
「私は父と違い文治の才には恵まれず、深謀遠慮も趣味ではない。誇れると言えばこの独活のような上背と父祖譲りの実直さ、そして孔氏の縁戚に連なる安国という字ぐらいだ」
と答えた。
その話を聞いて、武興の忠義に感心しないものはいなかったという。
董卓が権勢を振るい、それに対して連合軍が結成されると、武興も孔融について従軍した。
虎牢関を守る飛将呂布が奮迅の働きを見せると、武興はこれに応じて矛を交えた。
数十合交えて勝負が付かず、引き鐘が鳴らされたところで横合いから張飛が飛び込んできた。
呂布が振り向きざまに張飛の脳天を叩き割ろうとしたところで、武興が片腕を犠牲にして張飛は九死に一生を得た。
そこへ関羽と劉備が駆けてきたので、呂布はそれ以上の追撃をせずに引き揚げて行った。
片腕を失った武興に対し、劉備が頭を下げようとすると、武興はそれを止め、
「腕を失ったのは力が足りなかったからで、あなたに頭を下げてもらう為ではない。是が非でもというのならばそれは我が主孔文挙へ下げてもらうべきだが、我が主はそれを望まないだろう」
と答えた。
それを聞いた関羽はいたく感じ入り、武興こそ四海第一の武人であると絶賛した。
後に呂布は、
「残念だ。武興が片腕となって、俺は武において無人の野を往くばかりだ」
と嘆いたという。
戦後、片腕となった武興が主君へ暇乞いを願い出ると、孔融はこれを引き留めようとした。
「安国は片腕となってもなお、我が最も頼りとする忠臣である。果たしてなにを考えて我が下より去ろうとするのか」
「見ての通り、私は武人としては片腕の半端者となった者です。であれば、失った腕の代わりに主君を補う新たな腕を修めたいのです」
最終的には孔融が折れ、武興は昔馴染みの伝手を頼り、文官としての腕を磨くこととなった。
名門の出自とは言えない武興が頼ったのは同郷の友である。
既に主君を得ていた彼は、心から武興を歓迎した。
持ち前の整った顔立ちから主君に顔良と渾名されていた彼は、いわゆる前線指揮官の任に就いていた。
彼は確かに優れた前線指揮官ではあったのだが、その本領は内政にあると自負していた。
彼は、武興を推挙する事で前線指揮官の任を武興に任せ、自らは内政官へと転任できないかと考えたのだ。
政を学ばせて貰う条件として武興はそれを承諾したが、一つの注文をつけた。
「武安国の主君は生涯孔文挙ただ一人であるから、姓名は伏せさせて欲しい」
顔良はこれを承諾し、彼を主君へと推挙した。
身分にうるさい主君ではあったが、顔良の推挙であればとこれを快諾し、事情を聞いて武興に文醜の名を与えた。
隻腕を苦としない武興の剛勇は事実それより不敗を誇り、念願叶わず前線に居続けた顔良と共に、二枚看板として威を轟かせたのである。
後の官渡戦役において顔良と文醜は関羽により討ち取られた、と伝えられてはいるが、事実は彼らが華北の雄たる主君の元を辞去し、元の名を使い始めただけのことである。
もっとも、顔良のそれを仲介したのは当時曹操の禄を食んでいた関羽であるため、ある意味正しいとも言えるが。
武興が孔融の下へ帰参すると、孔融は諸手を挙げてそれを歓迎した。
武興が感じ入りながらも、
「私などにそのようになされるのは、礼を重んじる君子らしくない振る舞いではありませぬか」
と諫めると、孔融は、
「離れた片腕が帰ってきたのを、残された我が身で迎えることに何の憚りがあろうか」
と応えた。
その言葉に、安国本人はもとより話を耳にした全ての者で感心しない者はなかったという。
時は流れ、北は曹操が中原をあまねく治めようかと言う頃、孔融は曹操へと下り武興もまたそれに付き従っていた。
ある時孔融は安国にこう言った。
「もしも我が身に有事があったとて、菩提を弔うに及ばず、後追いなどはもってのほかである」
「我が君あらざれば我が道行きは月のない夜のようなもの」
と武興が応えると孔融は苦笑して、
「であれば、日が昇るまではゆるりと寝ていればよい」
と返した。
やがて孔融が没すると、武興は曹操の強い招聘を固辞して隠遁生活を送ることとなる。
天を衝くような偉丈夫である武興だが、かつて呂布に切り落とされた片腕の影響は小さくなかった。
野山で獣を追う暮らしをするにも、弓が引けないのである。
そこで武興は、優れた技術を持つという黄家を頼ることにした。
黄家の主は話を聞くと、大きく頷いてあるものを武興へと引き渡そうとした。
「これは、我が娘婿が考案した弩というもので、これならば片腕でも矢を放つことが出来るだろう。ただし君ほどの力がなければ持ち上げることすら出来ない代物だが」
それは確かに片腕の武興でも弦を引き矢を放つ事ができたが、主の話によれば制作者である娘婿の意向で、身内に限ってのみ譲渡できる品なのだという。
「そこで相談だが、そちらが良ければ君を我が一門として迎え入れたいと思う。無論、これは君の人柄を見込んでの私の独断ゆえ、姻戚などは無用にて構わない」
かくて武興はこれを受け、以後は黄家としての姓名、黄忠を名乗ることになったのである。
武興は機を得て長沙の韓玄のもと、隻腕の不利をものともせぬ剛力と片腕で振るう弩の狙いの巧みさで武官として仕えるようになっていた。
黄姓は荊州大夫の姓であるものの、経歴を定かとしなかった彼は不具も重なり重用はされなかったが、それでも善政を敷いていた太守に対しては明確に敬意と忠義を持ち合わせていた。
「太守殿は、軍事に理解が足りぬ」
当時、安国と同様に長沙の録を食んでいた客将の一人が、彼にこのような言葉を投げかけたことがある。対して武興曰く、
「いやいや、太守殿は自らが軍政に向かぬと理解しているからこそ、それを補うべく政に心を砕いておられるのだ」
やがて長沙が南下した劉備軍に降ると、武興もまたそれに仕え軍務に当たることとなった。
劉備と孔融はかつて魏公の下で交友があり、安国もまた彼とは既知の間柄てある。劉備ははじめ武興を、劉備が苦手とする礼法の指南役として側に仕えさせようとした。
「文挙殿の下にいた安国殿のように、漢升も我が隣に侍り備えてはもらえないだろうか」
「かつての主君は儒学の礼法を究められておりましたので、非才の我が身でも武でそれを補う役目を担うことができました。
我が君は乱世においても大徳を持ち合わせており、叔至殿がそれを支えております。私などが割り込む必要もありません」
それは残念だと口にしながらも、劉備は喜んで黄忠を旗下に迎えたという。
蜀を支配下に置いた漢中王が五虎大将軍の位を制定すると、安国はその末席に名を連ねることとなった。
これに激怒したのは関羽である。目を剥き口を大きく歪め、おのれこれは軍師の差配か、弟と互角に打ち合った涼州の錦であればともかくも、末席に黄忠などとは断じて許し難い、いやさ、たとえ兄者でもただではおかぬとばかりに憤った。
馬良が慌てて取り成しに来ると、関羽は憤懣やる方なしといった剣幕で、こうまくし立てた。
「漢升殿はかの孔文挙に長く仕え、呂奉先と互角に打ち合い、愚弟の命の恩人であり、我が子に名字を戴いた程の偉大な武人である。かの人を差し置いて拙者が筆頭などと、恥ずかしくて名乗れるものか」
それに対して馬良が、
「漢中王の下で共に働く同志に対し、王弟である雲長殿が序列にこだわるのは漢升殿にも礼を失するのではないでしょうか?」
と諭せば、関羽は途端に己の不明を恥じて平静を取り戻したという。
続きはそのうち紐解くかもしれません。