#15 シャルトリューズ公爵家の噂 2
「先に言っておくわ。
この話はね。囁かれていたけれど、裏を取った情報ではないの。
ですから、どこまで本当かはわからないわ。」
そう言いながら、ルチアは紅茶を口元に運び、優雅にひと口含むと、話を続けました。
「でも考えてみて?
そもそも、どうして魔獣が公爵家の敷地に現れたのかしら?
不思議じゃなくて?
魔獣が空から降ってきたという話ではないようですし、門から入るわけもない。
つまり、外部から侵入したとは考えにくいのよね。」
確かにそうかもしれませんわ。
魔獣は『突如として現れた』とされているのですもの。
「ということは、誰かが内部から……魔獣を召喚した、と考えられるのではないかしら?」
その言葉に、私はぞくりと背筋が寒くなるような感覚を覚えました。
魔獣を召喚することは、闇の魔術に属するものであり、触れてはならない禁呪とされています。
わがリュミエール王国の法典でも厳しく罰せられる行為なのです。
「それって、公爵家の使用人が……魔獣の召喚に、関係しているということ?」
ルチアは視線を落とし、紅茶をまた一口味わいました。
「さあ、どうなのかしら。」
彼女は音を立てることなくカップをソーサーに戻し、そっとテーブルに置きました。
「とりあえず、わかっている事実を整理しておくわね。
先代当主の奥方、エレノア様は後妻で、市井の出身だったそうよ。
若くてとても美しいという噂だけれど、出自を恥じていたのか、社交界にはほとんど姿を見せなかったみたい。
そうして、すぐに御息女メアリ様が生まれたらしいの。ここまではおおむね事実よ。」
「つまり、エレノア様は平民出身だけれど、美しくて控えめな方で、先代公爵様と仲睦まじかった、ということかしら?」
「さあ、どうなのかしら。」
ルチアの「さあ、どうなのかしら。」という言葉は、これで二度目です。
「実はその頃、ルシウス宰相は、隣国との交渉でとてもお忙しい時期だったのよ。
ご結婚されたものの、ほとんど公爵家に帰れなかったんじゃないかしら。
当時は国も……混乱していたから。」
ええ、わたくしたちがまだ幼かったころのことですわね。
「けれど、そんな時期にメアリ様がお生まれになったの。
ですから、つまり……。」
ルチアは言葉を一瞬切って、ふたたび紅茶を一口含みました。
「………ルシウス宰相のお子様ではないのではないかという噂があったのよ。」
「まあ……それは……!」
驚きと困惑が入り混じった思いで、私は言葉を失いました。
「ところで、その頃、公爵家には御嫡男のエドワード卿が住まわれていて、当主の代行として業務をされていたのね。」
ルチアは少し視線を落とし、静かに続けます。
「ほら、現公爵のジェラール卿も麗しい方だと評判だけれど、冷ややかでストイックな『氷雷の騎士』でしょう?」
わたくしには、ジェラール様はとても穏やかでお優しい方だという印象なのですが。
――あの静かな微笑みと、時折見せてくださるさりげない気遣い。
それでも、皆様からはどうもそういう評価をされているようでございますわね。
「それに比べて、お兄様のエドワード卿は……艶やかな雰囲気をお持ちの方で、『魔に魅入られるほどの甘やかな美貌』と評された方だったそうよ。」
「まあ……公爵家のご家族は美形が多いのですね。」
「エドワード卿とエレノア様は、年齢も近かったみたいね……つまり、そういうことよ。」
「そういうこと……って?」
わたくしが問い返すと、ルチアは少し肩をすくめながら、ふぅっとため息をつきました。
彼女の間を置く仕草が、かえって緊張感を煽ります。
「あからさまに申し上げるとね、メアリ様は……エレノア様とエドワード卿の間に生まれた子供ではないか、という話なの。」
……なんですって!?
ええと……そんなことって、本当にあるのでしょうか?
言葉が出ません。頭の中が真っ白になり、胸がざわつくような感覚が押し寄せました。
無意識のうちに、カップを握りしめてしまったのに気づいて、そっと力を抜きました。
ふと、ジェラール様が温室でおっしゃった『子を産んでほしい』という言葉が頭をよぎります。
そういえば……あのあと、何やら困ったようにジェラール様は、お話を変えられましたわ。
やはり、公爵家には特別な魔術が伝わっていて、夫婦にならなくてもお子を授かる方法があるのでしょうか……?
「でも、それだけでは、エドワード様とエレノア様が……その、密かに、お子をおつくりになった、ということにはならないのではなくて?」
私が少し戸惑いながら尋ねると、ルチアは軽く首を横に振り、話を続けました。
「メアリ様がお生まれになった後、エドワード卿が何度も神官長を訪問していたことが目撃されているの。
罪の告解をされていたのではないかしら?
時には幼いメアリ様を抱えていらしたとか。」
「罪の告解……」
何か過ちを犯したとき、その罪深い行いを悔い改める儀式ですわね。
誰にも言えない秘密を、神官に告白して浄化を求めるものですわ。
公爵家の御嫡男でしたら、やはりそれは高位の神官長に聞いていただくというのは、おかしなことではありませんが……。
「それが、噂になっていたというの?」
「ええ。それで……ついに、あの事件が起きたのよ。
だから、それは……先代公爵のルシウス宰相が嫉妬に狂い、魔獣を召喚してエレノア夫人とエドワード卿、そして幼いメアリ公女様を襲わせたんじゃないかって……!」
私はその話のあまりの生々しさに息を飲みました。
公爵家の内情がどれほど複雑であるか、想像の及ばないほどの事情が隠れているのではと思うと、息が詰まりそうです。
「なんだかこのお噂、とっても……どろどろしていますわ。
でも……わざわざ魔獣を、ご自分の邸に召喚して襲わせるなんて……?
他にもっと違う方法があるのではなくて?」
思わず口をついて出た私の疑問に、ルチアは紅茶のカップを手に取りながら、ふうっと息をつきました。
「確かにそうかもしれないわね。でも、人の心というのは、理屈では測れないものよ。」
………。
わたくし、少し、混乱してきてしまいました。
「あの……その『噂』については、なんとなく……わかった気がしますけれど。」
「ええ、これは『噂』にすぎないわ。」
「そうだとすると、その後、先代当主のルシウス様はどうなったのです?」
すると、ルチアは首を傾けて、少し考えてから言いました。
「御自害されたんじゃないかしら?
とにかく、発見者のジェラール卿が屋敷に戻ったときには血まみれだったという話よ。」
「では、召喚された魔獣はどうなったのかしら?」
「さあ……ルシウス卿か、ジェラール卿が退治したんじゃないかしら。」
「その間、使用人たちはいったい何をしていたの?」
「ほとんど生き残っていないのよ。
だけどね……アリシア。
この話、変だと思わない?」
その問いに、私は視線を伏せ、小さくうなずきました。
「すべて、おかしいわね。」
「ええ。でも正直なところ、この噂が本当かどうかは、今さらどうでもいいのよ。
恐ろしい話ではあっても、これらは過去のこと。
公爵家で起きた悲劇……ただそれだけの話にすぎないわ。」
ルチアはポットを手に取り、またお茶を注ごうとしましたが、中身がもう残っていなかったらしく、ことり、とポットを静かに元の場所に戻しました。
「ただね、アリシア。この一連の出来事で得をしたのは誰か、わかるわよね?」
見上げるとルチアの瞳がわたくしをまっすぐに捉えていました。
「得をした…?」
「ええ」
ルチアはそう頷いてから、すっとわたくしの方に身体を寄せ、わたくしの耳元に囁きました。
「将来は一代限りの子爵位が与えられるだけのはずだった御次男。――それが、今や公爵家の当主とななられたのだから……。」
一瞬の沈黙の後、ルチアはきらりとその眼を光らせて、はっきりと名を告げました。
「現公爵、ジェラール・シャルトリューズ卿よ!」
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