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長夜  作者: すのへ
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8 |瑞兆《ずいちょう》



 月村は仏壇に手を合わせる毎日を過ごす。真奈美は依然としてあらわれない。しかし月村の心は幾分おだやかになってきた。病院にかよっていたころと同じような希望がもどったのだ。

 あのころは真奈美の間近で、真奈美の目がひらく瞬間を待ちつづけたのだが、いまはもう真奈美の体はない。真奈美の体を燃やした残りの骨が仏壇の隣にあるばかりである。いずれ真奈美がもどるときには、その骨がカタコト音をたてるのだろうか。どんなかたちにせよ真奈美はもどるだろう。そのときが来るまでこうして勤めを絶やさぬようにしよう。

 ノアはお気に入りのハンモックがなくなったこともあって陽気のいい日には外ですごす時間が増えた。心やすまる平穏な日々がのどかにすぎていこうとしていた。

 月村は真奈美の帰りを願う気持に希望を見いだし、その希望のうちに年老いていく自分をおぼろげながら想像することができた。とてもしずかな生活がここにあり、この時間が死ぬまで、すなわち永遠につづくことに月村は満足していた。しかし永遠の生活がはじまったとたん変事が起こった。

 残暑がおだやかになり蝉の声もまばらになった晴れた日のことだった。強い南風が吹き、歩くのにも難儀するほどの暴風だった。自転車はたおれ、洗濯物は飛ばされた。そんな日でも月村はいつもとかわらず仏壇の前で般若心経をあげたり、ごろりと寝転がって本を読んだりしていた。

 正午近くなって買い物に出ようとドアをあけて月村が外に出たとき、いつになくけたたましいカラスの鳴き声が耳にはいった。

 アパートの前がゴミ集積所になっており、生ゴミの日には朝からカラスが集まる。うれしくてたまらぬといった声で鳴いたり塀の上で奇声を発して踊ったりするのだが、きょうの声はようすが異なっていた。

 月村が二階から下を見おろすと、回収が遅れているのか、生ゴミの山がお昼近くなるというのにうずたかく積まれたままだった。ネットがかけてあるが、いくつかのゴミ袋はネットの上に放り出されてあり、カラスはそれを狙って来る。ごちそうなど見つけた日にはそれはたいへんな騒ぎである。

 いまも二羽がネットの上に陣取っている。しかし二羽とも羽を広げては悲痛な声を出して暴れている。羽をばたつかせてなにかから逃れようと必死のようだ。あの羽の下になにかがあるのだろう。網がひっかかっているのかもしれない。月村が見守っているとカラスの黒い羽の間からぼんぼりのようなものが見え隠れしている。

 やがて一羽がようやく難を逃れて飛び去ったとき、ぼんぼりの正体があきらかになった。猫の手である。猫の手が残ったカラスの足をおさえ、かみついたり引っかいたりしているのだ。その猫を見て月村はあっと驚いた。

 ノアである。

 ふだんはカラスなど相手にしないのに、きょうはどうしたことだろう。あんなに執拗に攻撃をくり返すなんてどうかしている。カラスは鳴きつづけて羽やくちばしで反撃をこころみているが、ノアが足下にはいりこんでいるため届かず、むなしく空を切るばかりだった。

 しかし、あのくちばしがはずみで当たりでもしたらノアが深手を負うだろう。放っておけないと月村は判断し、とっさに階段を駆けおりた。

 集積所に月村が目を向けたそのとき陽が一瞬翳った。反射的に空を見あげた月村は息をのんだ。まっ黒い雲が落ちてくるのだ。漆黒の闇そのものが真っ逆さまに急降下してくる。月村は腰をぬかさんばかりに驚き、頭をかばってしゃがみこんだ。

 黒い闇はけたたましい喚声をあげながら羽ばたきとともに落ちてきた。黒いものは降下したかと思うと弾かれたように浮上した。こんどはゆっくりと上昇し、羽ばたきの音だけがあわただしく聞こえる。

 月村はそろそろと顔をあげた。するとそこには何十羽ものカラスがひとかたまりになって浮いていた。浮いたカラスの群れはなにかをぶら下げている。ノアだった。ノアはカラスの群れにつかまっているのか、つかまえられているのか、両前肢をつっぱるように上にあげたかっこうで、いまや屋根の高さほどに浮いている。ノアはだらりとぶら下がったままで、カラスのかたまりはノアをぶら下げたままゆっくりと上昇し、屋根より数段上の高みにのぼった。

 ようやく月村は立ちあがり、ノアが振り落とされはしまいかと身がまえたが、またしても奇妙なことが起こった。ちょうど月村の真上にそのかたまりは浮いていたのだが、上昇をつづけるうちにノアがカラスの間にもぐりこむような動きを見せ、前肢を支点によっこらしょとカラスたちの上にのぼった。

 真下からはノアの姿が見えなくなったとき、カラスの大きな白いフンがポタポタといくつも落下した。

 やがてカラスのかたまりは方向をさだめ、まっすぐ西をさして滑空をはじめた。月村は階段をあがって黒いかたまりを目で追った。

 遠ざかるにつれてその全体のシルエットが浮かび、月村の目にはカラスどもの背に乗っかったノアの姿がはっきりと見えた。ノアは行く手をじっとみすえ、胸を反らして風を受けていた。まるで複葉機のパイロットのようだ。月村はノアを乗せたカラスの群れが視界から離れ、肉眼でとらえられなくなっても目を動かすことができず、立ちつくしていた。

 それ以来ぷっつりとノアは姿を見せなくなった。月村はあれはこの世のできごとではない、冥界を垣間見たのだと思った。

 その日から月村は以前にもまして部屋にこもるようになった。仏壇の前から動かず、食事さえ忘れがちだった。こうなってみるとノアの存在は意外に大きかったらしく孤独にさいなまれることが多くなった。寂寞感は日の入り頃がもっとも強い。夜になってしまえばかえって気持は落ちついた。

 ロウソクのやわらかい光に照らし出される世界が月村の住処だった。月村は仏壇のなかをながめているうちに不思議な感覚にとらわれた。

『目だ』

 自分のそれではなく、見られている感覚が湧出してきたのだ。掛け軸の阿弥陀如来かなと覗き見たがどうもちがう。真奈美だろうか。それもちがう気がする。よそよそしいのだ、視線の感じが。

 見られている自分が希薄になるのを感じた。体が文字どおり薄く頼りないものに変貌する。光が透過し風が吹きぬける。

 自分が目に映るすべてのものへと崩壊していく。恍惚と底しれぬ恐怖が月村の背筋をつらぬいた。なにも持続せず、なにも変化せず、あるがままのひらべったい世界に付着した染み、それがいま消えようとしていた。

「ううう」

 月村は声を出して泣いた。真奈美やノアの思い出が溢れ、もう月村には支えきれなくなってきた。月村は、真奈美は帰ってくるのではなく、自分を迎えに来るのではないかと思った。

 その夜、月村は夢の世界へさまよい出た。

 見覚えのある草原だった。いつも夢で来る場所だ。ここに真奈美がいるのかもしれない。一陣の風が吹いていく。

 バス停の掘っ建て小屋があるはずだがと、ぐるりを見まわすと真後ろにあった。ちょうどバスが来たので月村は乗った。

 月村のほかに乗客はだれもいない。バスは砂利の道に砂埃をたてて草の原をすすんだ。どこへ向かうのだろうと窓の外を見ていると、やがて視界が開けてきた。はるかかなたにキラキラと光るものが見える。海だ。

 海の近くでバスを降りようとすると、乗客はほかにいないはずなのに後ろから降りてくる者があった。運転手かなと思ったが扉が閉まるやバスが発車したので運転手ではない。

『真奈美では』

 気のせいだろうと行こうとすると、また気配がした。なにかが自分にまとわりついているような感じだ。月村はゆっくりと周囲に視線を走らせてみる。なにもない。変わったことはなにもなかった。

 砂浜に出ると見渡すかぎりだれもいない白い世界である。あてもなく砂浜を歩いていると背後でまた気配がした。はっとしてふりかえっても、そこにはだれもいない。

 その空気のゆらぎのようなものは漂いながら月村から離れなかった。なにかしら狂おしく、いとしいものである。そんな存在は真奈美を措いてほかにいなかった。月村はその場にうずくまった。

「マナミだろう。わかってる。おれはここにいる」

 あたりにはなにも見えず、気流も淀んではいなかった。ただ、あるかなきかの気配がただよっていた。あとは月村の確信があるばかりである。虚空にむかって月村は話しかけた。

「ずいぶんさがしたんだ。やっと見つけた。どれだけ待ったか」

「そうだ、きみの遺骨があるんだ。家に帰れば見られるよ」

「いっしょに帰ろう。帰って休もう」

「そうだ。ノアがね、カラスに乗って行ってしまったんだ。どこへだか知らない。まさか、きみ、いまノアといっしょにいるのか」

「帰ろう。もう心配はいらない。ふたりだけの静かな生活が待っている」

 月村はひざを立てて海を見ながら話しつづけた。波音がすこし大きくなり、月村の声に応えるように響いていた。

「ほんとにもう帰ろう。陽が落ちる前に」

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