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1.Side:ジェット


 痛い。痛い、苦しい。


 最近はそれだけだ。なんで死なないのか不思議だ。食べ物も飲み物も最後に口にしたのはいつかわからない。今が何時なのか、いつなのか。外の気温も、なにもわからない。


 そんな毎日が、急に変わった。


 ドアの開く音がした。自分の近くまで気配がやってくる。この頃は毎日人が来ることもなかったので、今日は人が来る日だったんだなぁ、とぼーっと考えていたところ、いきなり意識がはっきりした。本当に何年ぶりか、意識がはっきりした。


「初めまして、ジェット様。本日からお世話をさせていただきます、オニキスと申します」


 聞こえてきたのは、女性の声だった。


「本日より、精一杯勤めさせていただきます」


 綺麗な声だな、と思った。凛とした、落ち着いた声だった。


「本日のお加減はいかがでしょうか」


 そんな風に聞かれるどころか、わざわざ声をかけられるのも、どれくらいぶりだろう…。そう思っていると、左手に僅かな感覚を感じた。手に、触れられたのだ。ほとんど感覚の失った体に、唯一残った、左手の感覚。


「声を聞くことができると、伺っております。少し首を動かしたり、左手を動かしたりも。もし、聞こえていたら、左手を握って頂けますか」


 何人も何人も人が来た。何人も何人も人が去った。唯一、医者は、質問をしてきた。それ以外の…ましてや、使用人にあたる者など、ビクビクしながら、遠巻きに様子を見るのが関の山だった。


 少しだけ左手を握り返すと、ほっとしている雰囲気を感じた。


「ご不快に感じることがあれば、すぐに伝えてください。お顔を動かすことはできますか?」


 言葉に従って、僅かに顔を上下に揺らした。


「私が来たのは、新しい治療を試したかったからなのです。もし、本日体調に問題なければ、早速試してみたいのですがいかがでしょうか」


 治療…。今さら、治療?何を言っているのだ、と思った。もうそんな段階などとうに過ぎてるだろうに…。馬鹿馬鹿しい、とまで思った。…でも、左手を優しく握るその手には、恐れを感じない。恐らく、今の僕はとてもおぞましいはずなのに。口から発せられる言葉は真摯に真っ直ぐ届く。してもしなくても、変わらない。彼女の好きにしてくれて構わない。


 こくり、と頭を縦に少しだけ動かした。


「ありがとうございます。何かあればすぐにやめます、なんでも構いませんので、合図を送ってください」


 そう言うと、左手をベットにおいて、ゆっくり離される。


「少しずつ試していきますね」


 彼女の両手が、顔の両側に添えられたようだった。あまり感覚が残っていないので、彼女の手の大きさはわからない。


「始めます。まずは、あなたの苦しみが少しでも減って、少しでもゆっくり眠れるように」


 凛とした声が、優しく落ち着いて穏やかなものになった。その声だけで心が落ち着く気がした。だが、その後に続いたものは驚くべきものだった。


 てっきり薬か何かなのかと思っていたが、魔法を使ったようだった。彼女の手から、暖かい何かが溢れて、頭から首を通って、上半身を包んでいく。感覚のなかった体が、どんどんと暖まっていく。ガンガンと鳴りながら、ぎゅっと、強く締め上げられるようだった頭痛が落ち着いていく。ずっと水の中にいるようで、溺れているような感覚だったのに、息ができた。酸素が、肺に届いた気がした。


 そこで、彼女の手がそっと離された。


「…どう、でしょう。体に何か変化はありますか?」


 縦に一度、首を揺らす。


「治療中、どこかに痛みはありましたか?」


 首を横に動かす。


「…少しは、何か楽になりましたか?」


 縦に首を揺らした。


 その瞬間、良かった、とホッとしたような一言が聞こえた。


「良かったです。毎日少しずつやっていきましょう。何か辛い症状があれば、そこからでも。今日はこれだけ。お体に障るかもしれませんので」


 そう言うと、傍にある椅子にかけたのだろう、そんな気配がしたあと、また、そっと左手を持ち上げて握られた。


「今日から毎日お側にいます。この家に住み込みでお世話させていただきます」


 彼女の顔はわからないけど、嬉しそうに、笑っているのでは、となんとなくそんな気がした。


 あ、と小さな声が聞こえた。


「このように手を握るのはご不快でしょうか?」


 握る手から少し力が抜けていくのを感じた。僕はすぐに左手に力を入れた。


「…良かったです。お疲れと思います、少しお休みになられてください」


 彼女の言う通りだった。ほんの少しなのに、首を少し動かしたりしただけなのに、疲労感が合った。


「私、魔法が得意なので、ゆっくり眠れるよう魔法をかけることも出来ます。もしよろしければ、少しでもゆっくり眠れるように、させていただけますか?」


 別に、僕に聞かないで、好きにすれば良いのに。彼女は一つずつ聞いて、答えをまつ。いつも、気を失うように、寝ていた。寝ていたのか、意識があるまま時間が経っているのかも、何もかも不明瞭だった。なので、正直どちらでも良かった。


 でも、僕は…。かつての僕は、魔法はわりと好きだった。魔法を信じていた。


 一つ、頷きで返した。


「おやすみなさい、ジェット様。明日もまた、お側にいることをお許しください」


 お許しください、だなんて。僕に許される必要なんて、ない。僕には、選択する権利なんてないんだから。


 ここ数ヵ月で一番良い体調の中、ここ何年も味わっていなかった、穏やかな睡眠へ落ちていった。


 ふっと目が覚めた。ああ、せっかく気持ち良く眠れたのになぁ、と思う。体が軋むように痛む。動かないのに。他の感覚はないのに。なのに、痛むのはどうしてなんだろう。はぁっと息を少しすると、次は心臓が、グッと痛む。正しい呼吸の仕方が、よくわからない。痛い。いつになったら、痛みは感じなくなる?心臓が、正しいリズムを忘れる。


「ジェット様」


 あの、声がした。ああ、あれは夢じゃなかったのか。


「オニキスです、大丈夫ですか」


 左手をぎゅっと握られた。暖かい、人の温もりだ。


「大丈夫です、大丈夫ですよ」


 ゆっくりと、落ち着いた、凛とした声。握られた左手が暖かくなって、胸の辺りが暖かくなっていく。


「ゆっくり、呼吸してください。…ゆっくり、ゆっくりと」


 暗闇の中、静かな世界に、彼女の声が良く響く。その道しるべに従って、彼女の言葉のリズムと一瞬に呼吸をする。


 心臓の痛みが少し良くなって、呼吸が落ち着いていくのを感じた。


「…側におらず、すみません」


 言われた通りゆっくり呼吸していると、呼吸する度に痛みが少しずつ、落ち着いていく。


「力がどれだけあっても…ダメですね」


 悔しそうな、苦しそうな呟く声が聞こえた。ああ、もう、どうしよう。もう全部、諦めようと思っていたのに。


「少しずつですが…。ずっと、ここにおります。毎日少しずつ、私に出来ることをやらせてください」


 僕は。


「毎日少しだけ、一緒に頑張りましょう」


 僕は。


 握られたままの左手に力を入れる。


「…ジェット様の力に、少しでもなれていたら嬉しいです」


 諦めないで、何かを求めて良いのか。僕は、愚かだから…期待してしまう。


 握られた左手は、ずっと暖かかった。他の感覚はなくても、その温度だけで、身体中が暖まるようだった。いつもは、苦痛はもっと長く続いたはずだった。呼吸は落ち着いて、激しい痛みはひいていた。


「…落ち着きましたか?」


 頷いて返事をする。


「良かったです…。その、ずっとここにいるのは、どうなのだろう…と思い、お側を離れておりました。お側におらず、申し訳ありませんでした」


 責める気はなかったのだが、心からの謝罪をされた。確かに、近くに人の気配がなかったので、やはりあれは都合の良い夢だったのだろう、と思ったいた。期待はしないと思っていたのに、心の片隅で、お側にいることを、なんて、と思わなかったと言ったら嘘だった。


「ご不安にさせたと思います、申し訳ありませんでした」


 彼女とは、会って間もない。話したのだって、本当に少しだ。なのに、先ほどの台詞を聞いて、ああ、僕は不安だったのか、と気付かされた。 


 彼女が、しゅんとしている。…気がする。


 なるべく一生懸命首を横に振る。彼女にだって、彼女の生活があるのだから、自由にすれば良いのだ。


「でも、ずっとここにいると、ジェット様も気になりますよね。なにか方法を考えますね」


 なにか?方法?とはなんだろ…?


「お休みになられますか?」


 こちらの考えなど気にせず、質問がむけられた。ゆっくり眠ったからなのか、まだ起きていられそうだった。


 一つ、ゆっくりと首を横に振る。


「承知しました。では…このまま話しても?」


 彼女の落ち着いた声は、本当に良く響く。決して大きな声ではないのに、不思議な力を感じる。


 首を縦に動かした。


「ジェット様、このお部屋には本がたくさんございますね」


 本。そう言えば、本棚に本がたくさん入っていたはずだ。


「お部屋のお掃除をして、本棚も綺麗にさせていただきました。色々な本がありました。本がお好きなんですね」


 本を置いたのは、出かけられず時間を潰すのにちょうど良かったからだ。何が面白いかわからなかったので、色々揃えたはずだ。


「しばらく本を読んでらっしゃらないのでは?もしよければ…その……」


 ずいぶんと言い淀む彼女を訝しく思いながら、続きを待った。


「私が音読させていただきますが」


 いかがでしょうか、と。


 彼女は、部屋の掃除をして、本棚も掃除して、そんなことを考えていたのだろうか。何か出来ることはないか、と。


 そう考えるとずいぶんと可愛らしく思える彼女の発言に、内心細く笑ってしまう。


 首を一つ、縦に揺らした。


 その日はいつか読んだ懐かしい冒険物語が彼女の口から語られた。感情を込める訳ではなく、淡々としているその語り口は、僕の耳にとても馴染んだ。その声を聞きながら、ゆったりと自然に…。気付いたら僕は、眠っていたらしい。


 カチャリ、という音で目が覚めた。窓が開いているようだ。外から吹く風を感じる。朝の、匂いだと思った。最後に感じたのはいつだろう…思い出せない。朝露に濡れているのだろうか。草の匂いがする。


 歩いている音が聞こえる。そういえば、この部屋は玄関から遠かったな、と思い出した。家の間取りを考えて、早くこちらにこないかな、なんて考えると日が来るとは思わなかった。


 ドアを開ける音が聞こえた。これが、この部屋のドアの音だ。


「おはようございます」


 彼女が近くにきた気配がする。何か甘い匂いがする。


 僕の疑問が伝わったのか、彼女が答えた。


「果物をとってきていたのです。この家の周りに、私の好きな果物があって…ちょうどよく熟れている様子でしたので、収穫しておりました」


 机に何か置いたようで、コトンと音がした。


「体調はどうですか?」


 今日も落ち着いた彼女の声。


 そっと左手をとられる。握っているのは、手ではなく手首だった。脈でも測っているのだろうか。


「…大丈夫そうですね。何か問題はありますか?」


 彼女の質問に、首を横に振る。たった1日だが、彼女が僕のことを心から心配してくれているのがわかる。少しでも良くなるように、と思ってくれていることが伝わってくる。誰かに心配されるって、こんな感覚だっただろうか。


「では、今日もまた治療をしてもよろしいでしょうか」


 彼女は質問して、僕の答えを待つ。同意を彼女に伝える。今出来るのは、一つ頷くだけ。


 「何か辛い症状は何かありますか?痛みを強く感じるところなどあれば、そちらの治療を優先します」 


 どこかありますか?と聞いて、彼女は黙った。僕の返答を待っている。一番…。一番辛いことは、なんなんだろう。辛いことも何もかも、もう全部諦めて受け入れて考えていなかった。一番も二番も三番も、考えるのはやめていた。


 固まったまま考えていると、遠慮がちに声がかけられた。


「…もし、よければ。私の希望を口にしても?」


 特に希望はなかったので、頷いて、彼女の言葉の続きを待った。


「私は…。その、出来れば、ジェット様ともっと明確に意志疎通出来ると嬉しいです。もっと、ジェット様のご希望に沿いたいです。ですので…話せるようにする治療を優先できれば、と…」


 そうすれば、ご希望を叶えられますから、と付け加えるように彼女は言った。言葉を交わして、意思を通わせる。そうだ、それが良い。


 本当はブンブンと首を振りたかったが、もちろん今そんなことを出来るはずもなく。ゆったりと一つ、頷く。


「今日すぐに話せるようになるのは、難しいと思います。まずは、飲んで、食べられるに…よろしいですか?」


 少しだけ、躊躇いがちに聞かれた。何かを飲んだり、食べたり…。ベッドから動かなくなって、何かを食べることはなくなった。食べたいと言う気持ちもなくなり、医師の診断でも、不思議なことに、口から栄養をとらないでも問題ないのかもしれません、と言われた。そして、その後に口から何かを飲むことが出来なくなり、薬の類いを飲むことも出来なくなった。また、何かを口にする日がくるのか。


 静かに返答を待つ彼女へもちろん、という気持ちを込めて頷いた。


「では…始めますね」


 そういえば、とふと思った。彼女は的確に治療箇所を指定するようだが、どうやっているのだろう…。


 彼女の両手が顔に添えられているようだった。暖かい感覚がじんわりと広がっていく。冷えて、凍ったところが、暖かくなって溶けていくような…そんな感覚だった。


「口も、舌もうまく動かない状態なのだと思います。うまく、動くように…」


 飲み込むことが出来るように、と彼女の声は続いた。


「ここまでです」


 彼女の両手が外される。


「…どうですか、何かを変化はありますか?」


 変化…と言われて昔の感覚をおもいだす。何かを口にいれる…それってどんな感覚だったろう?と思いながら、口と舌と喉に意識をむけてみる。確かに、違う感覚を感じる。そういえば、最後はむせたり、口もうまく動かず、口から零れ落ちるだけになっていた気がする。


 ゆっくりと頷いてみせる。言われたとおり確かに変化を感じた。


「お水をもってきますね」


 彼女がどこかにいき、急いだ様子で戻ってきたようだった。


「…コップから飲むのは、難しそうに思いますね」


 暫しの沈黙の後、あの、嫌でしたら、やめますから、と申し訳なさそうに告げられた。何がだろう…水を飲むこと?


 どういうことだろう…と考えていると、首の後ろに手を入れられて、少し上を向く形になる。


「…口移ししか、思い付きません」


 …えっと。


「舌がうまく動かなくても、私の舌で口の奥に水を送って、飲みやすくすることが出来ると思うんです」


……えーっと?


「嫌でしたらやめます」


 どうしますか?と聞かれた。


 ここ数年まともに使われていなかった僕の頭がフル稼働した気がする。どうする?どうするって、え、口移し?しかも、舌?…え、それって…。ええ?


 色々考えた結果、僕は深く考えることはやめた。これは医療行為だ。出会って2日目の女の子とキスするんじゃない。…声から勝手に思っていたが、女の子だよな?名前も女性的だし。いや、そうじゃなくて…。医療行為。怪我に包帯を巻くのと同じ。実際彼女の聞き方はそれに近いものである。…気がする。


 包帯巻いときますか?の答えなら、お願いします、だ。


 ゆっくりと、頷いた。


 それを確認した彼女が、コップの水を飲み、近くの机にコップを置いた気配がした。彼女の髪が、顔に触れるのを感じる。顎に指の触れる感覚を感じる。あ、ファーストキスかも、と思っていると、口が塞がれる。


 結論から言うと、数年振りに水は飲んだ。最初ちょっとむせて、僕も彼女も焦った。それでも続けてとお願いして…もちろん首を振るだけで。水を飲んだが、味は全くわからなかった。それは味が麻痺してるからなのか、別の理由なのかはわからない。


 彼女は少し嬉しそうに、良かったです、次は果実があるので、果実水にしますね、と言っていて。あ、また、やるんだ。そりゃそうか、とボーッと思った。


 そこから数日はゆったりとした日々が流れた。口移しだったのは数回だけで、その後はコップからいただいた。彼女は僕の様子を見て、僕に聞きながら、色々なことをしてくれている。手をマッサージしてくれたり、体勢を変えてくれたり。


 この数日で感じたことは、最初に言っていた通り、彼女は住み込みで働いているのだと思う。どう考えてもどこかに帰る様子はない。彼女の質問に答えることはできても、質問することはできない。なかなかこの状況はもどかしい。


 少しずつ色々なところがよくなっていくのを感じる。思考も少しずつクリアになっていく気がする。考えることが増えてきたのは、彼女の治療のお陰なのか、誰かが近くにいて話しかけられるからなのか。そんな色んなことを考えながら、さらに数日経った。


 今日はいける、いける気がする。僕は心の中で勇んでいた。今日だ、今日にする。


 足音が聞こえ、近くで止まる。コンコン、とノック音が聞こえる。いつからか、彼女は律儀にノックするようになった。


「ジェット様、失礼いたします」


 カチャリとドアを開けて入ってきたのだろう。彼女が近くにきた気配がした。


「おはようございます、ジェット様」


 彼女のいつもの挨拶だ。彼女のこの声で、1日が変わったことを知る。1日の始まり。だから、このタイミングが良い、ここにしよう、と思った。


「オニキス、おはよう」


 こっそり練習を重ねた成果を出せた。実は、数日前から声を出すことができた。だが、たどたどしく話すのはなぁ…などというくだらないプライドをもってしまい、彼女のいないときを見計らって練習してきたのだ。


 反応を示さない彼女に、心の中でふふん、と鼻高々になりながら付け加える。


「びっくりしたかい?」


 ふふっと小さい笑い声が響いた。


「はい…やっぱりあなたは凄いですね。小さい時から変わらないって言われませんか?」


 やっぱり?それに、小さい時から変わらない?


「…ああ、そんなことを言われたこともあったような」


 近年は引きこもっていたので、あまりそういう話はしてなかったのだが、家族といたときは、使用人にそういうことを言うものもいたような気がする。だが、彼女が知っているはずがない。


「…そんなに子供っぽかった?」


「いえ、そういう意味ではなく…。良いところだな、と思っております。私にとっては、とても素敵だと感じるところです」


 ふむ?なんとも要領を得ない話に感じたが、彼女は喜んでいそうなので大成功といっていいだろう。


「なら、こっそり練習したかいがあったな」


「練習?」


「そう。最初に君に聞かせる言葉がたどたどしいのはカッコ悪いだろ?」


 カッコ悪い…という呟くような声が聞こえた。だって、あまりにカッコ悪い。


 しばしその言葉を噛み締めたらしく、また、ふふふ、と笑い声が聞こえてきた。


「やっぱり…あなたは凄いですね」


 はたしてこれは褒められてるのか、馬鹿にされているのか。判断が難しいと感じるのは僕だけだろうか。でも、彼女の今までの態度から、馬鹿にするような意味はないのだろう、と思えた。結構天然なのかもしれない。


 だって、カッコ悪いだろう。初めて口にする彼女の名前くらい、カッコつけて呼ばせてほしい。


「君が喜んで…笑ってくれるなら、良かった」


 コソ練をしたかいがあるものだ。


「ずっと話してなかったのですから、たどたどしくてもカッコ悪いとは思いません。でも、練習して見事にお話されるのは、カッコいいですね」


 まるで子供への褒め言葉のようだった。でも、その台詞には嘲る雰囲気なんて一つもなくて、彼女にとっては純粋な賞賛なのだろう。なんというか…彼女は真っ直ぐなのだ。


「そうか…ありがとう」


「いえ…私の方こそ、こうしてお話出来て嬉しいですから。練習までして、ありがとうございます」


 たくさん話して大丈夫ですか?と聞かれたので、問題ないことを伝えた。彼女の治療はとてもよく効いている。お陰で最近は長く起きていることが出来る。


「体調に問題なければ、治療を始めても良いですか?」


「ああ、そのことなんだけど…」


 彼女と言葉を交わせるようになったら、まずこれを伝えたかった。


「オニキス、僕の視力を回復させることはできる?」


 僕の言葉に、彼女が息を飲んだのがわかった。


「それは…出来る、と思います」


「じゃあ、お願いしたい。他も辛いところがないという訳じゃないけど、いまは視力からお願いしたいんだ」


 彼女はそこで黙ってしまった。優しい人だな、と思った。嘘のつけない、優しい人だ。


「大丈夫だよ、わかってるから。僕の見た目がひどいから、気にしてくれてるんだろう?」


 最後に記憶している僕の体は醜いものだった。体の不調は、最初は痣のようなものから始まった。なんだろう、と思っていると、それが少しずつ痛むようになってきた。それがどんどん身体中に拡がっていき…。


「君が視力の前に、治そうとしてくれてるものがあるのはわかってるよ。コブみたいのがたくさん出来て、なかなかひどいもんだろう?」


 痣が出来たところが、皮膚が爛れたようになった。その頃には骨まで軋むような痛みを伴うようにやっていた。最後にはコブのようにぼこぼことなり、古い木のようだな、と思っていた。


「本当に大丈夫だよ…そんなに気にしてないし。君が治してくれるんだろう?」


 そりゃあ、見た目が気にならないと言ったら嘘になる…。でも、それより、痛みの方が辛かった。こうなってからはほとんど人とも会っていなかった。


「それは…もちろん、そのつもりです」


「じゃあ、問題ない。僕のかっこよさはそんなことじゃ損なわれないからね」


 ふふ、とふざけて言うと、彼女にカッコいいですね、と真面目に言われてしまった。そんな反応をされると、こちらが恥ずかしくなってしまう。


「ほんというとね、見たいんだ」


「見たい…何をでしょうか?」


「君の顔だよ、オニキス」


 声を聞きながら、想像せずにはいられなかった。彼女はいまどんな顔で話してる?どんな顔で本を読んでくれている?どんな風に笑ってくれた?


「それは…ご期待に沿えるかどうか」


「ははっ、ご期待なんて、そんなこと気にしなくて良いよ。ただ、どんな顔で話してるのかなって気になってるだけだから。目を合わせて、話したいんだよ」


 彼女の顔が見たいなんて言い方は良くなかったかもしれない。別に彼女が可愛いとか可愛くないとか、そんなことは関係ない。関係ないが…。勝手な想像だが、声と性格から可愛いんだろうなぁ、と心の隅で思っていた。思うくらいは自由であろう。


「視力の回復を優先することは可能です。ただ…昨日の夜は足の痛みが強くでていたようなので…そちらは大丈夫ですか?」


 それを言われて昨夜のことを思い出す。昨日は地獄だった…。


 彼女のお陰でかなり調子はよくなった。しかし、夜になると調子が悪くなることが多かった。息苦しく起きることは減ってきたが、どこかが痛くて目が覚めることは相変わらずだった。足の痛みに起きると、どんどん痛みが強くなっていった。彼女は側にいなかったようだが、すぐにやってきた。初日にどうにかします、という言葉は本当で、僕の側を離れるとき僕の左手に彼女は何かを巻くようになった。どうやらそれを通じて、何かあるとわかるようで、すぐに気付いて彼女はやってきてくれた。側にくると、痛みをやわらげてくれた。


 昨夜はそれでもかなり強い痛みだったようで、痛みがなくなることはなかった。なかなか収まる気配がなく、強く歯を食い縛ったときに口の端でも噛んだのか、血の味がした。


 ジェット様、と呼んでくれる彼女の声にどれだけ救われたか。いつの間にか強く握りしめていたらしい左手を、彼女の手が優しくほどいて握ってくれた。無意識に力が入って、爪が食い込んでいることに気付いて力を抜こうとすると、強く握り返して、大丈夫ですよ、と言ったくれた。


 そんな夜が一回や二回じゃない。苦しければ、背中をそっと擦りながら、大丈夫ですか、と聞いてくれた。体制を変えた方が楽かもしれません、と彼女の体に寄りかかるようにもしてくれた。彼女は一晩中だってそうしてくれた。


「落ち着いてるよ、大丈夫。君の方こそ大丈夫?毎晩のように僕に付き合って…」


「私は意外と寝てますよ、ご安心ください」


 そこでふと、思い出した。ずっと気になっていた。


「そうえいば…君はここに住み込みで…ずっといるよね?」


「ええ、そうです」


「僕の記憶では、ベットは一つだと思うんだけど…。ベットってこのベット以外にあったっけ?」


「いえ」


 いえ?


「え…君はどうしてるの?」


「ソファーがありますので、そこに。夜営は得意ですので、たまに外で」


 はい?


「…それは僕を驚かせようとして、冗談を言ってる?」


「驚き…ましたか?では、それで」


 ではそれで?


「いやいやいや。確か余ってる部屋はあるよね?ベットも置けるぐらいの広さだったよね?」


「そうですね、置けそうなお部屋はあります。お掃除もしております」


 うん、それはありがとう。


「すぐベットを買い足そう。そこに置いて、君が使って」


「必要ですか?」


「必要でしょう」


「そう…ですか?」


「そうです」


「…では、準備します」


 彼女がきて何日経った?僕は何日彼女をソファーで寝かせてた?


 僕がなにも言わなくなったので、この話は終わったと判断したらしく、視力を…と、彼女は呟いた。


「すぐには難しいと思います。少しずつ…調整しながらになると思います」


「…あ、ああ。もちろんいつも通り少しずつで構わないよ」


 まだまだ聞きたいことは合ったが、彼女は早速、という様子で今日の午前の治療を開始するようだ。まだ気になることはあったが、すぐに全てを聞く必要はない。目は閉じててください、と言われて目を閉じた。目にいつもの暖かさを感じる。何度も助けられた優しい暖かさだった。


「きっと、最初は光がうっすらわかるとか…その程度かと思います」


 言われた通り目をつぶりながら話した。


「わかった。…そういえば、いつも気になってたんだけど。オニキスは魔法を使ってるんだよね?」


「そうです、治癒魔法の一つです」


「誰も原因もわらないし、治療方法もないって言われたんだけどな。ましてや治癒魔法なんて、全く効果がなかったんだけど」


「そう…ですか。…すぐに来ることが出来ず、すみません」


「いや、そうじゃなくて…ただの治癒魔法だとは思えなくて、本当に魔法なのかと信じられない気持ち、というか」


「そうですか…あまり他人の治癒魔法は見たことないので…。ただ、使える者は少ないかもしれませんね」


 話しながらも治療は続けられる。


「魔法はそんなに得意じゃないから詳しくわからないけど…魔力の制御、凄いよね」


 治癒魔法だろうとは思っていたが、聞いてしまった理由は流れる魔力だ。以前治癒魔法は使われたことがある。だが、その時の治癒魔法より流れる魔力が柔らかく優しく、緩やかに感じる。治癒魔法はもっと…こう、ぐわっと強く魔力が流れる感じだった。だから最初は魔法じゃない別なものかと思ったのだ。


「魔力制御が肝になっています。おそらく効かなかったのは、制御が甘かったのだと思います。多すぎても、少なすぎてもダメですね」


 うん。簡単に言うけど、それがとても難しいことは僕だって知ってる。


「終わりです。目を開けても良いですよ」


 少しだけ期待しながら目を開ける。


「…特にかわりないでしょう?」


「うん」


 彼女に言われて素直に答える。


「ふふっ、残念ながら、時間がかかると思います。…カーテンを開けましょう、光は感じるかもしれません」

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