#21 追跡 2
最初の手がかりを探るべく、俺とバスチアン卿はアリシアの親友であるルチア・ヴァレンシア子爵令嬢を訪ねた。
夜遅く、何の前触れもなく第一騎士団長と宮廷外務官が揃って訪れたため、当主のヴァレンシア子爵は驚いた様子を見せた。
しかし、手広く商売を営む彼はすぐにその表情を微笑みに変え、令嬢を呼び寄せた。
「夜も更けております。恐縮ですが、こちらでお話しいただけますでしょうか。」
案内されたガラス張りのサンルームには、オレンジの鉢植えが整然と並び、熟した果実の鮮やかな色彩が目を引く。
南国の果実を育てられるほど、この家の繁栄ぶりが窺える光景だった。
間もなく現れたルチア・ヴァレンシア嬢は、緊張した面持ちで淑女の礼をとると、バスチアン卿に視線を向け、少し恥じらった微笑みを浮かべた。
その仕草は親友の兄に対するものにしては、どこか親しげすぎる気もしたが……深く考える暇もない。
「このような時刻に申し訳ない。
実は先日、丘の上にあるカフェ・エリゼであなたをお見かけしました。
アリシア嬢とは非常に親しい仲と伺っています。
彼女のことで少し話を伺いたくて……。」
突然の訪問により、事態の異常さを察したのだろう。
ヴァレンシア嬢の顔色が一瞬青ざめ、震えながら答えた。
「アリシア様は今日、こちらにいらっしゃいました。
お茶をご一緒しましたが、いらしたのは日が傾き始める頃までです。
その後、馬車でお帰りになられました。」
不安げにバスチアン卿を見上げる彼女に対し、バスチアン卿が低い声で言葉を返す。
「アリシアの姿が見当たらないんだ。何か心当たりはないか?」
「……アリシア様は、楽しそうにしていらっしゃいました。
お土産に香水を差し上げたのですが、とても喜んでくださいましたわ。」
特に変わった様子は見られなかったという。
しかし、何か手掛かりはないのか。
俺は一歩踏み込み、さらに問いかける。
「そのとき、どのようなお話をされましたか?」
「あの……最近、公爵様とご婚約されたことや……。」
そう言いながら、彼女はちらりと俺を見上げた。
「それから、お好きな本の話などを……。」
「彼女に恨みを持つ者や、特別な感情を抱いている者について、何か思い当たることは?」
「特別な想い……そういえば……。 いえ、気のせいかもしれません。」
「どんな些細なことでも構わない。ぜひ教えていただきたい。」
ヴァレンシア嬢は困ったように俯き、再びバスチアン卿に救いを求めるような視線を送る。
それを受けて、バスチアン卿が優しい口調で促した。
「アリシアはフレアベリーの娘だ。
フレアベリーに恨みを持つ者も、妹に心を寄せる者も多すぎて、いちいち数えきれない。
だからこそ、親友である君が気にかかることがあるなら、話してくれないか。」
彼の言葉に、彼女は逡巡しながらも意を決したように顔を上げた。
「……モンテ侯爵家のセドリック様が……アリシア様に特別な想いを抱いていらっしゃるようです。」
その名に胸の奥がざわつく。
彼もまた、あの日、カフェ・エリゼにいて、アリシアを熱心に見つめていた。
あれは、単に美しい女性に見とれていただけではない――それ以上の想いがあったのかもしれない。
「モンテ侯爵家では、リュミエール川近くに別邸があるな。」
バスチアンが低い声で言う。
「ええ。最近大規模にお邸とお庭の改築が行われていると、出入りの業者が申しておりましたわ。
セドリック様は建築に造詣が深いと伺っておりますので……。」
「非常に参考になった。夜分に失礼した。」
礼を述べて立ち去ろうとしたその時、彼女が急に俺を呼び止めた。
「あの、公爵様。これを……」
彼女は一瞬ためらったあと、手に持っていたハンカチに小瓶の香水を軽く振りかけ、そっと差し出した。
「この香り……お好みですか?」
彼女の真剣な瞳に、一瞬言葉を失った。
なぜ、この状況で香水の好みを尋ねるのか。
戸惑いつつも、その視線の強さに抗えず、俺はしぶしぶハンカチを受け取った。
ハンカチを鼻に近づけてみる。
途端……甘美で官能的な香りが鼻腔を満たした。
隠された薔薇の蕾がほころび、花蜜が滴るような感覚。
脳裏に浮かんだのは、アリシアの微笑。
身体の奥に微かな熱が広がり、理性に霧がかかる。
息が詰まるような切なさすら感じるその香り。
再びハンカチを鼻に近づけ、深く吸い込んでしまう自分がいた。
香りが脳裏を支配し、全ての思考を塗り替える。
全身の血がどくどくと沸騰する。
幸福感と焦燥感が入り混じり、抗いがたく胸の中で暴れだす。
目の前のヴァレンシア嬢の顔がぼやけ、アリシアの顔が被った。
アリシアが幸せそうに微笑み、俺の名を甘く囁く声が耳に響く。
胸が張り裂けそうなほどの幸福が堰を切る。
あの日、礼を言われた時――その笑顔に触れたいと、何度思ったことか。
指がほんの一瞬俺の手に触れた時も、抱きしめたい衝動を必死に抑えた。
俺はいつも一歩を踏みとどまった。
だが今、その境界線が霞んでいく。
触れたい、抱きしめたい、唇を奪いたい――。
気づけば、手が自然と伸び、彼女の頬に触れようとしていた。
俺はそのまま引き寄せ、唇を――。
「ジェラール、やめろ!」
鋭い声が飛び、肩を力強く掴まれる。
ハッと我に返ると、目の前に立つバスチアンの険しい顔が視界に入った。
「何をしている……!」
彼は俺を睨みつけるようにして、ヴァレンシア嬢の前に立ちはだかっていた。
なぜかヴァレンシア嬢が「す、すみません……」と小さく謝罪の言葉を口にし、怯えた様子でバスチアンの背に隠れる。
すぐに彼女が別の香水を取り出し、周囲に振りまくと、ミントの鮮烈な香りが広がった。
それはまるで理性を取り戻す冷水のようで、胸を掴んでいた異様な衝動が霧散していくのを感じた。
「これは……何だ……! 媚薬か?」
怒りを抑えつつ、俺はハンカチを彼女に突きつけた。
彼女は一瞬怯んだが、震える声で否定する。
「違います! これは……アリシア様の香りですわ!」
「アリシア嬢の……香り?」
「ええ。正確には、アリシア様が恋をした時に纏う……その感情を写し取ったものなんです。」
ヴァレンシア嬢は震える声で言葉を続けた。
「ですから、これは、アリシア様を特別な存在だと感じている者だけに強く作用します。
そして……今、アリシア様ご自身がこの香水を持っていらっしゃるのです!」
彼女の瞳には、不安と焦燥の色が滲んでいた。
「どうか、お願いします!
アリシア様に心惹かれている者がこの香りに近づけば、何か取り返しのつかないことが起きてしまいます!
早く、アリシア様を見つけてください……!」
その切実な訴えが胸を鋭く貫く。
一刻の猶予もない。
俺は深呼吸して心を鎮めた。
頭の中で次の行動を組み立てる。
「バスチアン、急ごう!」
俺の言葉に彼は頷き、すぐに行動に移った。
頭の奥に残る香りの残像が、未だに胸をざわつかせていた。
今は、アリシアを見つけることだけが、全てだった。
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