表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
長夜  作者: すのへ
5/9

5 渡界



 スマホが鳴っていた。まだ外はうす暗く、夜は明けきってはいなかった。明け方の電話といえばわるい知らせに決まっている。しかし、眠りを破られた月村はまだ夢のなかにいるようで、頭部に痛みさえ感じていた。ハンガーにかけてあった衣類をたぐりよせながらスマホを取った。やはり病院からである。主治医の声ではなかった。当直医だろう。

『奥さんが』

 くぐもった声が告げていた。月村はつとめて平静さをよそおいながら、相づちを打つ合間に考えていた。

『こっちが夢ならどんなにいいか』

 真奈美を連れに行かなければと月村は思った。そのときおどろくほど鮮明な声が耳に飛び込んできた。

「さあこれからだ。ようやく始まった。急げ!」

 電話に割りこんできたのは自分の声らしいので月村はぎょっとした。

『もしもし。どうされました』

 医者がおどろいて訊く。

「いいえ、なんでもありません」

 月村は通話を切り、着替えて外に出ようとすると足下でノアがしっぽをからませてきた。見あげるその顔がなんかへんだ。目をしょぼつかせて片耳を垂れさせている。どこか痛むのだろうか。

『まさか夢のなかで衝突したことで』

 そう考えて打ち消すように頭を振り、月村はキャットフードを皿に山盛りにして水も換えてやった。

 ようやく明けてきた空の下、月村は駅前でタクシーをひろって病院に急いだ。走るとともに街は重い雲におおわれてくる。すぐにでも降ってきそうな空もようだ。人通りはほとんどない。クルマもすくないから意外なほど早く病院に着いた。

 通用口から入って病棟に向かう。

 病室に入ると真奈美のベッドは片づけられていた。棚の私物もなく、新しいシーツに毛布がセットしてあった。名札もない。

『どういうことだ』

 看護詰め所へ行くと、顔見知りの看護師が対応してくれた。

「巡回の間にお亡くなりになられたようです」

 同じ階の別室に案内される。

「安らかなお顔をされています」

 ドアを開けて入ると殺風景な部屋の真ん中にベッドに横たわった体がある。顔に白布がかけてある。真奈美だ。

「あのう」

 看護師が言いにくそうに葬儀屋の手配はどうされますと訊く。月村は、はっとしたがすぐに目をそらし、とりあえずはアパートに連れ帰り、その上で親類とも相談しなければならないので知人にクルマを頼むと答えた。

「そうですか」

 看護師は一礼して出ていった。月村は部屋の隅にあったパイプいすを引き寄せて真奈美の枕元にすわる。こんなところから一刻も早く真奈美を連れ出さねばと思う。

 白布をどけると真奈美の顔があらわれた。目は閉じているが頬には赤みがさしている。

 立ちあがって真奈美の両方のまぶたを開けてみる。その目をのぞきこむと、瞳孔は大きくひらいていた。その顔に自分の顔を重ねて唇を合わせる。リアクションはない。それが当然なのに自分が不審を抱いているらしいので奇異な感じがした。そっと真奈美のまぶたを閉じてやり、イスにすわって頭をかかえる。夢でノアがぶつかってきた箇所がずきずきと痛んだ。

 やがてドアが開き、看護師と主治医があらわれた。月村は立ちあがって深々と頭をさげていた。

「いろいろとありがとうございました」

 月村の声が言っている。ここでも月村は自分とはべつのところから声が出ているように聞こえ、ぎょっとする。

 医師の指示で看護師がストレッチャーを押し、その後ろから月村と主治医が無言でつづいた。エレベーターは地下に降り、左右にならぶプレートに霊安室と書かれた部屋のひとつに入る。かんたんな祭壇が設けられており、主治医がロウソクを灯して線香に火をつける。看護師とともに合掌して出ていこうとする間際、主治医は月村に死亡診断書を手渡す。

「お見送りさせていただきますのでお迎えが来たらそちらのインターフォンで知らせてください」

 そう言って壁にかかっている電話機を目で示した。

 月村は霊安室にひとり残された。イスがいくつか並べられており、その上に透明なビニール袋が置いてあった。入院中にあれこれと持ってきた着替えやタオルなどである。その袋のひとつをあけ、真奈美の部屋着を引っぱり出す。救急車でここへ運ばれたとき身に着けていたものだ。

 真奈美をおおっているシーツをはぎ取り、組まれた両手をはずして寝巻を脱がす。あらわれた裸体に顔をうずめたい欲求を抑え、部屋着に着替えさせる。関節はやわらかく、力任せにする必要はなかった。髪を手櫛ですいてやる。なにか履くものをと思って探したが見あたらなかった。

『おれはなにをしている』

 自分の思考が一連の行動から一歩遅れているのに気づく。意志がないままに月村は行動していた。ちょっと離れたところから自分の行動を見ているようだ。夢のなかにいるようなへんな気分だった。

 なにをしようとしているのかは察しがついた。真奈美を連れ帰ろうとしているのだ。べつにそれだけのことならば葬儀屋を呼んだほうが早い。もんだいはその後のことだった。月村の頭には葬式のことなど、これっぽっちもなかった。それどころか、真奈美の死すら認識の埒外に弾かれようとしていた。

『こんなことしてなんになる』

 頭ではそう思うのだが、すでに始まった行動を抑制する術がなかった。もうひとりの月村が行動し、分別のある人格のほうは姿を消してしまっていた。倫理を圧倒する衝動、根元の欲求が月村を支配していた。

 ジャケットをぬいで真奈美に着せると、シーツで真奈美の足元をくるんだ。体を寄せて後ろ向きになり、真奈美を背負うとビニール袋を手にそのまま表玄関によろよろしながら向かった。ポーチで客待ちしているタクシーの一台に月村は背負った真奈美といっしょに倒れ込むように乗りこんだ。タクシーの運転手は真奈美のなにも履いていない足や下半身をおおうシーツなどを見て怪訝そうな顔をした。事情を話すと拒否されるかもしれないと月村は思った。

「急な退院なんだ」

 そう言ってさっさとシートベルトの装着に取りかかった。運転手はそれでも怪しんでなにか言おうとしたが、月村は財布から札を何枚かつかみ出して投げるように運転手に渡した。運転手はひらきかけた口をつぐんでクルマを発進させた。

 すでに陽は高く、朝方あれだけ重くのしかかっていた雲はすっかり払われていた。梅雨の走りの雨になりそうだったのにと見ると、路面が濡れて光っている。すこしは降ったようだ。

 陽の光は路面だけでなく、クルマのボディや街路樹の葉に残ったしずくにもきらきらと映えた。月村は真奈美の肩を腕に抱いたまま光の輪舞に目をうばわれた。吉兆にちがいないと思った。流れる街の風景は強いコントラストで光と影がくっきりとわかれ、なにもかもが鮮明だった。これからまた、真奈美との新しい生活が始まる。

 月村が楽しげに真奈美を抱いて窓の外の風景を見ていると、ふと運転手が視線を投げてよこした。気味わるそうにさぐるような視線を真奈美のほうに向けている。その目がなにかを悟ったようにぎょっとしたような光を帯びた。

 月村はかまわず運転手に微笑みかけ、また窓外の風景に目をもどした。運転手はこんどは月村のほうをまじまじと見つめ、やがておびえたような顔になった。月村はミラー越しの視線もおかまいなしに、うれしそうに真奈美の肩に頭をもたせかけたりしている。その目がふとミラーのなかの運転手の視線とぶつかった。月村がにこにこ笑っているので運転手の顔はいっきょに青ざめる。

 月村は両腕でしっかりと真奈美を抱きしめ、顔を寄せて頬ずりをする。運転手は動揺を抑えながらハンドルを切っていたが、ふと変わりかけた信号で急ブレーキをかけた。そのとき、月村がしっかりと抱きしめていたはずの真奈美の頭がガクンと垂れ、さらに反動であおむけになった。その真奈美の顔にビルの窓ガラスに反射した太陽光がスポットライトのようにまともに当たった。

「ひ」

 運転手は小さく叫んで身をこごめる。予期していたこととはいえ、こんな光景はいい気持なわけはない。運転手は首をすくめて顔をふせ、信号が青に変わるまでのあいだ、低い声で念仏をとなえていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ