婚約破棄された令嬢は、王国を追放されてから笑う
「アリシア・フォン・ベルクシュタイン。お前との婚約を、今この場で破棄する!」
王城の大広間に、第三王子レオンハルトの声が響いた。
楽団の演奏が止まり、集まっていた貴族たちが一斉にこちらを見る。
私は手にしていたワイングラスを置いた。
「……理由を、お聞かせいただいても?」
努めて冷静に尋ねる。
対面に立つレオンハルトは、勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
「理由だと? 白々しい!」
彼の隣には、一人の少女がいた。
淡い金髪に、青い瞳。
男爵令嬢のリリアーナだ。
彼女は涙を浮かべながら、レオンハルトの袖をそっとつまんでいる。
いかにも、だった。
「アリシア様は、私をいじめたのです……」
「そうだ!」
レオンハルトが即座に続ける。
「リリアーナは俺の大切な人だ! それなのにお前は彼女を階段から突き落とし、茶会では紅茶を頭から浴びせ、さらには俺との婚約を盾にして退学まで迫ったそうじゃないか!」
広間がざわめく。
私は一度だけリリアーナを見た。
彼女は私と目が合うと、怯えたように視線を伏せた。
なるほど。
そういう筋書きらしい。
「……証拠は?」
「証拠だと?」
「はい。私がリリアーナ様を階段から突き落としたという証拠です」
「目撃者がいる!」
「誰です?」
レオンハルトが胸を張る。
「彼女自身だ!」
一瞬、静寂が落ちた。
私は思わず瞬きをした。
「……ご本人ですか」
「そうだ!」
「では、茶会で紅茶を浴びせたという件は?」
「それも彼女が見た!」
「なるほど」
私は小さく頷いた。
「つまり、すべてリリアーナ様の証言だけなのですね」
「だから何だ!」
「いえ」
私は笑った。
「ずいぶんと便利な証拠だと思いまして」
ざわり、と空気が揺れた。
レオンハルトの顔が赤くなる。
「お前……!」
「それで、婚約破棄なさるのですか?」
「当然だ!」
「分かりました」
私は立ち上がった。
ドレスの裾を整え、レオンハルトを見つめる。
「では、婚約破棄を受け入れます」
「……何?」
意外だったのだろう。
レオンハルトが間の抜けた顔をした。
「何を驚いていらっしゃるのです?」
「お前は……もっと抵抗すると思っていた」
「なぜです?」
「だって、お前は俺との婚約を――」
そこで私は遮った。
「王家との婚姻を、家同士の契約として必要としていただけです」
「……」
「殿下個人に未練があるとでも?」
レオンハルトの顔が引きつった。
私は頭を下げた。
「それでは、これにて失礼いたします」
「待て!」
「まだ何か?」
「お前には罪がある!」
「罪?」
「リリアーナをいじめた罪だ!」
「では、正式な裁判をお願いします」
「なに?」
「私は公爵家の令嬢です。王子殿下のお気持ちだけで罪人にはなれません」
私は周囲を見回した。
「王国法に従って、証拠を提示し、証人を呼び、正式に裁いてください」
誰も口を開かなかった。
当然だ。
そんなものはない。
あるはずがないのだから。
レオンハルトが言葉に詰まった。
その隙に、私はもう一度頭を下げた。
「婚約破棄については承知しました。それでは私は帰ります」
「……帰る?」
「はい」
「お前は反省しないのか!」
「していませんから」
私は笑った。
「やっていないことを反省する趣味はございません」
そして私は、大広間を出た。
***
翌朝。
我が家であるベルクシュタイン公爵家には、王家から正式な書状が届いた。
内容は単純だった。
婚約破棄。
そして、国外追放。
「……本当に来たわね」
父が書状を読みながら呟いた。
「ええ」
私は朝食を食べながら答える。
母は心配そうに私を見ていた。
「アリシア……」
「大丈夫です、お母様」
「でも国外追放なんて……」
「むしろ助かりました」
「助かった?」
私はパンにジャムを塗った。
「はい」
父が顔を上げる。
「どういう意味だ?」
「王家との婚姻がなくなったのですから、これで自由に商売ができます」
「……」
「それに、国外へ行くならちょうどいい場所があります」
「どこだ?」
「北方連合です」
父の眉が動いた。
「北方連合?」
「ええ」
私は一枚の紙を取り出した。
そこには、数年前から私が密かに進めていた事業の一覧が書かれている。
鉱山。
製鉄所。
小麦農場。
運送会社。
魔道具工房。
そして、北方連合との交易路。
父は紙を見つめたまま固まった。
「……お前、いつの間に」
「婚約者の王子殿下とお茶を飲んでいる時間がもったいなかったので」
「お前は……」
父が頭を抱えた。
母はくすくす笑っている。
「だから言ったでしょう、あなた。アリシアはあなたより商売人よ」
「私はあの子をそんなふうに育てた覚えはない」
「育てられなくても勝手に育ったのでしょう」
私は二人を眺めて笑った。
「というわけで、三日後に出発します」
「待て」
父が真顔になる。
「国外追放だぞ」
「はい」
「王国から追い出されるんだぞ」
「はい」
「もう戻ってこられない可能性もある」
「そのほうが好都合です」
父は深いため息をついた。
「……お前、本当にレオンハルト殿下のことが好きではなかったんだな」
私は少し考えてから答えた。
「好きだった時期もありますよ」
「そうなのか?」
「ええ。幼い頃は優しかったですし」
「なら――」
「でも」
私は紅茶を一口飲んだ。
「人は変わりますから」
レオンハルトは、王子になってから変わった。
周囲から褒められ、持ち上げられ、自分が何をしても許されると思うようになった。
そして、リリアーナが現れた。
私はそれを責めるつもりはなかった。
婚約者として最低限の礼儀を守ってくれれば、それでよかった。
けれど彼は、それすらしなかった。
だから、終わった。
ただそれだけだ。
「では、行ってきます」
「アリシア」
父が呼び止めた。
「なんでしょう?」
「……向こうで困ったら、いつでも頼れ」
私は笑った。
「ありがとうございます、お父様」
こうして私は、婚約破棄と国外追放を受けた翌週。
王国を出た。
***
それから三年。
北方連合の都市グランベル。
私はそこで、ひとつの会社を経営していた。
「アリシア会長! 南部からの鉄鉱石ですが、今月も予定通りです!」
「よし。小麦の輸送船は?」
「明日到着します」
「なら倉庫を空けておいて」
「はい!」
社員たちが忙しそうに走り回っている。
私は執務室の窓から街を眺めた。
三年前とは、何もかも違う。
私はここで会社を立ち上げた。
父の伝手も少し使った。
王国では公爵令嬢という立場が邪魔をすることもあったが、国外ではただの一人の女商人として扱われた。
それが、私には心地よかった。
失敗すれば自分の責任。
成功すれば自分の功績。
実に分かりやすい。
そして、三年で会社は北方連合でも有数の商会になった。
ところが、その日の午後。
一人の客がやってきた。
「会長、お客様です」
「どちら様?」
「王国から来た使者だそうです」
私はペンを置いた。
「……王国?」
嫌な予感がした。
応接室に通された男は、王家の紋章をつけた服を着ていた。
「久しぶりだな、アリシア」
「あなたは……」
見覚えがあった。
王宮で何度か会った男だ。
王国の財務官。
「三年ぶりだ」
「そうですね」
「ずいぶん成功したようだな」
「おかげさまで」
男は苦笑した。
「実は、王国がかなり厳しい状況にある」
「そうですか」
「隣国との戦争で鉱物資源が不足し、食料価格も高騰している」
「それは大変ですね」
「そこで、王国として君に頼みたい」
「何を?」
男は頭を下げた。
「食料と鉄を、王国へ輸出してほしい」
私は黙った。
「もちろん代金は払う」
「いくら?」
男が提示した金額を見て、私は笑った。
「安すぎます」
「しかし――」
「市場価格の半分では、商売になりません」
「王国は今、財政が――」
「それは私には関係ありません」
男は困った顔をした。
「君は王国の人間だったではないか」
「三年前に追放されました」
「……」
「ですから、もう王国の人間ではありません」
男が苦しそうに息を吐く。
「アリシア。これは国王陛下からの要請だ」
「でしたら」
私は立ち上がった。
「国王陛下にお伝えください」
「なんと?」
「市場価格で買っていただけるなら、いくらでも売ります」
「……」
「慈善事業をするつもりはありませんので」
男は何も言えなかった。
***
それから半年。
王国の状況はさらに悪化した。
食料不足。
鉄不足。
そして、何より問題だったのは、北方連合との交易を失ったことだった。
王国の商人たちは、三年前まで私の商会から安定して物資を仕入れていた。
だが、私が追放されたあと、王宮は私の事業を「元公爵令嬢の私物」として接収しようとした。
当然、父は拒否した。
結果としてベルクシュタイン公爵家も王家と対立。
さらに北方連合との交易権も失った。
そして今。
王国は、私がいなければ回らないほどの状態になっていた。
ある日。
北方連合から私のもとへ、正式な外交文書が届いた。
「アリシア様」
秘書が封筒を差し出す。
「王国からです」
私は封を切った。
そこには驚くべき内容が書かれていた。
王国からの帰国要請。
爵位の返還。
財産の返還。
そして――
「王太子妃候補?」
私は思わず読み返した。
三年前、私を追放した第三王子ではない。
現在、王位継承第一位となっている第一王子との婚姻を打診してきたらしい。
私は笑った。
「なるほど」
「どうされますか?」
秘書が尋ねる。
私は手紙を丸めた。
「断って」
「理由は?」
「簡単です」
私は窓の外を見る。
「もう必要ないから」
「……何がです?」
「王子様も、爵位も、王国も」
私は微笑んだ。
***
しかし。
世の中はそう簡単には終わらない。
三か月後。
私は北方連合の議会から呼び出された。
議長の隣には、見覚えのある男が立っていた。
「アリシア」
「……レオンハルト殿下」
そこにいたのは、かつて私の婚約者だった第三王子だった。
ただし、以前とは違う。
服は汚れ、髪は乱れ、頬はこけていた。
「久しぶりだな」
「そうですね」
「俺は……」
彼は言葉を詰まらせた。
「お前に謝りたい」
私は黙っていた。
「俺は間違っていた」
「そうですか」
「リリアーナに騙されていた」
「でしょうね」
レオンハルトが顔を上げた。
「知っていたのか?」
「ある程度は」
「なぜ言わなかった!」
「言いましたよ」
「……いつ?」
「婚約破棄の場で」
私は淡々と答えた。
「証拠を出してください、と」
レオンハルトは黙った。
「殿下は、私の言葉を聞かなかった」
「……」
「だから私は何もしませんでした」
「俺は……」
彼が拳を握る。
「お前が俺を見捨てたと思っていた」
「逆です」
私は彼を見た。
「殿下が私を見捨てたのです」
レオンハルトの顔が歪んだ。
「リリアーナは、俺が王子でなくなった途端に逃げた」
「そうでしょうね」
「俺は……何も残らなかった」
「そうでしょうね」
「冷たいな」
「三年前なら、もう少し優しかったかもしれません」
私は椅子に座った。
「でも今は違います」
「……」
「私は殿下に恨みはありません」
レオンハルトが顔を上げる。
「本当か?」
「はい」
「なら――」
「ですが」
私は微笑んだ。
「戻るつもりもありません」
彼の目が沈んだ。
「そうか」
「はい」
「……幸せか?」
私は少し考えた。
「幸せですよ」
「そうか」
「殿下は?」
レオンハルトは苦笑した。
「俺は……これから探す」
「そうしてください」
私は立ち上がった。
「人間は、何歳からでもやり直せますから」
レオンハルトは何も言わなかった。
***
その翌日。
私は街の市場を歩いていた。
すると、一人の少女が私の袖を引っ張った。
「お姉ちゃん!」
「どうしたの?」
「パン、買って!」
露店の前だった。
私は店主に代金を払い、少女へパンを渡した。
「ありがとう!」
「熱いから気をつけてね」
「うん!」
少女は走っていった。
私はその背中を見ながら、ふと思う。
三年前。
私は婚約破棄された。
そして追放された。
あの時は、人生を否定されたような気がした。
けれど。
違った。
あれは終わりではなかった。
始まりだったのだ。
私は王子の婚約者ではなくなった。
公爵令嬢としての肩書きも捨てた。
そして、自分の足で歩き始めた。
だから今の私は、あの頃よりずっと自由だ。
「会長!」
後ろから社員の声がする。
「また勝手に市場を歩いていたんですか!」
「たまにはいいでしょう」
「仕事が山ほどありますよ!」
「分かってるわ」
私は笑った。
「じゃあ帰りましょう」
その時だった。
遠くから馬車が近づいてきた。
紋章を見る。
王国の使者だった。
私は思わず苦笑した。
「また何か来たわね」
馬車から降りてきた使者が、慌てた様子で私に駆け寄ってくる。
「アリシア様!」
「今度は何でしょう?」
「国王陛下より、正式な親書をお預かりしております!」
「内容は?」
「どうか王国へお戻りいただきたい、と」
「お断りします」
「まだ中身を――」
「三年前から答えは変わっていません」
「しかし!」
使者が叫ぶ。
「王国は今、本当にあなたを必要としているのです!」
私は空を見上げた。
雲一つない青空だった。
「必要とされることと、帰りたいことは別でしょう?」
「……」
「私はもう、王国に必要とされなくても生きていけます」
私は歩き出す。
「でも王国には、私以外にも人がたくさんいる」
「アリシア様?」
「その人たちが自分たちで立ち上がるべきです」
私は振り返った。
「私だって、そうしたのですから」
使者は何も言えなかった。
***
数年後。
私は北方連合の議会から、最高位の勲章を授与された。
王国との関係も、少しずつ改善していた。
かつて私を追放した国王は退位し、第一王子が即位した。
第三王子レオンハルトは王族の身分を捨て、北方連合の小さな町で暮らしているという。
そしてリリアーナは――
どこかの国へ嫁いだらしい。
私は興味がなかった。
過去は過去だ。
祝賀会の夜。
私は一人で城の屋上に出た。
星がきれいだった。
「アリシア」
声がした。
振り返ると、私の秘書が立っていた。
「ここにいたんですか」
「少し休憩していただけです」
「会長は働きすぎです」
「あなたに言われたくないわ」
二人で笑う。
「そういえば」
秘書が言った。
「王国から、また手紙が来ています」
「今度は何?」
「新しい交易協定についてです」
「それなら読むわ」
私は手紙を受け取った。
三年前なら、王国からの手紙を見るだけで胸が痛んだかもしれない。
でも今は違う。
私は王国を憎んでいない。
レオンハルトも憎んでいない。
ただ。
戻らないだけだ。
「会長」
「なに?」
「もし三年前に戻れるなら、何をします?」
私は少し考えた。
そして笑った。
「同じことをします」
「婚約破棄を受け入れる?」
「もちろん」
「追放される?」
「それも」
「王子様を手放す?」
「むしろ、こちらからお願いしたいくらいね」
私は星空を見上げた。
「だって」
あの日。
婚約破棄を告げられた瞬間。
私はすべてを失ったと思った。
でも、本当は逆だった。
あの日、私の人生から余計なものが全部なくなった。
王子の婚約者という肩書き。
王宮のしがらみ。
貴族社会のくだらない噂。
そして――
自分が誰かに選ばれなければ価値がないと思っていた、幼い自分。
全部なくなった。
だから私は、自分で選べるようになった。
どこで生きるか。
何をするか。
誰と笑うか。
そして。
誰のために生きるか。
「ねえ」
私は隣の秘書に言った。
「明日から、新しい事業を始めましょう」
「またですか?」
「ええ」
「今度は何を?」
私は笑った。
「海を越えた向こうの国と交易するの」
「……会長」
「なに?」
「本当に、懲りませんね」
「ええ」
私は笑った。
「人生は一度しかありませんもの」
遠くで鐘が鳴った。
夜空には、満天の星。
私はもう、誰かに選ばれることを待たない。
自分で、自分の人生を選ぶ。
三年前。
婚約破棄された令嬢は、王国から追放された。
そして三年後。
その令嬢は――
王国が頭を下げても、もう戻らなかった。
「だって、私の人生ですもの」
そう言って。
アリシアは、笑った。




