7 |苟且《こうしょ》
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事件は夜のローカルニュースで短く報道された。ただ、詳細に触れることはなく、住宅街での異臭騒ぎで調査中とされた。状況から月村が精神に異常をきたしている可能性が高く、具体的な内容に言及するにはあまりにも凄惨すぎた。
ただ、そんな思わず目を背ける光景にもスマホのレンズは容赦なかった。月村が逃走したアパートから駅までの街路、居合わせた通行人はとっさに手に持ったスマホを月村のほうにかざすのだった。SNSで映像が拡散され、さまざまな憶測を呼んだ。
画像サイトに投稿された画像にはモザイクがかけられていたが、それでも月村が陥った陰惨なようすは伝わった。往来の人々の顔はひきつり、路上に跡を引きずったどす黒い体液の画像からは腐臭が漂ってきそうだった。事件は白昼の惨劇として好奇の目にさらされた。
新聞は住宅街で異臭騒ぎと地方欄で報じるところもあった。また一部の週刊誌は、ネットを騒がした映像を検証するかたちで記事を載せた。しかし、『鬼気迫る地獄絵図』とか『現代の伊邪那岐伝説』、『骸を抱くオルフェ』などタイトルは仰々しかったが内容自体はさえないもので、リストラ中年の悲哀と妻に先立たれた中高年の自我危機がテーマになっていた。関係者へのインタビューで、真奈美の主治医は月村について、落胆はしていたようだが常軌を逸していたとは思えないと述べ、タクシー運転手はたしかに乗せたときようすが変だったと答えた。
世間ではおおむね月村に同情的で、中高年があすは我が身と深刻に受けとめたのが特徴的だった。女性の側からはグロテスクで不快だという感想のほかに、そこまで愛されたのは羨ましい気もすると感傷的な見方もされた。
この事件に対し、世間ではおおむね月村に同情的で、中高年があすは我が身かもと深刻に受けとめたのが特徴的だった。女性の側からはグロテスクで不快だという感想のほかに、そこまで愛されたのは羨ましい気もすると感傷的な見方もされた。
一方、月村は死体遺棄ならびに死体損壊の容疑で取り調べを受けたが、言動におかしなところがあるので精神鑑定を受けた。その結果、加療を要すと診断され、騒動の前後も一時的な心神喪失の状態で正常な判断力はなかったとして起訴は見送られた。
月村は警察から病院へと身柄を移され、白い壁に囲まれて呻吟する毎日をおくった。顔を洗面器や便器に突っこんで吐こうとしても吐けない苦しさに苛まれていた。薬でも打たれたか飲まされたのかもしれない。ベッドのなかで身もだえしながら月村は死を考えていた。自分が果たせなかった死は、いともたやすく真奈美をうばっていった。あんなにあっさりと人は死ぬものだろうか。そんなはずはない。おかしい。すべてが茶番のようだ。たぶらかされたのか。だがなんの目的で、だれの魂胆なのか。
死神たちが乱入した場面が繰り返し月村を襲う。やはりあいつらが真奈美を連れ去ったのだ。真奈美の魂、すなわち空気に限りなく近いなにかを、あいつらが持ち去ったのだ。しかし、そんなもの、持っていきたければ持って行け。おれはそんなものには用はない。体こそが真奈美であり、その目がしぜんとみずからの力でひらくことが、のぞむすべてだ。死神がいくら魂をぬすんでいこうが知ったことか。ああ頭が痛い。この頭痛が消えたら真奈美をさがしに行こう。
部屋はうすぐらいが暗闇ではない。ぼんやりと目に入るカーテンやちいさなライトが、かろうじて月村を尋常な世界にへばりつかせてくれている。
ここが精神科の病棟の一室なのを月村はもちろん理解していた。だから積極的に自分の置かれた窮状を訴え、真奈美の死の非現実的な感覚が根底にあって、だからその死をうまく受け容れられないのだと説明した。
それに対して医師は、もうあなたは答えを出して受け容れている、奥さんについて「死」という言葉を使っておられるではないですかと多少同情するような口調でしずかに言う。
月村はそうかもしれないと思いながら、いやちがうとつぶやく。死が問題なのではなく、真奈美の不在がおかしいのだ。それだけのことなので、べつに真奈美が死んでいようがいまいが、どちらでもいいのだ。いますぐに、ここに真奈美があらわれてくれさえすればそれでいい。医師にそう告げて顔をあげた。
「おかしいでしょうか、こんなふうに考えるのは」
「あなたはたいへんなショックを受けられた。緩衝剤としてそんなふうに考えて奥さんの死をあいまいなものにしたいのでしょう。そのために、結果としてあなた自身が虚構にならねばならなくなった。あなたがおっしゃった非現実の感覚はここに由来するのだと思います」
「真奈美の死を認識している自分、その私自身から逃避している、ということでしょうか」
「逃避もしくは否定。自己否定ですね」
「じゃ、ここにいるこのわたしはだれでしょう」
「虚構もまたあなたです。現実のあなたも虚構のあなたもおなじあなたです。ただちょっと虚構がつよくなって、それであなたはここにいらっしゃった」
「はあ」
「虚構はだれもがもっているものです。それが、人間の人間たるゆえんなのでしょうが、コントロールがきかなくなると、医師の助けが必要となります。わたしは医師として、あなたが、ご自分であなたの虚構をコントロールできるようになるまで、ごいっしょさせていただきます。まあ、ここでしばらく休んでいく、くらいの気持ちでいてください」
そんなふうに医師は月村に接していた。医師が好意的だったのは月村と年齢が近いせいもあっただろう。また、妻に先立たれたか離別された中年男の臨床例をいくつか経験し、我が身にもひき比べて同情を禁じ得ないのかもしれなかった。だからカウンセリングには私情が随所にはさまれることになった。
月村はやがて隔離病棟から一般病棟へ移され、時を経ずして秋の気配が訪れたころ退院の許可が出た。保護観察の身分だが週に一度通院すればよい。月村は誓約書やほかの書類にサインして手続きを済まし病院を出た。
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アパートの部屋はまだ契約が生きていた。退去になって然るべきだが、入院中にもかかわらず月村が清掃などの手配をして後始末に努め、家賃の引き落としも継続したため、大家が容認してくれたのだ。どちらにせよ事故物件なのでほとぼりが冷めるまで新たな入居者は望み薄だっただろう。医師はアパートに戻ることに反対したが、ほかに住むところが見つかるまでと約束して認めてもらった。
月村は駅に降り立ち、改札を出た。自分が取りおさえられた商店街に差しかかると、はっとした視線にいくつか出くわした。顔を見合わせ囁きあう者もいる。月村は足早に通りすぎた。
アパートへの路地に差しかかったときにはさすがになつかしい思いがあふれてきた。これでノアでも迎えに出ていてくれればと思ったが、姿はなかった。
朝の光の下、見あげるとアパートの出窓には見覚えのあるカーテンが引かれていた。月村は安堵する。階段をゆっくりとあがってカギをと思って持っていないことに月村は気づく。真奈美を腕に抱いて逃げだしたのだ。カギなど持って出るはずがない。月村は駅前まで引き返し、管理している不動産屋に入った。担当者は不在だったが、すぐカギを出してくれた。うすい白髪の月村は事務の女と顔を見合わせて目くばせをしていた。
部屋のカギをあけてドアを引いた瞬間、消毒液の臭いが漂ってきた。カーテンをあけて窓をあけ、空気を入れ替える。ベッドは処分されていたが、ほかのものはそのままでハンモックも吊ってあった。月村は押入から予備の布団や毛布を引っぱり出してベランダに干す。
ハンモックに横になり、遠くにまだ残る蝉の声を聞きながら月村はこれからどうしたものだろうと考えた。目を閉じていると玄関ドアでカリカリと音がする。まさかと月村が跳んでいってドアを開けると、隙間から小さな黒っぽい毛のかたまりが忍び入った。ノアである。
「なんだ、おまえ生きていたのか」
元野良なので食うには事欠かなかったのだろうが、しかし、よく見ると前肢から後肢にかけての胴体が痩せて骨張っている。大きな顔がいっそう大きく見えた。ノアは月村の顔を見てほっとしたようである。キャットフードをと探すが処分されたらしく猫用の食器だけが片隅に寄せてあった。月村は買い物に出る。替わってノアがハンモックに飛び乗った。
その日からまたアパートでの生活がはじまった。真奈美が入院していたときと同じく、月村とノアの共同生活である。ただ、もう病院へ行く必要はない。月村は朝早く起きて日がな一日、開け放った部屋でハンモックに寝そべっている。
ノアは新調したベッドの上で日差しの境目あたりに寝ている。日が移動して影になるとまたのろのろと起きて日が当たっている部分に移動する。まだ暑いだろうにお日様が好きらしい。ベッドの端っこあたりは一日ずっと日が当たっているのに、わざわざ日と陰の境目あたりに寝そべって影になるたび移動する。猫のすることはよくわからない。ドアは例によって細めにあけてあるが、トイレも室内にあるので出て行くようすはない。
テーブルの下に白い布が見える。骨箱である。真奈美の遺骨が中の骨壺に収まっている。警察から連絡があって引き取って来たのだ。真奈美の親族には、警察から連絡が行っているはずだがなにも言ってこない。月村も連絡はしなかった。
ハンモックからぼんやりと骨箱を見ていた月村は、仏壇を用意しようとふと思い立った。供養のためではない。仏壇があれば真奈美がそこから帰ってくるのではないかと閃いたのだ。
『仏壇は箱だからこの世との区切りになる。結界だ。日常から隔てられた仏壇の内部には非日常が醸成されるにちがいない。時間の流れがよどみ、ゆがんだ空間は異域や冥界といったものに通じていても不思議はない。通路や出口がないと真奈美は帰ってきたくても来られないではないか』
月村の思考は再び歪み始めていた。
月村はネットで探しあてたチェーンの仏壇店に向かう。その店は幹線道路に面しており、いちめんのガラス張りで店内のようすは外からよく見える。壁面をずらりと仏壇が並んでいる。手前のテーブルには線香やお鈴、位牌、数珠などが見えた。自動ドアを入ると、奥の事務机の向こうから声がかかった。月村はかるく会釈して仏壇を見て回った。箱であればなんでもいいのだが雰囲気はだいじである。引きつけられるものでなくてはと思う。
ガラス張りのモダンなデザインに目が止まった。小ぶりでタンスの上に置くタイプだ。すこし高額だが手が届かないほどではない。
「これ、持ち帰りできますか」
「それはディスプレイ用なので倉庫からお出しします。夕方までにはお届けできます」
薄墨色のベストを着けた年配の女性が応対する。月村は、その正面扉がガラスで桜材製のコンパクトな仏壇を購入することにした。
「ご宗派は」
そう訊かれて月村は首をひねる。はて、実家の宗派はどこだったっけ。真奈美のほうのもわからない。
「いま必要ですか」
「お仏壇はご本尊を安置するものなので、宗派によってご本尊がちがいますから」
考えても見当もつかないし、調べようがないことはないが面倒だった。
「ふつうのでお願いします」
月村がそう言うと女性は笑った。
「じゃ、阿弥陀様にしておきましょうか」
木彫りの彫像と掛け軸があるそうで場所をとらないように掛け軸とスタンドをセットにしてもらう。香炉と線香、ろうそく立てとろうそく、花瓶も買う。位牌には俗名を刻んでもらうことにした。とりあえず小物だけ持ち帰って仏壇を待つことにする。
外出ついでに月村はたっぷりと買い物をする。スーパーに仏花があったので二つ買った。いったん部屋に帰って買い物袋を置くと月村はひさしぶりに散歩に出る。
歩いて三十分ほどのところに大きな公園があった。真奈美とよく行った場所である。そこをめざして月村は歩き始めたのだが、しばらく歩かなかったので十分もしないうちに足が重くなった。鉛の靴をはいているようだ。それでも月村は額に汗をにじませながら歩をすすめた。やがて足の重さは気にならなくなった。住宅街をぬけて大通りに出る。地下通路をたどって、かつては用水として使われた小さな川の道に入る。ニレの裸木がもの言いたげな枝ぶりを青い空に張りつかせている。
月村は空を見あげ、あの空にむかって落ちていく自分を想像した。宇宙飛行士のように地球から離れていくのである。その感覚はどんなものだろう。墜落する夢はよく見るから落ちるという感覚は類推することができるが、それが空に向かってとなると、とたんに考えがあやふやになる。むしろ飛ぶような感じだろうか。
『重力にさからうことはできない。しかし真奈美はもう体をなくしているのだから重さがない。重さがなければ浮いてしまい、けっきょくは空に落ちてしまうだろう。戻って来たら始終つかまえていなければならないな』
公園に着いて月村はなだらかな丘の斜面をのぼった。小高い丘の頂きに立ち、ふたりでここから街を見下ろしていたものだった。
月村の記憶の遙かから真奈美の姿が浮かびあがってくる。怒っている。かんかんになってあたりはばからず怒鳴りちらす。真奈美の視線の先にはおれがいたはずだが、あのとき真奈美はなにを怒っていたのだろう。顔はべそをかいている。うつむいて両手で顔をおおいかくし肩をふるわせて泣きじゃくる。
月村はその記憶に圧倒されて手近のベンチにどっと腰をおろした。ベンチの先客の親子がびっくりして立ち去った。月村はかまわず真奈美の回想をつづける。
真奈美はベンチに月村とすこし間を空けてすわっていた。日差しが真奈美の顔に落ちてきて残る隈なく光で満たす。真奈美は大きく息を吐く。愁いにしずんだ横顔を見せ、両手を広げて失望の意を示した。
月村は言葉がみつからなかった。時間は流れ、風が舞いおりて月村のかたわらを通りすぎる。風は気まぐれにまつわりつき、また空にもどっていく。
月村はぼんやりとベンチの背にもたれ、風のゆくえを追うように天を見あげる。頬をあたたかいものが流れているのを感じた。涙だ。涙であるとわかるといよいよ激しく頬はぬれた。とめどなく流れる涙を月村はあおむいたまま拭おうともしなかった。
暮れかかるころ帰るとアパートの前にミニバンが停まっていた。むこう向きになった運転手が月村の部屋のようすを気にかけているようだった。もしやと見ると仏具店の名前が入っていたので月村はミニバンの窓をたたく。
「あ、月村さん? よかった。帰ろうとしてたところなんですよ」
部屋まで運んでもらって玄関で梱包材を解いてもらう。
「あとはやります。ありがとう。ええとこれ、向きはどの方角でもいいんですか」
「とくに決まった方角はありません。まあ、本山や西の方角を背にするとかあるようですけど、どれも考え方のひとつにすぎません。拝みやすいところで風通しがよくて湿気がなく、日が直接当たらなければどこでもどんな向きでもかまいません」
月村は出窓にでも置こうと考えていたのだが、日光が直撃するのでやめにした。テレビの上の棚を片づけてそこに置く。置いてみると危なっかしい。ハンモックの吊りヒモがぶつかりそうなのだ。
『ハンモックを窓側に位置変えしようか。いや、この際だから片づけてしまおう』
ちょうど吊り金具が怪しくなりかけていたところだ。ノアは不服そうに月村がハンモックをたたむのを見ていた。
仏壇のなかに本尊を安置する。真奈美の位牌を奥に並べる。骨壺は仏壇の横に据え、手前のスペースに香炉とろうそく立てを置く。仏花を入れた花瓶をのせてこれでよし。月村はろうそくに火をつけ、線香を三本立てる。ここまでやると手を合わせなければ恰好がつかない。月村はすこし躊躇したが、手を合わせてこうべを垂れた。
あとはここから真奈美が帰ってきてくれるのを待つばかりだ。
それから月村は毎日、朝昼晩とろうそくを点けては線香をあげ、手を合わせた。やがて般若心経を我流で暗唱するようにもなった。観自在菩薩行深般若波羅蜜多時で始まるコンパクトな経は、存在は空であり、空が存在であると説く。その教えが月村にはしっくりと胸にはいってきた。観自在菩薩とは観世音菩薩、つまりは観音様だ。月村は西遊記に出てくる観音菩薩をイメージした。悟空を制御しつつ寄り添う慈愛に満ちた存在である。仏はすべて性差を超越した存在だが、観音はきわめて女性的だ。