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君が笑った時を思い出す

作者: 柊梨

※注意※ 筆者は決して自殺や、心中の肯定する立場ではありません。

 ベッドの窓際から、光が射す。

 光は二人を照らした。


 その光に刺激されて少年は目を覚ました。

 無意識に、隣の少女(、、)に手を伸ばす。


 やけに、冷たい。

 それに、硬い。



「――あ、そうだった」


 隣にいるのは人の形をした抜け殻だった。

 つい3日前まではぬくもりを感じた白い、ほっそりとした冷たい腕。


 まるで人形のような顔立ち。

 横顔が見せる、たった一つのほくろ。


 先日に塗ったはずの白粉(おしろい)は今日加工したのかのように完璧に保っている。

 自分の手を、腕から順に肩、首筋、顔へと伸ばす。


 温度は、感じない。

 完全なる死に体だ。


 その、胸元にはわずかながら、涙が乾いていた。


「戻ってくるって、言ったじゃん……」



 吉田の心は朽ちていた。

 両親や親戚には縁を切られて、恋人には先立たれて、本来なら希望の春も絶望の佳境に達していた。


 本来、勉学に励まなければならない年齢である吉田は午前の10時を回ってもなお、骸に声をかけ続けて、いつ洗ったのかも分からないシーツの汗ばんだ匂いを感じながら、ほんの一握りの可能性に賭け続けていた。



 「俺、なんでこんなことしてるんだっけ」と吉田は思った。だが、思うたびに心当たりが多すぎて彼は考える事をやめてしまった。


 シーツも洗いたくないから洗わないのではない。

 ただ、ぼーっとしていたいというか、単に面倒だからである。


 恋人の死を受け入れられない彼は全ての物事への気力をなくしていた。

 それは現在進行形で削がれている。


 一縷の望みをかけた心肺蘇生も脳髄の死に対しては何ら、効果を示さなかった。

 原因ははっきりしている。

 彼女には重い持病があるのに激しく性行為をしすぎてしまったのだ。

 二人が一糸纏わぬ姿で寝具の上にいるのはそういう訳である。


 幸い、この部屋を追い出されることはない。

 なぜなら親はこの家の所有者を捨て、吉田に託したのだ。

 ただ、今更この所有権を得たと言ってもそれは引きちぎられかけた19年の人生をほんのわずかにテープで補強したに過ぎない。

 ここから再起を図るにはあまりにも絶望が深く彼の身にのしかかっていた。


 しかし、それでも生物なのか、不思議と自ら閻魔大王に首を差し出す気持ちには到底なれていなかった。

 その上、三日間運動していない筋肉が悲鳴を上げ始めていた。

 生存をかけた悲鳴である。


 なんとも不思議なことに、ここ数日不能気味だった自分の相棒も起床を始めていて、脳裏にはこんな姿を香凜に見せたくないという動機から、否応にも動かざるを得ない状況になった。



 しかし、どれだけ気を紛らわそうとしてもその人間的な白を見るたびに、最後に吉田に見せた笑顔が呪いのように目の前に見えてしまうのだ。

 反対に目の奥には苦しそうに叫ぶ香凜の表情と、悲痛な声がそれぞれ対比している。

 それはまるで、月の表と裏のように綺麗に脳内保存されていた。


 吉田は香凜を愛していた。彼女も彼を愛していた。

 学校で初めて会った時も、レストランで一緒にコーヒーゼリーを食べた時も。

 違ったのは、二人の身体的な所だった。

 隠れ脳梗塞と告げられたその病名は文字通り、隠れながら彼女の脳を蝕んでいた。

 6か月前に交際を始め、今日まで清く生活していたが、ある日を境に二人の三大欲求は原始生活に逆行していた。


 それは時に精神的な支えにもなり、一人の男、女として自信を付いたこともあった。

 ただそれは、二人の責任となり、一人の原因ともなってしまった。



 もし、彼女とあの時廊下で出会っていなければ、こんな感情を抱かずにはいなかっただろうと、深く考えた。

 だが、たかが6か月という期間でもそれが空白の6か月間だったのなら、あまりにもそれは移項できない等式なので、すぐにその方程式を削除(デリート)した。



 それだけ彼にとっては香凜の存在は彼の人生でおよそ8割を占めていた。

 8割というか、彼を構成していたおよそ半分だったであろう。


 彼女にとっても同意見だったかはいささか疑問に残るものであるが、そうだと信じたい。



 吉田は洗面台に向かう。

 下着類を履き終えて、鏡を見るとそこには自分とは似てもつかない顔があった。


 「首狩り骸骨でも来たか」と内心呟いた。

 大きな黒い隈にぼさぼさの髪の毛。それに、やせ細った四肢。


 この体たらくでは地獄にさえ行かせてもらえそうになかった。

 見続けていると、なんだかさらに心を壊しそうなので着替えを早々に居間に逃げた。



 洗濯機はついに動かず、原因を探っていると電気を止められたことを思い出す。

 彼は小さく舌打ちをしてシーツを浴室のランドリーパイプに架けるだけにとどめた。


 止められていると知っていたら、こんなところで使わなかったのに、と意味のない後悔をした。



 彼は再び、香凜の笑顔を思い出した。

 どこか儚くて、可憐で、まさに名前通りの凛とした顔だった。

 しかし、3日も笑顔を見ていないので脳内から形しか見えなくなってしまった。


 そこで、吉田は携帯を取り出し、写真を見ようと電源をつけた。

 しかし、そこで充電が切れていることを思い出し、盛大に舌打ちをした。今度は香凜に気遣いが出来なかった。

 充電もできないし、笑顔も見れないとなると、吉田は八方塞がりに陥ったと考えた。


 彼は壁にもたれかかり、膝を強く抱えた。

 数分の思考の末、ついに気分転換のために外に出ようと決心した。

 行先は考えなかった。夜までには、ここに帰ってくればいい、そんな短絡な考えで500円玉一枚をポケットに大事にしまい込んで、3日ぶりの外の空気を吸いに出かけた。



ーーーーーー



 玄関を開けて少し歩くと、不思議と数十年後にタイムスリップしたかのように錯覚した。

 今まで気にも留めなかった風景が自然と目に情報として収集され始めた。


「――あ」


 思わず声を上げて正面を見ると、自分が3日前に通学していた高校の制服に身を包んだ女子生徒3人が歩いているのが見えた。

 しかも、見知った顔である。名前は確か、右から植松、眞田、船越だったはずだ。

 しかし、こちらを一瞬見ても一切気にも留めない様子で何か会話をしていた。

 いや、気にも留めないのではなく、気付かない様子であった。


 吉田は前三人を追い越そうかと考えた。この体勢はどう見てもストーカー気質のあるものだし、突然後ろを振り向かれて自分がバレるのを防ぎたかったからだ。

 そして、ついぞ足を彼女らより早めた時に彼女らの会話が耳に入った。



「――ねえ、知ってる? 吉田と香凜って夜逃げしたらしいよ」

「まじ?」

「うっそだぁ。だって先生は二人とも体調崩したって言ってたじゃん」

「それがね、どうやら嘘っぽくて吉田が香凜を奪って自分の家に立てこもってるんだって」

「なにそれキッショッ」



 震えるように腕を覆うのが後ろから良く見えた。

 吉田の心臓がかつてないほどに拍動を開始していた。

 恐怖の拍動である。すでに情報は回っていたのだ。


 次、誰かが訪問した時には間違いなく弁護士か、警察か、その両方かに絞られてしまった。



 吉田は踵を返して、家へと歩を進めた。

 だが、足を動かすごとにあの生々しい肉の感触が足を支配していくのが分かった。

 それは時折、ぐにょっぐにょっ、と音を立てていた。


 頭を抱えてぼさぼさになった髪をさらにぼさぼさに掻き回す。

 シャンプーもろくにしていない脂ぎった頭皮が爪と肉の間に垢を作っていた。


 すでに精神は崩壊を開始していた。

 だが吉田はここでは死ねない、と思った。

 「――せめて香凜の前で一緒に死ななければ」という一種の焦燥感が全身を焼き尽くした。


 だが、歩くごとにその気味の悪い感触に襲われるので、彼は道端に座り込んでしまった。

 掻き毟る手はついに顔面にまで到達した。



 人の崩壊していく様を実体験しながら、奇怪の目で見る通行人を指の隙間から観察していた。

 だが、一人の清廉な青少年が彼の肩を叩いた。

 用件を聞くと、吉田はポケットの500円玉を差し出し、「充電器を貸してくれ」と懇願した。


 彼は硬貨を突き返し代わりにモバイルバッテリーを渡した。


「ありがとう」


 そう言う吉田の声にはもう生気なんぞ残っていなかった。

 ただ、最後に香凜の顔が見たかったのだ。


 しばらくして、起動した2万円ほどの格安端末は一つの画像を出力した。

 それは吉田がここ3日で一番見たかった人の笑顔だった。

 その写真は朽ちかけていた精神の木に少しばかりの肥料を投下した。



 充電が10%を超えたところで、彼は少年にバッテリーを返却して、先ほどよりも速い足取りで帰路についた。

 先ほどまで覆っていたあの感触は消えなかったが。



 彼は道中どうやって最期を迎えるかばかりを考えていた。

 包丁か、溺死か、首つりか。

 家に残っているのはそのうち2つだけである。ロープはもともと持っていないのだ。


 すぐに香凜のもとに向かうことを考えると、包丁が一番有効だと考えた。


 夜に帰ってくればいいと考えていたそのわずか数10分後に帰宅した吉田は早速着ていた衣類を全て放り投げた。

 そして、包丁研ぎで刃渡り18センチほどの包丁を研いだ。


 吉田は寝室に向かい、香凜がまだ寝ていることを確認して、最後の接吻を頬にして、スマホの笑顔を見て、ぐさり、と腹に刺した。

 自分の意識が途切れる瞬間、現実の香凜が笑っているように見えた。

ご精読ありがとうございました。

読まれる方にとってはかなりきつかったと思いますが、筆者は決して病んでいるわけではありません。

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