#10 紫雷鳥の髪飾り
ジェラール視点です。
「それで……フレアベリー侯爵令嬢にお渡しできなかったのですね?」
執事のルークが、どこか哀れむような表情でこちらを見ている。
執務机の上には、紫色のアメジストとダイヤモンドで作られた聖なる鳥、紫雷鳥をかたどった髪飾りが箱の中で静かに翼を休めていた。
燭台の揺らめく明かりを受け、その宝飾品はまるで生命を宿しているかのように輝いている。
「今日に間に合うように、職人には無理をさせたのですがね……。」
「わかっている。」
俺が短く返すと、ルークは目を細めた。
『本当にわかっているのですか?』と言いたげなその表情が、妙に癇に障る。
アリシア・フレアベリー侯爵令嬢。
彼女は、とても美しく、可憐で、純真な人だった。
初めて目にした瞬間、そう感じた。
可愛らしく、慎ましやかな、良き妻になるだろうと。それだけで十分だと、ためらうことなく求婚した。
婚約者には贈り物をすべきだ、と聞いていた。
彼女の可憐な姿にふさわしい宝飾品を、と考えたのだ。
何か自分にできることはないのか、と瞳を輝かせながら問いかけてきた、あの純粋な眼差し。
薔薇色に染まった頬を縁取る、柔らかく波打つ淡い金色の髪。
それは銀でも金でもない、美しい星の輝きを宿した色。
その髪を飾るにふさわしい髪飾りを、彼女が手紙に好きだと書いていた紫に輝く石で。
「いや……本当は……。」
ふと考える。彼女の好きな色として、手紙には薔薇色や紅色、白百合色も挙げられていたはずだ。
それでも、俺は紫を選んだ。
箱の中の髪飾りをじっと見つめる。
発注した時は、ただ彼女の髪を飾るにふさわしいものを、と考えていただけだった。
紫色に輝く翼をもつこの鳥が、アリシアの髪にとまり翼を休める姿を想像すると……それは確かに美しい光景だ。
だが同時に、胸の奥にざらついた感覚が広がる。
これは、ただの美しい鳥ではない。
紫雷鳥。それはシャルトリューズ公爵としての俺自身を象徴する存在だ。
幾度も戦場で共にあり、その名を持つこの鳥が、俺自身を映し出しているのだとしたら……。
そして俺の瞳と同じ色の宝石を使って,作られているとしたら……。
これはもはや、贈り物というより、自分そのものではないか!
不意に顔が熱くなるのを感じ、思わず箱を閉じた。
俺は、何を考えてこんなものを作らせたのだろう?
自分の象徴を、彼女に押し付けるような……そんなことを無意識にやっていたのだと気づき、羞恥で胸が軋む。
「これでは、まるで、自分を売り込んでいるようではないか……。」
燭台の明かりが微かに揺れる中、無意識のうちに漏れたため息が静寂に吸い込まれる。
その瞬間、ルークが大げさなため息をついた。
「閣下。最初からそのおつもりでは?」
思わぬ断言に顔を上げると、ルークは腕を組み、どこか呆れたような笑みを浮かべている。
その表情には、「今さら何を言っているのです?」という言葉がそのまま滲んでいた。
「贈り物というのは、相手にこちらの気持ちを伝えるためだけにするものではございません。」
ルークの言葉に、俺は箱から視線を上げる。
「何が言いたい?」
質問のつもりだったが、どこか苛立ちが滲んだ声になった。
ルークは微笑を浮かべたまま、まるで子供を諭すような調子で続けた。
「その髪飾りは、フレアベリー侯爵令嬢に、離れているときでも閣下の瞳を思い出させるためのものです。
そして御令嬢がそれを身につければ、他家の令息達はこう思うでしょう。
『これはシャルトリューズ公爵の婚約者だ。』と。」
言葉の意味を噛みしめ、箱を見つめたまま、息を吐く。
「…………いや……しかし、あまりに……直接的すぎはしないだろうか……。」
俺の怯んだ言葉に、ルークは微かに眉を動かし、それから肩をすくめた。
「それは、出会ってすぐに求婚された方のお言葉とは思えませんが。」
淡々とした指摘に、思わず顔をしかめる。
だが、どうにも返す言葉が見つからない。
「……。」
反論しようとしたが、言葉が続かない。確かに、ルークの言う通りだ。
「今日……。」
そう呟いた瞬間、心に浮かんだのは、フレアベリー邸の庭で会った彼女の姿だった。
ルークはじっとこちらを見ている。
俺はそれ以上、言葉を紡ぐことができなかった。ただ、机の上の箱に目を落とす。
彼女は、ただ可愛らしいだけの令嬢ではなかった。
純粋で、優しく、思いやりに満ちている……それは間違いない。だが、それだけではない。
彼女の瞳には、知性の光が宿っていた。何かを求め、何かを知ろうとする、そのひたむきな輝き。
それが眩しくて、目をそらすことができなかった。
彼女の言葉や仕草には、小さな秘密が幾つも隠されている。
その秘密が一つずつこぼれ落ちるたびに、俺は心を奪われていく。
あの柔らかく波打つ金色の髪。触れたら壊れてしまいそうなほど華奢な身体――そのすべてを守り、隠してしまいたいという衝動が湧き上がる。
だが、同時に。
彼女の瞳に宿る揺るがぬ強さを見るたび、こうも思うのだ。
きっと彼女は、俺の庇護など必要としていないのだ、と。
むしろ……俺が彼女を見上げるべきなのかもしれない。
そんな馬鹿げた考えすら浮かぶ。それほどまでに、彼女という存在は純粋で、美しく……。
彼女の一挙手一投足に見とれ、言葉に詰まったあの時間を、どう表現すればいいのか。
結局、どんな話題に対しても、ありきたりな言葉しか返せなかった自分の不甲斐なさが蘇る。
俺の言葉を待つように沈黙するルークに、俺はようやく短く答えた。
「……圧倒された。」
「圧倒?」
ルークが軽く首を傾げる。
俺は言葉を探すが、結局それ以上は言えず、口をつぐんだ。
「そうですか……なるほど。」
ルークがわかったような顔をして深く頷く。それを見て、俺はさらに居心地が悪くなった。
「でしたらなおのことですよ。渡さないなどということはあり得ません。
アリシア・フレアベリー侯爵令嬢は、非常に人気のあるお方です。
閣下の決断が遅れれば、他の誰かが手を差し伸べることでしょう。」
その言葉に、胸の奥が僅かにざわめくのを感じる。
それでも、俺はまだ言い訳がましく逡巡する。
「これは……戦いではない。乙女に剣を振るうわけにはいかないだろう?」
ルークはため息交じりに肩をすくめ、すかさず言い返してくる。
「何をおっしゃいます。古来より、恋と戦争は同じと申します。」
「こ……恋など……! いや、違う! これはそのようなものではないのだ!」
我ながらひどく動揺した声だった。
俺は慌てて箱に手を伸ばし、中から髪飾りをそっと取り出す。その美しい輝きを見つめながら、どうにか落ち着こうとする。
「……しかし……そうだな。次こそは渡そう……。」
ようやく決意を言葉にする。それを聞いたルークは、満足げに微笑んだ。
「ぜひそうなさってください。
贈り物を一つ手渡すことなど、求婚をすることよりはるかに容易いことでございますよ。」
軽妙な声に、つい睨み返してしまう。
「氷雷の騎士と謳われる行動力を、今こそ発揮してくださいませ。」
ルークの軽口に、俺は短く息を吐いた。
だがその言葉にどこか背中を押される感覚があるのを否定できない。




