絶対零度の優しさ ~システム部の若手社員は、会社を辞めたくない同僚のためにパワハラ上司を論破する~
本編では諸般の事情により泣く泣く削った、本編にも未登場のシステム部社員の髙瀬夏彦が主役回の「お仕事小説」です。
優しい言葉は使わない。 慰めもしない。 ただし、本人が「辞めたくない」と言った意思だけは、誰にも踏みにじらせない。
本編主人公の今井蒼汰とは、正反対の方法で人を守る男の、絶対零度の優しさを描きます。
昼休みが終わろうとしている12:50頃。平安京製薬の、システム部オフィスには、空調の低い唸りだけが横たわっていた。
その窓際の席で、システム部社員の菅原は一枚の紙を前にしていた。上部には、すでに氏名が記されている。
――退職届。
その下で、ペンが止まっていた。書こうとしては手が止まる。止まっては、また書こうとしていた。
少し離れた席から、システム部若手社員の髙瀬夏彦は、その様子を見ていた。黒いガムを噛みながら、しばらく何も言わず菅原を見ていた。やがて菅原が大きく息を吐き、ペンを机へ置いた。
「菅原さん」
「……ああ、高瀬君」
「それ、出すんですか?」
菅原は退職届へ視線を落とした。
「……もう、無理かなって」
髙瀬は椅子を少しだけ回した。
「答えになってませんよ菅原さん」
「え?」
「俺が聞いているのは、それを出すのかどうかという話です。無理かもしれないとか、自信がないとか、そういう感情論じゃなくて菅原さん自身は、どうしたいんですか?と聞いてます。どうしてもやりたいことがあって辞めたいなら止めません。本人が辞めたいのに、会社のためだの仲間のためだの言って引き止めるのは、それはそれで気持ち悪いんでね。でも、辞めたいわけじゃないのに、誰かに毎日怒鳴られた結果として辞表を書いてるなら、話が全然違うでしょう」
「……」
「そこは、混ぜないでください」
菅原はしばらく退職届を見つめていた。
「本当は……辞めたくないよ……」
声は小さかった。
髙瀬の口元から、ガムを噛む動きが止まった。
「……この会社、嫌いじゃないんだ。仕事も好きでやってきた。でも最近、大野課長から毎日のように言われてさ。遅い、気が利かない、言われる前に動け、システム部なんだから何とかしろ、って無理難題ばかり押し付けられて……」
「正式な依頼は?」
「ないことも多い……」
「期限は?」
「当日とか……昼休みに電話が来て、昼までって言われたこともある」
「断ったら?」
「協調性がないとか、根性がないとか……」
髙瀬は、ここで少し間をおいて頷いた。
「なるほど」
「……最初は俺が悪いと思ったんだよ。もっと頑張ればいいって……でも、何しても次が来るんだ。だから最近は、自分が仕事できないんじゃないかって思うようになって……」
菅原はそこで呼吸を整えた。
「だから、もう――」
「菅原さん。もう一回だけ聞きます」
最後まで言い切ろうとしたところで、髙瀬が菅原の言葉を切った。菅原が顔を上げる。
「会社は辞めたいんですか?」
「……辞めたくない」
「仕事は?」
「続けたい」
「分かりました」
それだけ確認すると髙瀬は、自分の机の上に置いていた支給端末を手に取った。
「……高瀬君。どこ行くの?」
「仕事です」
高瀬は、振り返ることなくそのままシステム部のオフィスを出ていった。
*
その頃、品質管理部門の事務スペースには、大野課長の声が響いていた。
「だから何回言わせるんだよ!」
若手社員が立ったまま俯いている。
「確認したのか!?してないのか!?」
「……確認はしました」
「だったら何でこうなるんだよ!」
「途中で変更の連絡が――」
「言い訳するな!」
机を激しく叩く音に、結衣の肩が小さく跳ねた。
——止めに入ったほうがいい。
そう思ったけれど、身体が動かなかった。
同僚の佐伯杏奈がいれば、きっと割って入った。
『それ、本人だけの責任なんですか?』
そう言って、大野と正面からやり合っただろう。
けれど今日に限って、彼女は現場確認で不在だった。
結衣は手元の書類へ視線を落とす。喉の奥が狭い。息を吸っているはずなのに、胸の奥まで空気が届かない。
「こういう小さいことを徹底できないから駄目なんだよ!凡事徹底って意味、分かってるのか!」
大野が指を指した先には、太い毛筆体で三つの言葉が掲げられている。
――凡事徹底。
――挑戦。
――チームワーク。
大野自身が考えた品質スローガンだった。
「一人が適当にやったら、チーム全体に迷惑が掛かるんだよ!社会人なんだから、もっと責任感を――」
「――おい」
大野の怒号を掻き消すかのようにして事務スペースに、心臓が凍てつくかのような低い声が響き渡った。
大きくはない。それなのに、大野の声を一瞬で切った。事務スペースにいた全員が声がした方を見ると、髙瀬が立っていた。
片手に支給端末。口元では、黒いガムがゆっくり動いている。
「何だ!今、忙しいんだよ!」
髙瀬は数秒、大野を見た。そして、長い人差し指を大野がいる方向に向けてゆっくりと突きだした。
「お前、バカだろう?」
事務スペースの空気が凍った。誰かが「ヒッ」と小さく息を呑んだ。
「な……何だと!?」
「おやおや、聞こえてましたか?」
「高瀬!何だその態度は!」
「態度の話をしに来たんじゃないんですよ」
髙瀬は支給端末を操作した。
「菅原さんの件です。先週火曜日、十七時四十八分。正式な作業申請なし。口頭で当日中の改修要求。翌日十二時十一分、昼休みに電話して『昼までに直せ』。木曜日十九時二十三分、退勤後の個人端末へ連絡。そのほかにも申請経路を無視した依頼が複数……」
「急ぎだったんだよ!」
「だったら急ぎとして正式に上げればいいでしょう」
「そんな悠長なことしてられないときもあるんだよ!」
「それ、あなたの段取りが悪いだけですよね?」
「何だと!」
「そもそもシステム部は、何でも屋じゃないんですよ。品質管理部門が事前調整を怠ったツケを無制限に吸収する緩衝材でもない」
髙瀬は、冷え切った三白眼を大野から逸らさず、更に言葉を続けた。
「申請を出さない。必要事項をまとめない。期限だけは最優先。こちらが確認事項を返せば『気を利かせろ』。無理だと言えば『協調性がない』。それで作業が遅れたらシステム部の能力不足。ずいぶん便利な仕組みですね。自分の失敗だけが永久に自分へ戻ってこない」
大野は、机を乱暴に叩きながら苦し紛れに反論した。
「ふざけたことを言うな!会社なんだから助け合うのは当たり前だろ!」
「ほら、それですよ」
髙瀬の声がわずかに低くなる。
「『会社なんだから』。何でもそれを頭につければ正当化できると思ってる。会社なんだから残業しろ。会社なんだから空気を読め。会社なんだから他部署の尻拭いをしろ。会社なんだから上司に従え」
高瀬は一度、口の中の黒ガムを噛む。
「それ、組織論じゃなくて片側搾取っていうのですよ」
「目上の人間に対する口の利き方も知らんのか!」
「目上?面白い冗談を言いますね。では聞きますが役職が上がると、論理まで自動的に正しくなるんですか?勤続年数が長ければ、偉そうな態度をとってもいいんですか?目上の立場にいたら、何をしても許されるんですか?」
「ふざけるのもいい加減にしろ!」
「いい加減にするのは、中身が空っぽのポエム吐いて、大声張り上げれば品質が高まると思ってるあなたのほうでしょう」
「何だと!?」
髙瀬は、大野に冷ややかな三白眼を向けたまま、なおも執拗に大野を追撃した。
「そういうことばかりやってるから社内で『品質管理部門の大野は実務能力が低いくせにイキってばかりいる役立たずだ』とか、『あの男は麻倉に尻尾を振るしか取り柄のないただの太鼓持ちだ』と影で噂をされるんですよ」
その言葉に、周囲いるすべての社員の表情が蒼ざめて凍りついたように固まったが、髙瀬はそれには一顧だにせず、とどめの一撃を放った。
「——あと、『息が臭すぎる』とか、ね」
「だ、誰がそんなこと言ってんだ!!」
耐えきれなくなった大野が、机を叩いて立ち上がった。
髙瀬の眉が僅かに動いた。
「おやおや、そこに一番食いつくんですか?」
「高瀬ぇ!」
「机を叩こうが、俺に怒鳴ろうが、口臭は改善しませんよ」
「お、お前……それ、パワハラだぞ!」
「パワハラ……さて、何のことでしょうか?」
「役立たずだの太鼓持ちだの、口が臭いだの!」
「俺があなたをそう評価したとは一言も言ってませんよ。それに、息が臭いと噂されているとは言いましたが口が臭いとまでは言ってません」
「同じことだろうが!」
「いえ、全然違います。発言主体が違うでしょう。俺はただ『そういう噂が存在する』という情報を提示しただけです。それを聞いて腹が立つなら、噂の出所を探す前に、なぜそういう評価が発生しているのか考えたほうが建設的じゃないですか?」
「屁理屈言うな!」
「あなたが勝手に、論理的に反論できないものを全部屁理屈に分類してるだけでしょう」
「じゃあ、さっき菅原に俺が――」
「菅原さんの話なら、もっとしましょうか」
髙瀬は、手にしていた支給端末を持ち上げた。
「菅原さん、どこかの誰かさんのせいで、辞表を書いてましたよ」
その言葉が落ちた途端、事務スペースの空気が変わった。これまで俯いていた結衣も、思わず顔を上げる。
「……何だと?」
「退職届です。あなたが毎日のように叱責して、正規ルートを通さず無茶振りして、断れば協調性だの根性だの言った結果です」
「そんなものは本人の受け取り方だろ!」
髙瀬の三白眼が、そこで初めて僅かに冷たくなった。
「受け取り方……便利ですねぇ、その言葉」
「何がだ!」
「自分が何を言っても、相手が傷ついたら『受け取り方の問題』。期限を守れなければ『本人の能力不足』。仕組みに穴があれば『注意力が足りない』。部下が潰れたら『根性がない』。だったら管理職って何のためにいるんですか?」
「……」
「全部、下の人間の能力と根性で解決するなら、あなた要らないでしょう」
度重なる侮辱に耐えかねた大野の頬が、みるみるうちに赤黒く染まっていった。
「そ、組織の和を乱しやがって……!」
「組織の和?」
「そうだ!お前みたいな奴がいるからチームワークが――」
「……ああ」
髙瀬はそこで、大野の背後へ視線を移した。
「それ、ちょうど聞きたかったんですよね」
高瀬の視線の先には、壁に掲げられた三つの言葉があった。
凡事徹底、挑戦、チームワーク。
髙瀬はゆっくりとそちらへ歩いた。
「これ、大野課長が考えたんですよね?」
「それが何だ!」
「いやあ、よくできてるなと思って」
そうは言いながらも高瀬の声は冷ややかで、褒めているようには聞こえなかった。
「三つとも、あなた自身ができてないことが並んでる」
「何だと!?」
「まず、凡事徹底。小さなことを当たり前に積み重ねる。結構なことじゃないですか。理念としては間違ってない。でも、申請手順を守らない。確認事項を抜かす。必要情報を後から追加する。期限の認識合わせもしない。自分が出した依頼内容すら正確に覚えてない。……そんな人間が凡事徹底を語る資格が、どこにあるんですか?」
「俺は管理する立場で――」
「管理する立場なら、なおさらでしょう。下に徹底を求める人間ほど、自分が基本動作を守るべきなんですよ。自分は例外、部下には徹底。それを世間一般では凡事徹底とは言わない。ダブルスタンダードっていうんですよ」
次に髙瀬は、二つ目へ指を移した。
「次。挑戦」
「……」
「これも便利な言葉ですよねぇ。準備不足でも挑戦。無茶振りでも挑戦。人手が足りなくても挑戦。失敗したら本人の努力不足。あなた方が好んで使ってる『挑戦』という言葉は、管理側が仕組みと手順の不備を調整できないときに、責任を下へ投げるための言葉になってるんですよ」
「そんなことは――」
「ありますよ」
大野が何かを言おうとしたが、すかさず髙瀬は遮った。
「人員が足りないなら配置を見直す。手順に無理があるなら変更する。部署間で衝突するなら責任範囲を整理する。それをやるのが管理でしょう。それを何もしないで『挑戦しろ』『成長しろ』『限界を超えろ』って、楽ですよね。無責任な人間が上から目線で放つ『挑戦』なんて、仕組みを直す能力がない無能の言い訳ですよ」
高瀬の声には嘲笑すらなかった。ただ、有罪判決を読み上げているように無慈悲で冷徹だった。
「最後は、チームワーク……」
髙瀬は一旦、呼吸を整え少し長い沈黙を置いた。
「——俺、これが一番嫌いです」
結衣は思わず髙瀬を横目で見た。髙瀬の声だけが、静かな事務スペースに響く。
「助け合うこと自体は否定しませんよ。誰だって困ることはある。会社という組織のなかでは、部署の境界を越えて手を貸すことも必要です。でも、本来の助け合いって、双方に拒否権があるんですよ。今日はこっちが助ける。別の日には向こうが助ける。無理なら無理と言える。それでも関係が壊れない。だから助け合いなんです。しかし、片方だけが無理な要求ばかりする。片方だけが残業する。片方だけが予定を変更する。片方だけが責任を背負う。それで拒否したら『協調性がない』『チームワークを乱す』……。それ、どう考えても助け合いなんかじゃないでしょう?」
髙瀬の目が、わずかに細くなった。
「そういう卑劣な行為を世間一般では何と呼ぶか、ご存じですか?——片側搾取というのですよ」
髙瀬は壁の標語へもう一度目をやった。
「しかも、搾取される側が嫌だと言った瞬間に、『会社なんだから』『みんなやってる』『昔はこれくらい普通だった』って言葉で罪悪感を植え付ける。あなた方が言ってるチームワークは、片側搾取を綺麗に見せるための免罪符です」
大野は何も言い返せず、完全に黙っていた。
「——ついでに言うなら」
髙瀬は、最初の「凡事徹底」を指した。
「さっき俺が『お前、バカだろう』と言った件ですが、あれは大野課長に言ったわけじゃありません」
「は!?」
「これですよ」
高瀬は、鋭利な刃物を大野の喉元に突き刺すかのようにして、自分の人差し指をゆっくりとあげて標語を指す。
「自分ができてもいないことを、さも立派な理念みたいに並べた、このつまらない品質スローガンのポエムに言ったんです」
事務スペースにいる、誰かが息を呑んだ。
「ああ失礼……この昭和の時代から拾ってきたようなダサいポエム、あなたが作ったんでしたっけ?」
大野は、再び机を乱暴に叩き怒鳴り散らした。
「——高瀬ぇぇ!」
「だから声を張っても、口臭は減らないし、品質も上がりませんって。あなたの脳のメモリは何ビットですか?」
「……お、……お前のその態度は完全にパワハラだぞ!人事に言ってやるからな!」
髙瀬は、なにごともなく即座に答えた。
「ええ、どうぞ」
大野が止まった。
「……何だと!?」
「麻倉専務に密告するなり、人事に持っていくなり、好きにしてください」
髙瀬は、支給端末を持ち上げた。
「その代わり、同じテーブルに全部乗せますよ」
「何をだ!?」
「菅原さんに対する正規ルート外の業務指示。退勤後の連絡。達成不可能な期限設定。断った際の叱責。忠誠心、根性、上下関係を持ち出して服従を求めた発言。それからシステム部への業務妨害に該当する可能性がある案件も整理します」
「業務妨害だと?」
「そうですよ。こちらにはこちらの優先順位と作業計画がある。それを他部署の管理職が勝手に書き換え続けてるんだから」
「だから、それはだな——」
「どちらが組織の和を乱しているのか」
髙瀬は言葉を遮り、冷えた三白眼で大野を見る。
「どちらがハラスメントなのか。第三者に判断してもらえばいい。俺は困りませんよ。記録、残ってますから」
高瀬は、クチャリと黒いガムを噛んだ。その湿った音だけが、事務スペースに鳴り響いた。
ここで大野の頬が小刻みに震えた。
「お前!それ、脅しか!?脅しだろうが!」
「……はい?」
「だから脅しだって言ってんだよ!人事に出すぞ、業務妨害として扱うぞって、俺を脅してるんだろうが!」
——その瞬間だった。
髙瀬の首が、ほんのわずかに横へ傾いた。
考え込むような仕草ではない。理解できないものを前にしたような、人間らしい感情的な戸惑いでもない。まるで、入力された情報そのものに致命的なエラーを見つけたかのような、不自然な角度だった。底冷えするかのような三白眼だけが、大野から離れない。
「……脅し?」
髙瀬は大野の言葉を、舌の上で静かに転がすように、低く呟いた。
「実に面白い解釈しますね……」
「何だと!?」
「だってそうでしょう?」
髙瀬はゆっくり首を戻した。
「自分が菅原さんへ無理な期限を押しつける。断れば忠誠心がないと言う。できなければ能力不足。何度も叱責する。それは『指導』」
一つずつ、確認するように指を折る。
「でも、その記録を第三者へ見せますと言われた途端に、自分に不利益が発生するかもしれないから『脅し』……ずいぶん都合のいい言語変換能力ですね」
髙瀬の眉間に、わずかな皺が寄った。
「屁理屈言うな!」
「またそれですか」
高瀬は、何事もなく即座に返す。
「俺は、大野課長に黙れとも、俺の言うことに従えとも命じてはいないでしょう。むしろ好きにしてくださいと言ったんです。人事に訴える。ハラスメント相談窓口へ持っていく。麻倉専務へ報告する。どうぞ。全部あなたの自由です。その代わり、こちらも記録を提出する。ただ、それだけの話です」
「だから、それが脅しだって言ってんだよ!」
「——ですから」
髙瀬の声が、さらに低くなった。
「何で、自分がやったことを第三者に見せられるのが脅しになるんです?」
大野が言葉に詰まった。
「事実なんでしょう?菅原さんへ直接指示を出したことも。退勤後にも連絡したことも」
「それは――」
「協調性が足りないとも言った」
「会社員として――」
「根性がないとも言った」
「だから、それは指導として――」
「なら堂々と説明すればいいじゃないですか」
髙瀬は、両手をわずかに広げた。
「私は管理職として必要な叱責をしました。正規ルートを飛ばしたのも、退勤後に連絡したのも、忠誠心や根性を持ち出して恫喝したのも、すべて会社のためにやりました。業務の一環でした、と。そう言えばいい……」
高瀬は、口の中の黒いガムを噛み直した。
「さっき俺が言ったことを一言一句違えずにいつもどおり、元気な声で正々堂々と胸を張って言えばいいだけのことじゃあないですか」
「……」
「なのに、何をそんなに焦ってるんですか?」
大野のこめかみが引きつった。
「お前……!?」
「俺が今言ってるのは、一貫して同じですよ」
髙瀬は、支給端末の画面を軽く叩いた。
「誰が正しいか、ここで俺とあなたが決める必要はない」
その言葉に、結衣が僅かに顔を上げた。
「記録を出す。経緯を出す。双方が言いたいことを言う。それを第三者に判断してもらう」
髙瀬は淡々と続ける。
「これのどこが脅しなんです?」
「……」
「むしろ俺には、あなたのほうがよほど不思議ですよ」
再び首が僅かに傾いた。
「自分が他人へ圧力を掛けてるあいだは、自分を『指導する側』に置いていた」
「……」
「なのに証拠を示されて、自分の行動が評価される側へ回った瞬間、自分を『脅されている被害者』の席へ移動させる」
髙瀬の三白眼が、大野を射殺さんばかりに据わった。
「その切り替え、早すぎませんか?」
その殺意を孕んだような鋭い眼差しに、周りの誰もが動けなかった。
「菅原さんは、あなたのせいで退職届を書いてましたよ」
髙瀬の声から、最後の僅かな軽さが消えて更に声の温度が下がった。鎮まりかえった事務スペース内に、髙瀬の冷ややかな声だけが響いていた。
「この会社も仕事も好きなのに、自分にはもう無理かもしれないって思うところまで追い詰められてた」
大野が冷や汗をかきながら、気まずそうに目を逸らした。
「それをやった側の人間が、記録を出すと言われただけで『パワハラだ』とか『脅された』ですか……」
髙瀬は一度、鼻から息を吐いた。
「実にすごいですね」
「何がだよ……」
「自分が加害側にいた可能性だけは、一ミクロンも検討しないそのふざけた思考回路が、ですよ。いや、ここまでくるともはや知能云々の問題じゃない、組織を蝕む病理以外の何でもないですね」
「何だと!」
「自分が人に与えた圧力は指導。自分に返ってくる不利益は脅迫。自分が相手の予定を潰すのは助け合い……」
高瀬は、もう一歩踏み出した。
「自分の行動を記録されるのは組織の和を乱す行為」
そして、大野の机の前でピタリと止まった。
「全部、自分だけが常に正しい側にいられるように言葉を貼り付けてるだけでしょう?」
事務スペースに、重い静寂が落ちた。
「——俺、そういうの反吐が出るほど嫌いなんですよ」
髙瀬の声は静かだった。だからこそ、結衣にはその言葉がひどく冷たく聞こえた。
「自分が何をしたかじゃなくて、自分がどう扱われたかだけで善悪を決める人」
クチャリ、と音を立てて髙瀬の口の中で黒いガムが、生き物のようにゆっくりと動いた。
「いいですか?大野課長。被害者側の席って、先着順でも指定席でもないんですよ」
大野は、もはや何も答えられなかった。
「それでも、パワハラだとか脅しだと思うなら、どうぞ訴えてください」
髙瀬は手にしていた支給端末を、胸元まで上げた。
「俺も出します。そのほうが公平でしょう?」
「——ちょっと、高瀬君!」
そのとき、品質管理部門の事務スペース入口から、鋭い女性の声が飛んだ。全員の視線がそちらへ向く。
係長の山岡だった。片腕にファイルを抱え、険しい顔で髙瀬を見ている。
「さっきから聞いてたけど、いくら何でも言い過ぎでしょう!」
髙瀬は、少し面倒くさそうに振り返った。
「さあ、何のことでしょうか?」
「課長に対して、その態度は何なの?あなた、自分が何を言ってるのか分かってるの!?」
山岡は熟したトマトのように顔を真っ赤にして怒声を浴びせるが、髙瀬の表情は変わらない。
「ええ、分かってますよ」
「だったら――」
「それが何か?」
髙瀬が、一瞬で山岡の声を遮った。
「山岡係長が一人増えたところで、何か変わるんですか?」
「……何ですって!?」
「頭数を揃えたからといって、自分たちの行いが全て正しいことになるわけではありませんよ」
山岡の眉が吊り上がった。
「そういう問題じゃないでしょう!みんなで仕事をしているんだから――」
「やれやれ……また『みんな』ですか」
髙瀬が小さく息を吐いた。
「便利ですよね、その言葉」
「何がよ!」
「自分一人の意見では弱いから、『みんな』を勝手に背負わせる。『みんなそう思ってる』『普通はそうする』『昔からみんなやってきた』。それで人数が多そうに見えれば、自分の主張まで正しくなった気になれる」
「わ、私はそんなこと――」
「仕事は多数決なんかではうまく回りませんよ。十人が間違った手順を支持して、一人だけが正しい手順を指摘したからといって、間違った手順が正解に変わるわけじゃない。記録と事実に、賛成票も反対票もありません」
「でもね、高瀬君。言って良いことと、悪いことが――」
「良いか悪いかなんて幼稚な話なんてする気など毛頭ありませんよ。それに俺は今、大野課長と話をしてるので」
そして、冷ややかな三白眼で山岡を射抜いた。
「邪魔なんで、引っ込んでてください」
高瀬のひとことで、事務スペースの空気が一気に氷点下にまで凍りついた。
「なっ……!?」
山岡の顔が恥辱に塗れてみるみる赤くなる。
「何よ、その言い方!私だって品質管理の――」
「ところで山岡係長」
ふいに山岡が止まる。髙瀬の声が、急に湿った声に変わった。
「——神浜はいい街ですよね」
「――っ!」
その瞬間、山岡の顔から、いっきに血の気が引いた。抱えていたファイルを持つ指だけが、わずかに強張る。
結衣たちには、高瀬の言葉の意味がまったく分からなかった。だがそれは、大野も同じだったらしい。
「おい山岡……どういうことだ?」
しかし髙瀬は大野を見なかった。冷たく光る三白眼は山岡へ向けたままだった。
「麻倉専務に聞いてください」
「……」
「ですよね?山岡係長」
山岡の唇が僅かに動いた。しかし、声にはならない。先ほどまで大野を援護していた勢いが、嘘のように消えていた。
「……私は」
山岡の口から、ようやく掠れた声が出た。
「何も関係ないから……」
「そうですか」
髙瀬の返答は淡白だった。
「なら、そのまま関係ない人でいてください」
山岡は何も言い返さず、視線を逸らした。結衣は、山岡の引きつった横顔を見た。明らかに、何かがおかしかった。怒っているというより、怯えている。けれど、何に怯えているのかまでは分からない。
髙瀬は、何事もなかったように大野へ向き直った。
「――では、話を戻しましょう」
その切り替えの速さに、結衣の背筋へ薄い寒気が走った。髙瀬は最後に言った。
「菅原さんへの直接依頼は、今日で終わりにしてくださいね。次から正式な窓口を通す。依頼内容と期限を明記する。緊急なら緊急である理由を書く。システム部が無理だと判断した場合は、担当者個人へ圧力を掛けない」
大野の顔を、見下ろすように真っ直ぐ見る。
「簡単でしょう?」
「……分かったよ」
聞き取れるかどうかほどの声だった。
「——なら結構です」
髙瀬はそれ以上、何も言わず踵を返した。
結衣の前を通るときに、一瞬だけ視線が合ったけれど、髙瀬は「大丈夫ですか」とも、「怖かったでしょう」とも言わず、そのまま何事もなかったかのように事務スペースから出ていった。
事務スペースの扉が閉まる。数秒後。誰かが、長く息を吐いた。そこで初めて、凍りついた時間が動き始めたようだった。
叱責されていた社員や他のメンバーたちも、席に戻りデータ入力をはじめた。結衣も、机の縁を握っていた指をほどいた。掌に汗が滲んでいた。まだ胸は苦しい。けれど、先ほどまでより少しだけ呼吸ができた。
——怖かった。
あの人は、怖い。
結衣は素直にそう思った。
彼(=今井蒼汰)とは似ているところがある。どちらも理屈と規則を重んじる。どちらも、相手の肩書だけで露骨に態度を変える人ではない。
——けれど。
彼は、考えたことの大半を自分の内側へ留める。そこから必要な分だけを選び、相手が受け取れる場所へ静かに置いていく。
しかし、髙瀬夏彦は違った。考えたことを、ほとんどそのまま他人を切り刻む刃へ変える。相手が受け取れるかどうかではない。問答無用で受け取らせる。理解できるまで逃げ道を潰し、そのまま頭の中へ押し込む。
それなのに。今日、最初に守られたものは、システム部の菅原自身が口にした、
――辞めたくない。
その一言だった。そこだけは、誰の代わりにも決めなかった。やり方そのものは、冷たく乱暴で、凶悪ですらある。
——けれど。
言っていることは、ほとんど間違っていなかった。
そして何より。髙瀬が来なければ、誰も大野の恫喝を止められなかった。その事実だけが、結衣の胸の奥へ重く残った。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
今回の主役・髙瀬夏彦は、実は本編を執筆していた頃から存在していたキャラクターです。
イメージとしては、「もし蒼汰が『正しさの致死量』での挫折を経て、人への優しさではなく合理性だけを研ぎ澄ませていたら?」という、いわば“闇堕ちした蒼汰”の具現化しました。理屈とシステムログで相手の逃げ道を塞ぎ、必要なら容赦なく叩き潰す。そういう現代版の必殺仕事人的なキャラとして考案してました。
当初は、本編で麻倉との対決を終えた蒼汰の前に現れ、「今井さん、一緒にアイツら潰しましょうよ」と悪魔の囁きをしてくる、ある意味では最後のラスボスのような役割も予定していました。
ただでさえ本編は「正しさ」「自己決定」「組織」「恋愛」「対人支援の在り方」と、いろいろなテーマが複雑に絡み合っています。
そこへ髙瀬夏彦まで本格参戦させると、さすがに話がややこしくなる。そう判断して、彼の登場場面の多くは泣く泣くお蔵入りになりました。
……でも、自分好みでかなり気に入っているキャラだったので、出さずじまいにするのは惜しかったんですよね。
蒼汰が「光」なら、髙瀬はその後ろに伸びる「影」。
ユング心理学でいう〈シャドウ〉のように、蒼汰自身が選ばなかった可能性を体現する人物でもあります。
蒼汰は、相手が受け取れる温度まで言葉を下げて、問いを渡す。
髙瀬は、正しいと思ったものを問答無用で相手の頭へ叩き込む。
やり方はまったく違います。
それでも二人には、ひとつだけ共通しているものがあります「本人の人生の答えを、本人以外が勝手に決めてはいけない」という考えです。
今回、外伝という形でようやく髙瀬夏彦を表舞台へ出すことができました。
本編とは少し温度の違う「お仕事小説」――
むしろ温度が低すぎる『絶対零度の優しさ』。
楽しんでいただけたなら嬉しいです。
また本編や、ほかの外伝でもお会いしましょう。




