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#34 扉と薔薇と猫

 

 迷宮の石のアーチを潜りぬけると、冷えた夜気が肌を撫で、甘やかな花の香りが漂ってきた。

 道が変わる迷宮は昼間でも落ち着かないものだが、夜の星空の下では、まるで壮大な試練を乗り越えようとしているような気分になる。

 先に待つものが何であれ、進むしかない。

 

 さらに一歩足を踏み入れると、周囲は緑に包まれた薄暗い空間に変わった。


 月光が届かないその中では、植物が妖しく光を放ち、迷宮全体がまるで生き物のようにうごめいている。

 歩みを進めるたびに、アリシアの気配を探そうとしたが、迷宮を覆う魔力がそれを妨げているようだった。


 『アリシアの香り』をひと吹きしてみる。すると、目の前の景色が少し明るさを増した。



 まっすぐと一本の道を進んだ先には重厚な木の扉が行き先を阻んでいた。

 後ろを振り返ると、道はない。


「この鍵は……アレか?」


 仕方ない。深呼吸して腹を括ると、俺は大声で叫んだ。


「『バスチアンお兄様、大好き!』」


 扉の向こうまで届きそうなほど全力を出したつもりだが、扉は微動だにしない。

 ……何かが違うのか?


 イントネーションを変え、繰り返し叫んでみるが状況は変わらない。

 恥ずかしさも最初の数回で麻痺していった。

 それどころか、次第に自分でも「本当にバスチアンが好きなんじゃないか」と錯覚しそうで妙な気分だ。


 様々に試していくうちに、結局この鍵は、『バスチアンお兄様、大好き!』ではなく、『恋愛小説の朗読』であったことがわかる。

 バスチアンのせいで羞恥心がおかしくなっていたからか、恋愛小説の嘘くさい騎士の台詞を読み上げるのには、最早何の抵抗も感じなかった。

 慣れというのは恐ろしいものだ。


 扉を抜けると、そこは恋蔓薔薇(ラブシャーヴァイン)の小道だった。

 道の左右に植えられている恋蔓薔薇は、左右からいくつもの蔦をくねらせて、俺の不埒な心を探るようにうごめいている。

 エミールは差し芽で増やしたと言っていたが、少し増やし過ぎではないだろうか。

 慎重に進みながら、心を落ち着けて、「俺は彼女を助けに来た。ただそれだけだ」と自分に……そして薔薇に、言い聞かせる。

 薔薇の蔓が、俺の頬や体を撫でまわしていく。

 そのとき一本の蔓が突如として激しく動き出し、俺の足元を絡め取った。


「おい! 俺のどこが不埒だというんだ!」


 蔓は俺の心をさらに深く探るように締め付けを強める。

 蔓に無数についた棘が容赦なく布を裂き、皮膚を破って食い込んでくる。

 異国の物語に登場する勇敢な王子は、茨を聖剣でなぎ倒して眠り続ける姫を救ったと言うが、この状況で剣を使える王子が心底羨ましい。

 エミールの鍵は、この薔薇を『絶対に傷つけないこと』なのだから、俺は剣を抜くことなどできないではないか。


 どうやら薔薇は、俺の中にある「アリシアを助けたい」以外の何かに引っかかっているようだ。

 アリシアの姿を思い浮かべるたび、心の奥底にある「彼女を独占して、俺自身の証を刻みつけたい」という欲望は、確かに否定できない。


「……だからどうした!」


 アリシアが迷宮の中で安全に過ごしているだろうことは、俺だって薄々分かっている。

 それでも、迎えに行く必要があるんだ!

 これは決して、不埒な想いというわけではない。

 婚約者としての、大切な感情だ。

 心を無理に偽るのではなく、それを受け入れた上で、純粋な気持ちで進むしかないと覚悟を決めた。

 すると、蔦はゆっくりと動きを止め、俺を解放してくれた。


 しかしなんて馬鹿力な薔薇なんだ。骨が折れるかと思った。

 嫌な痛みが残った両脚を見下ろす。

 無事であったとはいいがたいが、幸いにもどちらも腱は切れておらず、歩行には支障がなかった。

 

 と、その先に、ふと目を凝らすと、ディミトリが放ったという夜想猫(セレナードキャット)を発見した。

 夜想猫は、月光のような毛並みを持つ小柄な魔獣で、翼を広げて空へと舞い上がる。

 そして前足で器用に抱えたヴァイオリンを奏でていた。

 その旋律は異国的で、聞いたことのないメロディだ。

 俺が一歩近づくと、その音色が急に不穏なものへと変わり、猫は鋭い目つきで俺をじっと睨んできた。


「さて……歌えというわけか。」


 俺は深く息を吸い込むと、俺はかつて吟遊詩人から聞き覚えた恋の詩を口ずさんだ。

 大丈夫だ。

 学園でも音楽の授業ではよく「声がいい」と褒められたものだ。

 ……だが、音程が時々外れることも指摘されていたことを思い出したのは、その後だった。

 最初に一音が外れた瞬間、猫が激怒したように翼を広げ、突進してくる。


「待て待て! もう一度歌うから!」


 邪悪な猫は、俺の負傷している脚に目をつけたようだ。

 これはまずい。

 思わず剣を抜きそうになったが、なんとか耐える。

 剣を鞘ごと持って猫との間に障害を作るが、猫を傷つけないようにするのが大変だ。

 咄嗟に身体を庇った左腕で、豪快に爪を研がれた上に噛みつかれた。

 夜想猫の爪の毒は、どの程度のものだったかと焦りながらも、必死に詩を調整し、冷や汗をかきながら歌い直した。

 猫は一度動きを止めて空中に舞い戻ったものの、まだ警戒を解いていない。

 可能な限り甘く、滑らかな声で歌う。息を吸い込むたびに、「アリシアの香り」が少しずつ鼻腔を刺激する。アリシアのはにかんだ笑顔が思い浮かび、歌う声に自然に熱がこもった。

 ようやく猫が満足したように空中でくるりと回って着地し、翼を畳んで足元にすり寄ってきた。

 これが飼いならしたということだろうか。



 さらに奥へ進むと再び扉が、待っていた。白く美しい大理石の扉だった。

 光を放つ植物たちがそれを覆って静かに揺れている。

 その神秘的な光景は、この緊迫しているさなかにおいても、一瞬足を止めたくなるほど美しかった。

 この扉は、『創世記』か『バスチアンお兄様、大好き!』か?

 俺はしばし考える。

 もし『創世記』だったとして、間違えたら、また最初からやり直しなのだ。

 それなら先に『バスチアンお兄様』を試すべきだろうか……?


 その瞬間、ふと気がついた。

 鍵に巡り合った順番が、何かに沿っていることに。

 香りで判断する精霊の契約、恋愛小説の音読、ラブシャーヴァイン、セレナードキャット……。

 これらの鍵をかけた者たちは、ジョルジュ、フロリアン、エミール、ディミトリ……兄弟の若い順ではないか?


 魔術というものは、数学と密接な関係を持つと言われている。それは、自然の理そのものを写し取り、そこに新しい力を引き出すための法則だからだ。

 正しい構造に基づいて組み立てられなければ、決して効果を発揮しないのだ。


 とすれば。

 次に来るべき鍵は……クリストフの仕掛けた『創世記』の暗唱ということではないか?

 きっとそうだ、間違いない。


 しかし暗唱を続けていくうちに、扉がびくともしないことに焦り始める。

 もしや『バスチアンお兄様』のほうだったのか?

 一瞬迷いが生じ、接尾辞を一つ間違えてしまう。

 その時………。

 気づけば、俺はもう迷宮の外に立っていた。


 少なくとも、『創世記』で間違いないことは分かったので、もう一度最初から挑戦することに決めた。

 そしてまた恋愛小説を読み、猫と薔薇に邪魔されながら、学院で調達した本を思い出し、記憶を頼りに創世記をうたい上げる。

 その度に変わる道筋に戸惑いながらも、何度かやり直しを繰り返して、ようやく扉が開いた。


 そしてついにバスチアンの扉がやってきた。


 それは、黄金に輝く薔薇の蔓が絡み合い、美しくも厳重に通路を塞ぐように形作られていた。精巧に編み込まれた蔓の隙間からは、向こう側の景色がちらりと覗いている。

 宝石で飾られた繊細な薔薇の花は、花びら一枚一枚が月明かりを受けるたびに煌めき、扉全体がまるで自ら発光しているかのように輝きを放っていた。


 だがこの扉の無駄な豪華さも、仕掛けられた鍵のばかばかしさも、今さら俺には何の障害にもならなかった。

 淡々とバスチアンの鍵を解除して通り抜ける。


 その瞬間、空から花びらが降り注いできた。

 フレアベリー侯爵家の花、星滴花(ステラドロップ)だ。

 ひとひらを手のひらに捕まえ、祈りを込めて口づけを落とした……。


 すると――。

 目の前に、可憐な花々に囲まれた四阿(あずまや)が現れた。

 それは淡い水彩画の色合いで彩られ、透き通るような繊細な装飾が施された、小さな夢のような四阿だった。

 まるでアリシアそのものを映し出したかのように、優美で儚げな輝きを放っている。

 俺は鍵を潜り抜けた達成感と安堵で、知らずと満面の笑みを浮かべていた。


「ようやく……見つけたぞ。」


  

 

ありがとうございます。

フレアベリー家の子息は、規則性を重視する数学系魔術師団長のパパにより、アルファベット順に名付けられています。


※年末年始、しばらく更新不定期となります。

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