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#35 迷宮で目覚める朝

アリシアです。


 朝の柔らかな光が、そっとわたくしの瞼を撫でていきます。

 意識がゆっくりと浮かび上がり、ほのかに甘い香りが鼻腔をくすぐりました。

 その香りに混ざる、どこか懐かしく落ち着くような香り――それが何かは、まだぼんやりとしていてわかりません。


 暖かさと安心感に包まれながら、わたくしは微かに身じろぎしました。

 柔らかく、力強い何かがわたくしの身体を優しく支えています。


 普段眠るベッドやソファの感触とは明らかに違う、どこか生々しいぬくもり。

 その温もりから、力強く規則正しい鼓動の音が静かに響いてきました。


 そっと瞼を開けると、目の前には布越しにもわかる逞しい胸板。

 呼吸に合わせてわずかに上下する胸の動きが伝わり、穏やかな鼓動がわたくしの身体に心地よく響きます。


「……え?」


 次第に意識が覚醒し、状況が少しずつ理解できるようになりました。

 深い紺色のマントが、わたくしの背に掛けられている――間違いなく、ジェラール様のものです。そして、そのマントの下で、わたくしは……!


 驚きと戸惑いで息が詰まりました。

 慌てて身じろぎし、彼の腕から抜け出そうとしますが――。


「……っ!」


 ジェラール様の腕はびくともせず、わたくしをその中に留め続けました。

 その腕の強さには力ずくの厳しさではなく、まるで世界のどこにも逃げ道などないと告げる穏やかな断固たる意志が宿っています。


 恐る恐る顔を上げると、ジェラール様は目を閉じたまま、彫像のように微動だにせず、わたくしを守るように抱きかかえた姿勢でソファに座っていらっしゃいました。


 その表情は穏やかで、どこか荘厳さすら漂わせています。

 わたくしの鼓動が激しく高鳴り、その音が耳にまで響いてきそうでした。


 どうしてジェラール様がここに?  わたくしを抱きしめるようにして眠っていらっしゃるの?


 驚きと戸惑いで視線を巡らせました。

 見慣れた四阿(あずまや)の柱と天蓋が目に入ります。

 この場所――やはり、わたくしの迷宮の四阿で間違いありませんわ。


 再び身じろぎして、どうにか彼の腕から抜け出そうと試みます。


「また逃げようとしているのか?」


 低く、穏やかな声が耳元で響きます。

 その響きに、わたくしの身体が一瞬にして硬直しました。


 ジェラール様がゆっくりと瞼を開き、わたくしを見つめました。

 朝の光を受けたアメジストの瞳が優しく輝き、ほんの少しからかうような色を含んでいます。


「お目覚めですか……酔いどれ魔女さん。」


「……ジェラール様?」


 ようやく搾り出した声は、はっきりと震えていました。

 彼の腕の中にいるという事実に胸が早鐘を打ち、顔が熱くなっていくのを感じました。


「わたくし……どうしてここに……?」


 彼の口元が微かに緩みます。

 その艶やかな表情にわたくしは顔を赤らめました。

 自分がどれほど無防備だったのか――考えただけで、居たたまれなくなります。


「君がここにいる理由を……俺に聞くの?」


 彼は微かに口角を上げて、からかうように言いました。

 ジェラール様の言葉遣いも、眼差しも、その腕のぬくもりも、すべてが、今までになくわたくしとの距離を容赦なく詰められている気がしました。


「まさか王宮で……転移魔法を使うとは思わなかった。君のそういう大胆なところは……」


 彼は静かに手を伸ばし、わたくしの髪を一筋、指先で梳きました。

 その自然な仕草に、顔が熱くなるのを感じます。


「……意外だな。でも……悪くない。」


 その言葉に、心臓がひときわ大きく鼓動しました。

 そうです、王宮内での無許可での転移魔法は厳しく禁じられています。

 けれど、あの時は……それしか方法がないような気がしたのです。


 記憶を探ります。

 たしかに王宮で転移魔法を使ったところまでは覚えていました。

 混乱して、魔力が身体から溢れ出しそうになってしまったあの瞬間……。

 噴水の水に魔力を逃がして即席で魔法陣を作りあげたところまでは。

 しかし、その先の記憶は、霧がかかったように曖昧で……。


 でも、どうしてジェラール様までここに……?


「さあ、話してもらおうかな。……なぜ俺から逃げた?」


「逃げたわけでは……」


 胸がざわめきます。


「違いますわ! 魔力が迷子になっていて……ジェラール様を傷つけるわけには参りませんでしたから……」


 必死に言い訳を並べるわたくしに、彼は深くため息をつきました。


「君が何を恐れたのかは知らないが、俺は慣れているよ――怪我にはね。」


 その一言がわたくしの胸に深く刺さります。

 彼の穏やかな声にはどこか鋭い現実味があり、これまでの騎士としての戦いが彼の口調から滲んでいるようでした。

 思わず視線を伏せると、ジェラール様の身体に無数の傷が走っているのに気づきました。

 特に脚や腕には新しい切り傷や噛み跡があり、多量の血が滲んでいます。


「ジェラール様……そのお怪我……!」


「かすり傷だ。ただ、少々乱暴な歓迎を受けただけだよ――薔薇と猫にね。」


 彼は軽く肩をすくめて笑われました。その笑顔が胸を締めつけます。


「動かないでくださいませ。」


 わたくしは身を起して、そっと手をかざし、魔力を集中させました。

 柔らかな光が指先から彼の左手の甲にあった小さな引っかき傷を包み込み、切り傷がゆっくりと塞がっていきます。


「……驚いたな。」


 ジェラール様の声には、ほんの少しの驚きと称賛が混じっていました。


「君は治癒魔法まで使いこなせるのか。」


「いいえ。得意ではございませんわ。」


 わたくしは控えめに微笑みながら、そっと手を引き、身を起こし、立ち上がりました。


 そうです。

 まだ片手の切り傷をひとつ治しただけですもの。

 ジェラール様の身体には、まだまだたくさんの傷があるようですわ。

 わたくしはジェラール様に言いました。


「ですから……脱いでくださいませ。」


「……何だと?」


 ジェラール様の低い声は、先ほどまでの落ち着いたものとは異なり、明らかに警戒心を帯びていました。

 彼は怯えた子どものように目を見開き、わずかに後ずさります。

 その姿は、まるでわたくしが恐ろしい敵でもあるかのようでした。


「ジェラール様。」


 わたくしはきっぱりと言いました。


「わたくし、治癒はあまり得意ではないと申し上げましたでしょう?

  傷口に直接触れないと上手に治せませんの。さあ早く!」


 

ありがとうございます。

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