#18 愛は星の彼方に 1
頭の奥が重く、鈍い痛みがします。
薄暗い意識の中で何かがぼんやりと霞むように漂っていました。
――ここはどこかしら?
目を開けると、まるで星空の中に浮かんでいるような感覚がわたくしを包み込みます。
見慣れない光景に息を飲みながら、恐る恐る手を動かしてみると、しっとりとした絹の感触が指先に触れました。
妙に現実的な手触りです。
天井を見上げると、夜空を描いたフレスコ画が広がっていました。
そこから柔らかな布が四方に降り、まるで星空のカーテンのように揺れています。
私を包むベッドの生地もきらめくように美しく、上質な絹で整えられた寝具が肌に心地よく触れていました。
わたくしはゆっくりと身を起こし、周囲を見渡します。
見知らぬ部屋でした。
けれどなぜか知っているような気もするのです。
壁際には繊細な彫刻が施されたドレッサー、煌びやかな香水瓶や宝石で飾られた櫛が並んでいます。
窓辺には花が飾られ、棚にはいくつかの本が置かれています。
それら全てが、すべてが手の込んだ作りですが、まるで夢の中に出てくるように、奇妙に懐かしいのです。
棚にあった本をを手に取ると、見覚えのある題名が目に飛び込んできました。
『愛は星の彼方に』
わたくしがいつもこっそり読んでいるお気に入りの恋愛小説……そのままの一冊でした。
先ほども親友のルチアが、今とても人気の本だと言っていましたわ。
わたくしは、はっとして再び辺りを見回しました。
「……そんな、まさか!」
この部屋、確かに記憶にあります。
それも現実ではなく、この本の中に描かれている主人公プリシア姫が住んでいた塔の中の部屋とそっくりに作られているのです。
胸がざわつきます。まるで物語の中に迷い込んでしまったかのような、そんな感覚にとらわれました。
窓から柔らかな光が差し込んでいることに気づき、カーテンをそっと開けてみると、さらに信じられない光景が広がっていました。
深い夜の闇の中で輝く色とりどりの花々が咲き乱れた庭園が広がっています。
花々の間を通り抜けるようにして、光の粒が舞う蝶たちが幻想的に飛び交っています。
庭園全体が、まるで星空が地上に降りてきたかのような微かな光で包まれていました。
その先には、月の光を浴びて銀色に輝く不思議な装置がゆっくりと動いています。
その上で、白銀の光を放つ白馬、金の装飾が施された優美な鹿、そして夜空に羽ばたきそうな漆黒のペガサスが、まるで生きているかのような優雅さで軽やかに回っています。
屋根には、夜空を反射した青い絹のような布地が、風に揺れながら煌めいていました。
さらに目を凝らすと、夢の中にしか存在しないような大きなティーカップ型の乗り物が見えました。
ひとつひとつが不思議な装飾で飾られたそのカップたちは、暗闇の中でまばゆいオーロラのような光を放ちながら、静かに回っています。
その隣では、小さな観覧車が星の瞬きに合わせるように、虹色の光を帯びながらゆっくりと空へ向かって動いています。
庭園の中心には、一際目を引く塔が天高くそびえ立っていました。
月明かりを受けて銀と金の模様が一層鮮やかに浮かび上がり、その輝きが夜の静寂を照らしています。
その周りでは、漆黒の羽根に虹色の輝きを宿した鳥が優雅に飛び回り、夜空のキャンバスにきらめく軌跡を描いていました。
「ここは……夢?」
私は呆然とつぶやきました。
美しすぎる景色に目を奪われ、ただ立ち尽くします。
それは、見たこともない場所なのに、どこか懐かしくも忘れがたい思い出を呼び覚ますような、不思議な力がありました。
夜の空気はしっとりと肌に触れ、甘い花の香りが漂ってきます。この静けさと美しさに、夢の中に迷い込んだような気がしました。
しかし、風にそよぐ花々や、肌に触れる空気の冷たさがあまりにも現実的で、この感覚すらも夢なのか現実なのかわからなくなっていきます。
そのとき、遠くから聞こえてきた声がわたくしの耳を捉えました。
「……何てことをっ……!」
「…も……申し訳……ござ……ま…………っ!」
くぐもった怒声と誰かが殴られる音、謝罪の声が交じり合っています。
驚いたわたくしの手から本が滑り落ち、床に乾いた音を立てました。
争う声がぴたりと止まり、次の瞬間……誰かの走る足音が徐々に近づいてきました。
重く、しかしどこか焦燥感を感じさせるその音に、わたくしの鼓動が速まります。
足音は部屋のすぐ外で一瞬止まり、わたくしの息も止まります。
そしてわたくしが隠れる暇もなく、
――バタン!
その音が部屋の静寂を裂き、まるで世界全体が一瞬止まったように感じられました。
冷たい夜風が勢いよく吹き込み、わたくしの頬を撫でていきます。
後から差し込む月明かりがその人物のシルエットを際立たせ、彼の存在を告げていました。
黄金色の髪が乱れ、クラバットは無造作に解け、しわになったシャツの胸元がはだけています。
首筋と鎖骨のあたりには紅の跡がいくつも散り、風の中に漂う香りは、甘ったるい香水と汗が混じりあい、どこか退廃的な気配を放っています。
彼がここに来る直前まで別の世界で艶めかしい時間を過ごしていたことを、そして彼がどれほど混乱と焦燥の中で駆けつけたかを物語っているようでした。
目の前の彼は乱れた息をつきながら、吐き出される荒い息の合間に、わたくしの名前を小さく囁きました。
「アリシア……」
記憶ではいつも華やかで楽しげだった彼の声は、いまははっきりと震えていて、余裕や皮肉めいた響きなどはまるでなく、脆くも感じられました。
わたくしは何とか混乱する頭を落ち着かせようとしました。
「……セドリック…様……?」
名前を口にした途端、彼――セドリック・ド・ラ・モンテ卿は、その場にがくりと膝をつきました。
肩を上下させて荒い息をつきながら、わたくしを見上げる彼の瞳は、まるで嵐の後の海のように揺れていました。
焦りと歓び、恐れと安堵、後悔とそしてかすかな希望……その全てが一瞬にして交錯し、彼の存在全体を覆っていきます。
彼の眼差しは激しく揺れながらも、ただわたくしだけを捉え、決して離そうとしませんでした。
全てを失うことへの恐れと、唯一の希望を見つけたかのような切実さ……。
その視線の重みに、わたくしはただ立ち尽くすしかありませんでした。
読んで下さってありがとうございます!




