『波間の声』
2003年、晩夏。
潮風が吹く午後の海岸沿いに、一組のカップルが車を停めた。
泰造と一果。
付き合って2年目。普段は仲の良い二人だったが、この日は車内の空気が重かった。
「だからさ、なんであの子とメッセージしてたの?」
「ただの相談だって言ってるだろ。疑いすぎなんだよ」
一果は口をつぐみ、窓の外の灰色の海を見つめた。
空は曇りがちで、波はいつもより高く、不穏な音を立てて打ち寄せている。
「……ちょっと散歩してくる」
そう言って一果は先に車を降りた。
泰造もため息をつき、数分後に後を追った。
すると、一果の姿が波打ち際で小さく揺れていた。
「おい、あぶないぞ。そんなとこまで行くなよ!」
彼女は振り返ったが、何も言わず、じっと海の中を見つめている。
「何してるんだ?」
「……あそこ、誰かいる」
泰造も海を見た。
遠く、波間に何かが浮かんでいた。……人影?
「まさか……溺れてる? いや、まさか」
二人は急いで浜を走った。しかし走っても走っても、その影には近づけなかった。
まるで距離が一定に保たれているかのように。
そして――
ザブン。
唐突に、影が海から消えた。
その瞬間、一果の足元に何かが触れた。
「ひっ……!!」
彼女は後ろに倒れ、泰造が駆け寄る。
「どうした!? 大丈夫か!? 何があった!?」
「……手……誰かの手が、足を掴んだ……!」
泰造は周囲を見渡した。が、誰もいない。
海は先ほどよりも静かになっていた。
翌日
泰造は一果を気遣いながら、自宅のパソコンでこの海岸の事故歴を調べていた。
すると2001年――2年前の夏、この海でカップルが心中未遂をした事件がヒットした。
男は助かり、女は行方不明のまま。
男はその後すぐに引っ越し、消息不明。
女の名前は――一果。
「……え?」
泰造は一瞬、目を疑った。
そこに映る古い新聞記事の写真には、今隣にいる彼女にそっくりな少女が写っていた。
だが、それ以上に奇妙なのは……
自分の名前まで、“泰造”と書かれていたことだった。
数時間後
泰造が気づいた時、車は再びあの海岸沿いに停まっていた。
運転していたのは――一果。
「……ねぇ、思い出した?」
静かに、彼女が言う。
「私たち、あのとき死んだの。
でもあんただけ、逃げたのよ」
泰造は言葉を失った。
あの海に、何かを置いてきた記憶が、ざわりと蘇る。
「じゃあ……今の僕は……」
「ようやく戻ってきたのよ、あの日の続きをしに」
波の音が、不気味に、嬉しそうに笑っていた。
【終】