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長夜  作者: すのへ
6/9

6 長夜



 アパートに着くと月村は無我夢中で真奈美を背負って階段をあがった。真奈美をベッドに横たえ、ていねいに布団をかけてやる。出窓のカーテンをあけ放って、自分は吊ったままのハンモックによじ登った。入れ替わりにそこで寝ていたノアが下におりて真奈美の布団の上で体を伸ばした。

 月村は半身になって体をのり出し、長いことまばたきもせずに真奈美を見つめていたが、やがてまぶたの裏に光をまぶしく感じながら眠りに引きこまれ、夢も見ないでぐっすりと眠った。

 腹のあたりがいい気持なので、へんだなと思って見るとノアが前肢で腹を掘りかえしていた。食い物を寄こせというのだ。

 部屋はまっ暗で時計を見るともう深夜だ。月村はハンモックからおりて灯りをつけ、ふと窓のほうへ視線をやって卒倒しそうになる。人影が見えたのだ。しかしそれはガラスに映る自分の姿だった。神経がまだ高ぶっているにちがいない。

 カーテンを引いてベッドを見ると真奈美は布団の下でおだやかな顔を見せていた。その顔を見て月村は意識の混乱もなく明瞭に真奈美の目覚めを確信している自分を見いだしていた。もうひとりの自分である。分裂した自我の片割れだ。

『待とう。真奈美は目覚めるにちがいない』

 月村は後退する意識のなかで、狂気に従っている自分を自覚した。ジャケットを着たままだったので脱ごうとしてポケットの封筒に気づく。表書きに死亡診断書と書いてある。主治医から渡されたものだ。

「こんなものはもう必要ない」

 月村の声が言っていた。その声がまぎれもなく自分の口から出たことにショックを受ける。その声を否定しようとしたが、もう発した声をどうすることもできなかった。封筒は机の上に置いた。ノアのしっぽが月村の足にまとわりついていた。

 月村は猫の餌をテーブルの下に置き、食事のしたくにかかった。ご飯を炊き、みそ汁をつくる。あり合わせの豚肉やキャベツで炒め物をこしらえて皿に盛る。真奈美の寝顔をテーブル越しにながめながら箸をとった。きょう初めての食事である。月村は真奈美が身近に戻ったせいか、いつになく気分は高揚している。いまはぴくりとも動かないが、真奈美の横顔はこのうえなく美しかった。その顔をこれからはずっと夜も見ていられるのだ。二人きりの生活に戻った喜びを月村はしみじみと感じた。

 食事を終えた月村は灯りを消し、真奈美のベッドにもぐりこんだ。奇妙に乾いた真奈美の唇に接吻し、その唇を湿らせてやる。さらに、そっとつつみこむように腕をまわそうとすると、真奈美の体は丸太のように堅く、月村の腕を拒否しているかのようだった。

 月村はひるんだが、そのまま真奈美の体に寄りそって、まんじりともせず夜を明かした。陽はのぼり、朝の光が部屋に差した。レースのカーテン越しに光はまっすぐ真奈美の顔にとどいた。光は皮膚に浸透し、真奈美の顔に生気をあたえた。月村はベッドから出て満足げに真奈美の顔に見入り、目覚めのときが近いことをあらためて感じるのだった。

 月村は病院ですごしたように希望にいだかれた朝を楽しみ、お昼は真奈美の顔をながめながら食事をし、コーヒーを手にふたたび真奈美のかたわらにすわる。午後のやわらかな光が部屋を移動していき、月村はここちよい眠りにさそわれる。しかし、眠りのなかに真奈美が出てくることはもうなかった。

 傾いた陽が部屋の白い壁を燃えたたせるころ、月村は買い物に出た。銀行に寄って家賃の入金を確認する。入院費を支払えばあらかた消えてしまう。生活費をどうしようか。真奈美はあんな状態だから食費はかからない。自分と猫だけなら切り詰めようはあるだろうと月村は楽観する。いまさらどこへも援助を乞う気にはなれなかった。米と野菜と肉を買ってアパートにもどる。下の道路から出窓をふと見あげると、残照にガラスがきらめいた。そしてそこに人影が差した。

 真奈美だ。真奈美がこちらを見おろし、うすく口をあけて頬笑んでいる。月村の顔はぱっと輝き、買い物袋をふりまわして階段をかけのぼった。鍵をあけるのももどかしくドアをあける。部屋に飛びこむや、灯りをつけもせずベッドを見る。

 暗い影から浮かびあがるように真奈美の真白い顔があった。出窓にはなにもなく、真奈美がそこに立った形跡もない。真奈美は月村が出かける前と変わらない体勢で身を横たえていた。月村はがっかりして部屋を見まわす。暗がりで動くものとてない。やがてごそごそとハンモックで気配がする。灯りをつけるとノアが飛びおりてきた。しっぽを月村の脚にまとわりつかせてごはんの催促をする。

 月村は食事の片づけをすませると真奈美の枕元にすわった。綿棒とティッシュをつかって真奈美の唇を濡らしてやる。腕をとってみるとなんだかくすんでいる。手の甲にはシミの跡のようなものが浮かんでいた。月村はそれを見て、そうだ、病院では風呂にも入れなかったのだから、久しぶりに入浴させてやろうと思いたつ。バスタブにすこし熱めの湯をためる。

 真奈美の下着の替えを押し入れから引っぱりだす。お湯がたまると、まず真奈美のパジャマと下着を脱がせて洗濯機にほうりこむ。自分も裸になって真奈美をかかえあげ、ユニットバスに入りこむ。真奈美を浴槽のなかにすわらせ、自分も真奈美と向かいあって湯に浸かる。お湯がどっと流れでる。真奈美の頭はがっくりとうなだれ、体を支えていないと湯のなかへもぐり込んでしまいそうになる。月村は体勢を変え、真奈美の体を背後から脚ではさむようにしてみた。このほうが具合がいい。

 月村はシャワーをセットして真奈美の髪をシャンプーしてやる。使い慣れたシャンプーの香りが真奈美の髪に浸透していく。艶が出てきたみたいだ。湯舟が泡でいっぱいになり、湯が濁ってきたので湯を入れながら栓を抜いて入れかえる。スポンジを手に真奈美と自分の体を洗う。お湯のせいか真奈美の体はほんのりとあたたかくなっている。真奈美の体に自分の体をこすりあわせているうちに月村は頭の芯がしびれてきた。めくるめく快感がおそう。

「ああ」

 ため息ともつかぬ声を発して月村は真奈美の体を抱きしめていた。一瞬だが真奈美の体がびくんと痙攣したような気がした。

 体を拭いてやるのはひと苦労だった。立たせておくのはムリなので、床の上にバスタオルを何枚か敷いて尻もちをつかせ、バランスをとってたおれないようにし、ドライヤーもかけてやった。ベッドに運び、下着やパジャマを着ける。

 ふと気がつくとハンモックからノアがこちらを見おろしていた。いつになくその目が光っている。低い唸り声が聞こえる。背の毛が逆立ち、前肢でみょうな動きを見せていた。なにかを払うような仕種だ。月村はノアのようすに不安を抱いたが、それより、いましがた思いついたことに気がとられていた。真奈美の添い寝をするのだ。冷たい体は温めてやる必要がある。

 月村はパジャマを着てベッドに入った。腕をまわして真奈美の体を包みこむように抱いた。もう決して離さない。こうしていればいつもいっしょにいられる。真奈美が目覚めるときには必ず居合わせることができる。いまの二人にとっては理想的な体勢だ。

 朝が来て月村は抱いている真奈美の顔をのぞきこむ。いっしょに寝てやっているせいか真奈美の肌に赤みがさしているような気がした。これはひょっとすると、ひょっとするかもしれない。やはり医者はいいかげんだ。折りをみて病院と医師に抗議しよう。ただ、いまは真奈美をこの手から離さないことだ、なにがあろうと。

 とはいっても腹はへる。月村はもそもそとベッドから這い出して朝食のしたくにかかり、洗濯機をまわした。ハンモックからノアが顔だけ出している。いつもなら月村が台所に立つと足もとをうろうろし、しっぽをからませて食餌の催促をするのだが、今朝はハンモックからおりてこない。それどころか月村のほうは見ずにまたもや真奈美のほうをじっと見おろして低い唸り声をあげている。月村はハンモックに手をのばし、すっとノアの腹から手を入れて抱きあげ、テーブルの下の皿に導いてやる。ノアはすなおにドライフードを食べはじめる。食事をすませて月村がふたたびベッドに入ろうとしたとき、ノアがしきりに内扉を見あげて鳴くので、外へ出たいのかとドアをあけてやる。ノアはするすると外に出てふりかえりもせず、階段をおりていった。月村はチェーンだけおろし、ストッパーで猫の頭ほどのすき間をドアにあけておいた。

 その日、午前中いっぱいベッドのなかで月村は真奈美を抱いていた。いまにも真奈美が目覚めそうな気がしたので唇を合わせて息を吹きこんだりした。体じゅうのマッサージも試みた。体内でなにか音がしているようなのだが、それが命の活動に直結するものかどうかはわからなかった。月村はしかし幸せな気分だった。命が目覚める手助けをしているのだ。指の動き、脚のからませ方、息のふきかけの強弱など、すこしずつ変えてやってみる。病院では、やりたくてもできないことだった。いまは存分に好きなようにやっていいのだ。月村は考えられるかぎりのアクションを試そうと思った。時間はいくらでもある。ようやく午後になると月村は真奈美の体にぴたりと身をよせたまま眠った。

 月村は夢を見た。電車に長いこと乗っている。ようやく降りた駅には朽ちかけた柵の内側に桜の木が植わっていた。桜は花を落として久しく、緑の葉が涼しげにゆれている。改札口を出ると田んぼにはいちめん菫の花が咲きみだれていた。

 汗ばむほどの陽気にさそわれて月村はかまわず足を踏み入れてすすんでいく。ミツバチが飛んでいる。ゆるやかな起伏になったので、田んぼなのにこれはへんだと月村は思う。バス停がある。あそこからバスに乗らなくてはと急ぐとちょうどバスが出るところで、月村は声をかぎりに叫んでドアを開けてもらって乗りこんだ。

 谷川がはるか下方に流れている。こんな山道ははじめてだ。まばらな乗客はすべて降りてしまった。川の流れが間近くなってやがて遠ざかる。

 月村は野原のまんなかの掘っ建て小屋があるバス停で降りた。山をひとつ越してきたことになる。

 月村は野原を歩いた。陽はまだ高く、気温はさらに上昇しそうである。水が飲みたいと思った。掘っ建て小屋に戻るのもめんどうなので道をつづけると井戸があった。緑色のポンプがすえつけてある。何回かレバーを押してみる。いくら押しても汚れた水しか出てこない。しかたないので手で漉して飲む。なんだかカルキくさくてがっかりする。

 すぐに腹が痛くなってきた。トイレをさがすが、ない。野原なのでしゃがんでしまえばすむことだと、てきとうなところでズボンとパンツをおろしてしゃがむ。足もとの黄色い土の上をアリが行列をつくっていた。用がすむとなに食わぬ顔で立ちあがり、もとのように歩きはじめた。

 草の原がとぎれて水田が広がった。あぜ道を踏んで行くと大小の山々があらわれた。谷を進む。

 森に入ったとき、仙人をさがしにきたのだと月村は思い出した。弟子入りするのである。弟子になって生死を超越する術を学ぶのだ。

 どのあたりにいるのだろうか。森か山に行けば修業中の仙人がひとりやふたりは必ずいるはずだ、そう聞いてきたのである。だれにどこで聞いたか思いだせない。いや、本で読んだのかもしれない。仙人はヒトとの接触をきらうからめったに姿を見せない。四方八方、足の下や木の枝にも注意を払わなくては。木漏れ日がちかちかする。

 干あがった沼にでた。荒涼たる風景が日にさらされている。自分の心象をながめているような気がした。

 その日から月村は真奈美を腕に抱いたまま眠ると夢ばかり見ていた。しかし真奈美が夢に現れることはなかった。思いどおりに夢が見られればと嘆息したが、真奈美がかたわらにいることで満足していた。

 ノアは出ていったきり戻ってこない。もともと野良猫なので心配はしていないが、念のためドアは買い物に行くとき以外はいつでも猫が入れるようにしてある。しかし何日か雨がつづいたが帰ってくる気配はない。先日の夢のなかで、月村の上に落っこちてきたノアは頭を強打しているはずだ。どこかで動けなくなっているのかもしれない。夢が現実に混入し、架空の出来事をそのまま事実として月村は解釈していた。だから月村は自分もいつか卒倒するかもと恐れた。卒倒して死ぬとして未練があるとすれば真奈美が目覚めるところにいまだに立ち会えないでいることだった。

 月村の目は真奈美しか見ていなかった。しかし変わり果てようとしている真奈美の姿には関心を示さなかった。存在の無への腐敗は確実に進行していた。月村はうつろいゆく皮膚や筋肉の状態を熱心に見守った。変容は真奈美が蘇生するために通らねばならない過程なのだと思った。

 梅雨の晴れ間の午後、部屋を浸食する小さな白い物がすき間もないほど無数にうごめき、まるでひとつの有機体のようにうねっていたが、それは月村の意識にはのぼってこなかった。月村はなんの気なしに足や体でそれらを踏みつぶしていた。

 買い物には出かけるが、なにを買っているのかよくわからなかった。銀行口座でお金を入れたりおろしたりしているが、どれほどの意味がその操作にあったのか思い出せない。食事をとって排泄し、真奈美のベッドに入る。真奈美の体がむずむずと動く。ウジ虫の顫動が月村の体に伝わり、月村は錯乱の果ての快感に恍惚となった。

 それからいくつかの昼と夜が過ぎた。月村はもはや買い物どころか食事も満足にとらなくなり、真奈美のベッドに入っている時間が長くなっていた。光と闇が交錯したが、それは頭上はるかな水面でおきていることのように月村は感じていた。なぜなら月村は自分が水のなかにいると認識していたからである。水をつたわって音が届くが、その声は不分明でなにを言っているのかまったくわからず、肌にまつわりつく水の流れは、なにものかがうごめくように濃密だった。

 月村の意識はすでに混濁して久しいが、分散し散逸しそうな自我にあってもなお真奈美への思いだけは強く残っていた。月村の目は眠っていないときは真奈美だけを見ようとしていた。しかしその目の焦点は合わず、ふわふわとさまようばかりで像を結ばない。ただ真奈美が目覚めれば、もうこのまま意識がどこへ飛びたとうとかまわない。そんな思いが月村の意志に関係なく目の上あたりでうずまいているようだった。そんな感情も、いま現在ではなく、ずっと前に抱いたことのようにも思えた。

 ある朝のことだった。ひさしぶりに陽の光がレースのカーテンをとおしてベッドに落ちてきていた。月村はもう空もようのことなど関わりのない世界にいたが、それでも何日かぶりの日光にはふと心をそよがせた。

『光だ』

 そのときだった。大きな物音につづいて声が騒ぎ、荒れた風が押し入ってきた。次の瞬間、白い光が乱暴にさえぎられた。マスクをした者らが何人もベッドの枕元に立ち、いくつもの目が月村と真奈美を見おろしていた。月村はとっさに上体を起こして真奈美をかばった。耳をつんざくような悲鳴が聞こえた。しかしその声はほかならぬ彼自身のものだった。月村が声をかぎりに叫んでいたのだ。

 このとき月村の目に見えていたのは警察の制服や背広姿の者たちではなく、ぼろぼろの黒衣に身をつつみ髑髏を頭巾で覆った死神たちであり、いままさに大きな鎌をかまえて襲いかかってこようとしていた。

『真奈美を連れに来たな。おまえらの思いどおりにはさせないぞ』

 月村は布団で真奈美の体をくるむと、どこにまだそんな力が残っていたのか軽々と抱えあげた。小さなきらきら光るものが周囲に飛び散る。無数の蛆が宙にばらまかれた。

「うわぁ」

 闖入者たちがひるんだ隙に月村は身を躍らせてドアへ突進した。何人かを突き飛ばして階段を転げ落ちるように駆けおりる。

 道路はパトカーや救急車が道を塞いでいた。パトカーのまわりにいた者たちは月村のようすを見て仰天した。月村は周囲のことなど気にとめず駆けた。見物人の間を路地の入り口へ走った。警察官が後を追う。パトカーも方向転換して追跡にかかった。月村は路地の口を抜けて駅につながる通りへ向かった。

 パトカーのサイレンがふだんしずかな商店街に響きわたる。月村はどこに行く宛てなどなく、ただ真奈美を連れて逃げることしか頭になかった。大声でわめいて真奈美の体をしっかりと抱えて闇雲に駆けた。人々の悲鳴の真っただなかを、足がもつれて転びそうになりながら月村は逃げた。

 これが最後の受難だ。この向こうに行きさえすれば死神の手はもう届かない。苦しい息をふりしぼって月村は叫ぶ。言葉にならない叫びがサイレンにかき消された。行く手をパトカーにさえぎられ、月村は逃げ場をさがす。追ってくる者たちはすぐそこに迫っていた。逃げまどう通行人のなかへ月村は突進する。わっと散る群れにひとり、月村を見つめる目があった。月村ははっとしてその目に縛られたように凍り付く。

 真奈美だった。

 かつて見たことのないおだやかな笑みをたたえた真奈美が、群衆からはなれて月村のほうへゆっくりと近づいてくる。手を伸べ、小首をかしげて口をうすくあけ、もの言いたげな風情で月村を見ている。

「マナミ!」

 月村が名を呼ぶと、その姿がふっと消えた。月村は「あ」と叫んで膝からくずおれた。しっかりと抱きしめていた腕のなかの真奈美のむくろを、月村はいまはじめて見るように目の下へおずおずと移してみた。

 土に還ろうともがく肉が浅ましく物凄く蠢き、ぽたぽたとしずくが垂れている。月村は呆然として虚空をみつめ目をみはった。はげしい懊悩に襲われ、衝撃が体をゆらす。

 月村は自分の手が腐肉を放すのをスローモーションを見るように細部まで明瞭に見ていた。肉のつぶれる音がする。恐怖が、体の底からこみあげてくる。はげしいめまいが襲う。月村は上体をふらふらさせながら、かろうじてたおれるのを耐えていた。

 警官が走り出て手早く月村を取りおさえた。両腕の自由をうばわれたとき、月村ははっと足下を見る。そこにはまぎれもない真奈美のむくろが背を丸めて横たわっていた。月村は自分がなにをしたかを見て、もういちど体じゅうの力をふりしぼって警官たちの手をふりほどいた。

 かがみこんで真奈美の体を抱きあげる。腐肉の飛沫がはねて人々の足が一歩退いた。月村は肉がくずれるのもかまわず真奈美を思いきり抱きしめた。もう叫ぶことはなかったが涙がとめどなく流れて嗚咽がもれた。人々の群れは固唾をのんで月村を遠まきにしている。ぽっかりとあいた空間は月村をしばらく真奈美とふたりきりにしてくれた。



 ふだん閑静な住宅街を襲ったこの騒動の発端は異臭だった。

 アパート周辺で三日ほど前から変な臭いがすると複数件、警察や消防に通報があった。警官が二名訪れ、すぐに腐臭だと見当をつける。臭いをたどって月村のアパートに辿り着いた。一階の玄関ドアを見て回ったがそれらしい部屋はない。

「二階だな」

 鼻をひくつかせながら階段を上がると、一番手前のドアのすきまから臭いが強く漏れ出ている。この部屋が異臭の元だと推測された。ノックしても応答がないため管理人を呼び出し、不測の事態に備えて救急車も要請した。また、事件性を排除できないので応援の警察官も招集された。

 管理人立会のもと合鍵でなかへ入るや、蠅の大群が襲ってきた。

「わ」

 管理人は恐れをなして階段を駆け下りていった。警官はドアを開け放して室内へ入り直す。そこは澱んだ空気が重く垂れ込めた惨劇の場であり、修羅の世界だった。

「おい、生きてるぞ」

 腐敗粒子の霞が立ちこめたベッドの上を覗き込んで警官が確認し、待機していた救急隊員が駆けつけたのだった。

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