9 来迎《らいごう》
*
雨もよいのどんよりとした空がますます暗くなっていまにも降りそうだったのに、あっという間に雲が晴れて何日ぶりかの光が差した。
その日、さわやかな風が吹いた午後のこと、ドアの外になにかの影が立った。逆光になったシルエットはとなりのアパートの屋根を透かし見せてはいたが、それが偶然のよどみではなく、意志のはたらきで凝集したものだと月村は直感した。
『真奈美だ』
夢のなかでめぐりあえた真奈美と同質の存在だ。月村ははらはらと落涙した。
「とうとう来てくれたね。ずいぶん待ったんだ」
真奈美にちがいないその空気のゆらぎはドアの外にたたずんでいた。なかへ入るのをためらっているようである。真奈美はやはり自分を迎えに来たのだと月村は思った。
「急ぐのならいますぐ行ってもかまわない。いつでも行けるようにしてあるんだ。いや、すぐ行こう」
雲が去った街から爽やかな風が真奈美を通りぬけて吹いてくる。風も光も真奈美を素通りしてくるが、しかしほんのちょっとした裂け目のような瞬間、むこうの家並みがかき消えたりする。真奈美がそこにいる。月村はますます感情を高ぶらせた。
「さあ行こう。どうしたんだ。迎えに来てくれたんじゃないのか」
月村は靴をはき、いまや真奈美の横に立っていた。
どんなレベルの存在形態かわからないが、おそらくは分子や原子、素粒子につらなるもっと先のなにかが、真奈美としてここにあるのだと月村は思った。真奈美の存在をたしかなものにしているのは、自分の存在も大きな役割を果たしているのだと漠然と月村は認識していた。それ自体としては在りながら、あまりに希薄で、ほとんど無きに等しい存在が、他者に感得されることによって存在感を増幅させているのだ。
「用意も覚悟もできている。きみの導きなら怖いことはなにもない。きみとともに時間の流れから抜け落ちることを思うと、これこそ至福だ」
月村は高ぶる感情のままにうわずった物言いをしたが、真奈美はそんな月村をたしなめるように、そっとそよいで月村のそばをはなれ、部屋のなかへ入っていった。
ふわりふわふわとただよう気配があって、やがてそれはベッドの上でたなびくように横に広がった。こんどは月村が玄関先で立ちつくした。さわやかな風が部屋のなかへ流れるのを感じて月村は吉兆かもしれないと靴をぬいだ。
ベッドのかたわらでひざまずいて手をのばす。横になった真奈美は、たゆたう蜃気楼となってそこに在った。月村は注意深く手を、そのゆらぎの輪郭にそって動かした。いま真奈美にふれてしまえば雲散霧消してしまうのではないかと怖れた。不意にゆらぎの振幅が大きくなって月村はあわてて手を引っこめた。
「きみは帰ってきてくれた。これからまた以前のふたりだけの生活がはじまるんだ。そうだろう」
月村はベッドの上をのぞきこんだが、その表情などは知る由もなかった。しかし、やすらかな寝息をたてているにちがいないと月村には感じられた。
「おかえり。待っていてほんとうによかった。もうどこにも行かないでくれ」
月村の目から大粒のなみだが落ち、とめどなくあふれてきた。肩をふるわせ、しゃくりあげながら子どものように泣きじゃくる。顔をくしゃくしゃにして涙をぬぐいもせず、月村はいま幸福であると感じていた。
*
月村は窓を開けはなしてハンモックにゆれていた。ベッドを真奈美に明け渡したのでふたたびハンモックを吊ったのだ。金具を取り替え慎重に仏壇を避けたため窮屈ではあるが寝られないことはない。
カーテンを透かす光にさそわれてそっと真奈美のベッドを見おろすと、あいかわらずそこには空気のゆらぎほどのものがそよいでいる。
『うん?』
視線をそらしかけたとき、ベッドが霞んだような気がした。目を凝らすとベッドの一部がなにかに遮られている。目を何回か擦ってみるが目のせいではない。体を起こして覗き見ると、たしかに部分的に不透明なところがある。まちがいない。
『真奈美の体だ』
月村はハンモックからおりてベッドの端に腰をおろした。
間近から見てもあまりはっきりしないが、不透明ななにものかがそこにあることだけはたしかだった。光による陰翳のみではなく、物の質感が微妙に光を屈折させていたのだ。
『こんなことが。これは夢では』
月村は錯乱した自分の意識がさらに研ぎすまされて真奈美の幻影を創ろうとしているのではと思った。いっぽうで真奈美は物理的にそこにおり、なんらかの影響を受けて可視状態に移行しつつあるのだとも思った。
あるいは複合的な現象かもしれない。しかし、いまの月村には可能的な推理などどうでもよかった。いま目に見えるものがすべてであり、由来などに意味はない。月村は神秘に紛うふしぎさをまるごと受けいれ、あらためて驚愕の目でもって真奈美を見た。
カーテンからもれる涼しげな光と真奈美はたわむれていた。光はベッドのシーツに至るはずが、すんでのところでからめとられているようでもあった。光が運動しているさまはそのまま真奈美の存在を示していた。ゆるやかな起伏がみとめられ、それは肉体のもつ微妙なカーブを連想させた。月村は恍惚となって立ちつくす。
蝉の声が遠くでしているように思った。空耳かもしれない。暑さに誘われて月村はバスルームに入った。いつものようにシャワーを浴びるだけのつもりだったが、ふと思い立ってバスタブに栓をした。ぬるま湯を浴びているうち浴槽がひたひたと満たされる。月村は肩まで浸かりながら目を閉じる。
半開きのドアからふわりと空気が漂ってくる。ひんやりしたものを感じて目をあけると、そよぎがかすかな湯気をはねのけて湯船に寄ってくる。浴室の湿度の効果か体の輪郭がそれと察せられるほどになっていた。
「マナミ!」
月村は狼狽しながらも歓喜にとらわれ我を忘れる。空気のそよぎは狭いスペースで身をよじって浴槽に忍び入ってくるようだった。月村は場所を空けようとして体を浮かす。ゆらぐ空気の層は月村の体にまつわりついてきた。月村は抵抗することなくそれを受け入れる。
だが、水に触れることで真奈美の存在が無に帰すのではないかと不安がよぎる。月村は真奈美を濡らさないように浴槽から立ち上がろうとしたが腰のあたりの自由が効かない。万力で締められているように動かない。空気のそよぎは月村の心配をよそに、ますます湯船のなかに分け入ってくる。同時に月村の体が沈み始める。手を虚空にあげてなにか掴むものをさぐる。洗面台の陶器の表面がつるりと月村の手を払いのける。腰が沈んで替わりに脚がバスタブからはみ出る。上半身がぐいと沈む。しぶきを上げて顔が水面に没しようとするとき、耳元で声がした。
「行きましょう。帰るのよ」
月村は湯の中で目を瞠る。真奈美の体がそこに見えた。はっきりと輪郭をもって重量をともなった肉の塊がそこに在った。月村はあらがうことをやめる。身体じゅうの力をぬいてなすがままに任せた。あぶくが勢いよく上昇するその先から真奈美の顔が迫ってきた。あふれんほどの笑みを湛えている。それはまさに慈愛に満ちた観音の表情だった。月村は苦しみから解放され意識をなくす刹那にも微笑んでいた。
*
冥々たる視界に浮かぶのは、にぎやかに暮れ始めた夕暮れの街を真奈美と寄り添って歩いている姿だった。アパートへの路地の入り口が見える。小さな黒い影がぽつんと立っていた。夕闇迫る街路に月村と真奈美の影が見えると小さな黒い影はうれしそうに走り寄った。
「ノア、お待たせ」
月村と真奈美と小さな猫は足取り軽くアパートへ帰っていく。
三つの影はいま、幸福で満たされていた。
了