#5 温室の求婚 1
ここは、王宮の奥にある、王妃様の特別な温室。
きらきらと輝く初夏の日差しが、ガラスを通じて降り注いでいます。
光は、植物の葉脈を透かして万華鏡のように反射し、そこに秘められた魔力の輝きを浮かび上がらせるかのようでした。
棚には、色とりどりの花が咲き乱れていますが、そのどれもがただの植物ではありません。
甘い香りで誘う聖なる紅薔薇。茎には目に見えない小さな棘が無数に生えていて触れる者の魔力を吸い取ろうとしています。
淡い紫の花弁の月乙女の吐息。夜になるとその花粉が宙を舞い、知らぬ間に意識を朦朧とさせるという、珍しい毒花です。
中央にある高い台の上に鎮座するのは、黄金色の葉を持つ伝説の薬草、賢者の蔦。育てることがとても難しく、邪悪な目的を抱く者は近づくことさえできないと伝えられていて……。
そのほかにも、ひっそりと佇む古代の花や、触れると幻を見ると言われる不思議な草などが、密やかな存在感を放ちながら並んでいました。
それらが調和しながらも、互いにその存在感を主張するかのように、温室内を支配していました。
香りの層が幾重にも重なり、息をするたびに甘く、時に刺すような匂いが鼻腔をくすぐります。
まるでこの空間自体が生きているかのようです。
これほどの魔法植物が揃う場所に入るのは初めての経験で、わたくしは、その美しさと危うさに圧倒されながら、膝の上で震える手をなんとか隠そうと試みました。
ここで試されるとしたら、わたくしは大丈夫でしょうか?
この植物たちの名前や特性、さらにはどのように魔力を引き出すのかを問われたら、果たして合格できるでしょうか?
わたくしの中の知識と訓練が、この瞬間に意味を持つのだと思うと、ますます胸が苦しくなってきます。
「アリシア、そんなに緊張しなくても大丈夫だ。落ち着いて、静かに吸って、吐いて……。」
わたくしの上に6人いる兄のうち,2番目のバスチアンお兄様が今日の付き添いです。
お兄様の優しい声に、けれどもわたくしは小さく首を横に振りました。
「わ、わ、わたくし、お、落ち着いておりますわ、バスチアンお兄様!」
声を張り上げてしまった自分に少し驚きながらも、わたくしは顔を赤らめます。
そもそもこんなに美しくも危うい場所で、深呼吸など、とてもできませんわ!
「全然落ち着いてないぞ、さっきからなぜぶつぶつ呪文を呟いているのだ。」
「だ…だって……公爵様がどの魔法の力を御所望になるか、わからな……」
「アリシア! 公爵殿は、見合いの席でおまえに魔術の試験をするような無粋なことはなさらない。
そんなことは心配しなくてよいのだ!」
「で……でも……お兄様っ!」
緊張で涙ぐむわたくしの肩を、バスチアンお兄様がそっと引き寄せます。
「気楽に行け。アリシア、おまえはまあまあ可愛い。心配するな。」
お兄様は笑みを浮かべながら、わたくしの前髪をそっと整えました。
「それにな。海には魚がたくさんいるだろう。
同じくらい世界には結婚したがってる男も数限りなくいる。
もし今回の縁が思うように運ばなくても、このバスチアンお兄様が、世界の海を渡って、アリシアにぴったりのいいやつを探してきてやる。」
お兄様はそう優しく頼もしい声でおっしゃいました。
いつも世界を渡り歩く宮廷外務官のバスチアンお兄様にかけられる言葉は、わたくしにとって何よりの励ましです。
その瞬間――。
「それは困るな。」
温室に響いたのは、穏やかで低めのテノール。
その声は心に染み渡り、優しさの中に揺るぎない強さを感じさせ、空気そのものを支配するかのようでした。
わたくしの胸は、大きくドキリと鼓動を打ちました。
ゆっくりと視線を上げます。
そこでわたくしの目に映ったのは……。
澄んだアメジストのように輝く紫の瞳。
冬の日に塔の屋根に降り積もる雪のような、光を反射する銀の髪。
完璧に整った笑顔と、自然と滲み出る気品に満ちた立ち姿。
まあ、この方が……!
わたくしの心臓が悲鳴を上げました。
あたたかい温室にいるというのに、その瞬間、まるで稲妻に打たれたような衝撃が走りました。
「お待たせして申し訳ない。
シャルトリューズ公爵ジェラールです」
公爵様は胸に手を当て、優雅にお辞儀をなさいました。
その立ち姿はまるでこの場所が舞台であるかのように完璧で、美しさと威厳が溶け合っておりました。
ああ、美形でいらっしゃるというのは、本当のことでしたのね!
はっ!
公爵様がお立ちになっているのに、わたくしったら……!
わたくしは慌てて立ち上がり、淑女の礼をとります。
「失礼いたしました。
フレアベリー侯爵家長女アリシアにございます。
閣下にお目にかかれますことを、たいへん光栄に存じます。」
ゆっくりと姿勢を戻し、公爵様のお顔を見上げると、公爵様は、わたくしの所作をただひたすらに見つめていらっしゃいます。
その視線は、何かしらの感情を隠すように静かでありながら、その目の奥には、抑えきれない熱い何かが宿っているようにも感じました。
一瞬の沈黙が流れ、やがて公爵様ははっと我に返ったように息をのんでから、ようやく言葉を発します。
「ああ……どうぞジェラールとお呼びください。」
「まあ…ではわたくしも、どうぞアリシアと……」
公爵様…いえ、ジェラール様は、少し間を置いてから、小さく頷き、そしてわたくしに吸い寄せられるように一歩前に出て、まるで自分が感情を取り戻すかのように、少し力強くおっしゃいました。
「……では、アリシア嬢……早速なのだが……。」
「は、はいっ! な、なんなりとおっしゃってくださいませ!」
わたくしは慌てて答え、ジェラール様の瞳を見上げました。
心の中では、試験の第一問が始まる瞬間だと感じているのに、体がその緊張に追いついていません。
――ああ、なんて美しい瞳なのでしょう!
いいえ、いまはそんなことを考えている場合ではありませんわ!
これからジェラール様がおっしゃることは、きっとわたくしの魔術の力を試す質問に違いありません!
わたくしの内心が焦る中、ジェラール様は不意に咳払いを一つして、さらに一歩近づきました。
彼の目がまっすぐにわたくしを捉え、そして――なんと! わたくしの両手を、そっとお取りになられたのです!
「アリシア・フレアベリー嬢。」
「は、はい、ジェラール・シャルトリューズ公爵様。」
ジェラール様は、少し顔を赤らめながら、まっすぐな瞳でおっしゃいました。
「私と結婚してくださいますか?」
「はい、もちろんです……わっ……?」
「ああ、ありがとう!」
ジェラール様は、ほっとしたように息を吐かれ、紫色の瞳をきらきらと輝かせながらにっこり笑われました。
――えっ?
ええっ!?
えええっ!? ………ええええ~~っ!?
わたくしに、一体何が起きているのかしら!?
月乙女の吐息の花粉のせいでしょうか。
たった今、わ、わたくし、結婚に同意してしまいましたわ!
ええっ、本当に…?
あまりの速さに、わたくしの頭は混乱しておりますの。